2011/04/18

最近観たDVDの映画で良かったもの


『告白』

映画とはこういうものだと言わんばかりの作品。映画という短い時間でうまくまとまっているし映画の良さがふんだんに生かされていた。とにかく映像の見せ方(色とかカットとかスローとか間とか)がすごく良かった。内容というよりは映像。
私は子役の芦田愛菜ちゃんがすごく好きで、彼女を見ていると可愛くって可愛くって簡単に泣けてしまう。この映画にも出ていてやっぱり可愛い。

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『悪人』

妻夫木聡という俳優がこんなにちゃんとした俳優さんだったなんて知らなかった。彼の出ているものをあまり見たことがなかったから。妻夫木くんも良かったけど、やっぱりこの映画は樹木希林がいい。とにかくいい。
それで、この映画を見ながら私はわんわん泣いた。旦那さんもびっくりなくらい大声あげて泣いた。どうしてだか分からないけど、後半終わりかけに泣くスイッチが入ってしまった。
『告白』は映像だったけど、これは人物描写。役者の腕にかかっている感じ。言わなくても心情伝わる。沢山の入り交じった感情がすごくよく分かって、本当にいい映画だった。
静かで淡々としていて、心を描く。こういうの日本は本当に得意なんだと思う。

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『KICK-ASS』

エンターテインメント性が高くすごく面白かった。
ヒーローに憧れる主人公(キック・アス)は特殊能力ゼロ、モテ度ゼロ、体力微妙。そこへニコラス・ケイジ(ビッグ・ダディ)とクロエ・グレース・モレッツ(ヒット・ガール)が演じる親子が現れる。こちらは主人公とは違って本気で強い。簡単にじゃんじゃん殺す。でもそのシーンで流れるのは The Dickies の Banana Splits。そのギャップ感がいい。The Progidy とか The Little Ones とか、曲が全般 POP で UKゲイって感じがいい。

ニコラス・ケイジはバッドマン、マフィアの息子はMr.インクレディブルのシンドローム(私が勝手にそう思っている)、そういうパロディ風なのに内容はすごくしっかりしていて深い。
買い物はネット、MySpaceに登録してたり、携帯で撮った映像がYouTubeで流れ一躍有名になり、マスコミと世間の騒ぎ方だったり、その流行の速度だったり、今の時代そのもの。

ヒット・ガールが言う「力が無いからといって責任を取らなくていいなんてことはない」というような台詞のためにこの映画は作られたように思う。

2011/04/13

THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 4『ファイアズ(炎)』(村上春樹訳/中央公論社)



この本にはエッセイと詩と短編が収められている。
短編はこれまでにも収められていた作品のバージョン違いの作品もある。
『足もとに流れる深い川』は私が特に好きな作品。
今回のバージョンは以前に読んだバージョンで <もっとこうだったらもっといいのに> と思っていた <こうだったら> の部分が書き足されていて、すごくいい。ようやくしっくりした感じ。絶対このバージョンの方がいい。
精神病の徴候のある妻と川に棄てられていた少女をすぐには通報しないで放置していた夫。夫の方は<まとも>だけれど人間として深みがない。語り手は妻だからこの話自体の真実性に疑問もある。
すごくよく考えられているし、すごく興味深い作品。たぶん読む人によって様々な読み方が出来て、どの人間に焦点を当てどの角度から話を見るかでも内容が変わってくる。私は以前のバージョンでも今度のバージョンでも妻の目線でしか読めずこの妻の気持ちがすごく分かるのだけれど、たぶん別の読み方もあるんだろうなとは分かる。

詩について。
詩を読んだのは佐藤泰志作品集以来だ。
もともと私は詩をよむのが得意じゃない。塾で国語の先生をしていたときから詩には弱かった。だからあまり自分から進んで詩は読まない。
収められている詩は4つの章に分けられていて、読み始め私はあまりいいと思えなかった。レイモンド・カーヴァーより佐藤泰志の方が好きだなぁとも思った。でも、2、3、4、と読み続けていると(2はブコウスキーが喋っている設定の『君は恋を知らない』という詩ひとつだけ。これはすごく「ブコウスキーらしく」て、なかなかいい詩だと思う)、だんだん詩の心地良さがしっくりと体に馴染んでくる。詩っていいじゃないかという気にさえなる。どういうところがどういう風にいいとか言うのではなく心に直接語りかけてくるものなんだなぁと気付いた。絵と同じなんだと思った。
そんな風に読んでいてふと思った。
詩は夜に似合うのはどうしてだろう?
夜になると私の中でいくつもの言葉が蛇のようにうねうねと這い出して来る。私の詩のイメージはその蛇に似ている。
アイボリーブラックに透明のグリーニッシュブルーを混ぜた夜の森で、言葉の蛇たちは次から次と生まれ出てくる。
夥しい数の蛇たちは白く光ってゆらゆらと天へ昇って行く。
蛇が身をくねりよじる度に光り輝く粉が宙を舞って散らばる。
私にとって詩はそういうイメージ。だから詩が夜に似合うと感じるのかも知れない。

もう一度この本の詩を読み直してみたいと思っている。


2011/04/05

『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス(清水徹+牛島信明訳/水声社)




あっという間に読めてしまう作品。
つまり、初めから終わりまで興味をそそられる作品。
どういうことなんだろう?と先へ先へ進んでいく作品。SF的推理小説。
本当にとてもおもしろい作品である。

でも私は何か少し物足りなく感じた。
あまりにも簡単に進み過ぎてしまう気がした。
もっと引っ張ってもっと長くしてもいいように思った。

だって本当に構成も題材(内容)もスゴいのだ。

イマージュ、死(不死)、分身、愛情という感情。

提議している内容を普通に語ったらたぶん難しい学術論文になってしまう。
それを小説として形にしているのだからスゴくて当然である。

私はこれを読んでこれまでも考えて続けていることをまたぶり返して考えてしまった。
それは『意識と肉体』について。延いては『死』について。

鏡や写真や映像といった本人を映しているにも関わらず、それは決して本人そのものではないという事実。
写真に映ったその人は写真として存在しているけれど、その人そのものは存在していない。
写真の中のその人は、その人ではあるがその人の実物ではない。

それは、現実に存在するもの(=生きているもの) と 過去に存在したが現在は存在しないもの(=死んでしまったもの) の 対比に似ているように思う。

映ったそれは映されたものの過去の残像であり、過去の記憶の断片でしかない。
どんなに鮮やかに生々しく映っていてもそれは現実に生きているものにはならない。



平野啓一郎の『葬送』にもこれに通ずる似たような描写があった。
ショパンの姉が死んでいこうとしている弟を見て<生きている人間と死んだ人間>について考える場面がある。

現にいるというだけで存在の曖昧さはない。証明も必要ない。

生きている人間の記憶は断片にはならない。

それは生きている人間は未来があり、
その未来にどんな人間にでもなり得る自由があるからである。

要約するとそういうようなことが書かれている。



どんなに生きているような映像であっても未来がなければ生きていることにはならない。

『モレルの発明』という本について感想はあるのだけれど、内容をばらさないように書こうとするとあまりにも複雑すぎてうまく文章にできない。

とにかく面白いからおススメとだけしか言えない。
あとは読んでからのお楽しみ。

どんな人も楽しめる小説だと思う。