2012/03/27

『マルテの手記』リルケ ( 大山定一 訳 / 新潮文庫 )



”  彼らはいずれも自分だけの「死」を待っていた。(中略)子供たちも、いとけない幼な子すら、ありあわせの「子供の死」を死んだのではなかった。心を必死に張りつめて────すでに成長してきた自分とこれから成長するはずだった自分を合わせたような幽邃な死をとげたのだ。”(p23)
 私はふと、東日本大震災の津波で亡くなった子供たちを思った。
 自然災害の死は戦争の空襲での死に似ている。理不尽で不条理な死。
 突然に、誰彼構わず、いっぺんに死に追いやってしまう。
 リルケが言うような「死」が彼らにはない。不慮の唐突な死に襲われた人たちを思うと私は胸が痛くなる。
 想像力が逞しすぎると笑われるかも知れないが、私は時々亡くなった子供たちの叫びが見える。感じるように心に伝わってくるように見えてしまう。それは私をひどく混乱させる。私は現実から乖離していき、自己が消失してしまう。


 『マルテの手記』は、私にはとても合っていた。
 あまりにもしっくりとぴったりとし過ぎて本の中からうまく戻って来れなくなった。
 どの文章(文章という形の感覚や感情が)も、すごく、とても、よく分かる。
 言葉ではなく感覚として私の体の中にすうーっと入ってきて、あっさりと私を「僕」の住む世界へ引きずり込んでしまう。



 文章なんだけれど文章ではなく、それはもうそのまま感覚として在る。
 つまり、たとえば、私がどうしようもない淋しさというのを表そうとすると絵が生まれるように、言葉が感情を表すのではなく、感情が文章に成っている。
 うまく説明ができなくてもどかしいのだが、そこに書かれたことは「心」であって、文章の意味が感覚として伝わるのである。
 リルケの言葉を借りるならば、
 『言葉の意味が彼の血にしみとおり、細かく分かれてゆくような気持ちがするのだ』
 『事物の諸印象は血液の中に溶け、何か得体のしれぬものと一つになり、すっかり形をうしなってゆくみたいだ。たとえば、植物の吸収の仕方がきっといちばんこれに近いだろう』
 そういうふうにこの本の文章は私の心に溶けてゆく。

 これは素晴しい傑作だと私は思う(とはいえ、恥ずかしくなるくらい仰々しい大袈裟な感があるのは否めないが...)。


 『マルテの手記』は『山のパンセ』のように短い話の連続で、物語というのとはちょっと違う。日記、断片的感想、過去の追想などが雑然と並んでいる。無秩序にその断片は並んでいるようなのに、しっかりとマルテという人物の物語として成立している。
 リルケはこの構成についてこのように言っている。
『今度の小説は抜きさしならぬ厳格な散文を目ざしている。』 
『どの程度まで読者がこれらの断章からまとまった一人の人間生活を考えてくれるか、僕は知らない。僕がつくり出したマルテという青年作家の内部の体験は途方もない大きなひろがりを持っているのだ。彼の手記は根気よく探したらどれくらいあるかちょっと見当もつかない。ここで僕が一冊の書物にまとめたのは、わずか全体の幾割かにすぎぬだろう。机の引出しをさがしてみるとどうやらこれだけ見つけることができた、まず差しあたって、ただいまはこれだけでまあ我慢しておこうというぐあいの小説なのだ。こんな小説は芸術的にみれば大へんまずいでたらめな構成にちがいないが、直接人間的な面からみて結構ゆるされる形式だとおもっている』(訳者あとがきより引用)




 主題は「死」と「愛」と「自己の存在」にある。
 一部では、死を軸にした「大都市で生きるということ」(リルケの書いた現代は100年前だけれど、100年後の現代でも生や死の問題というのは変わらないものである)。そして、そのなかで生まれてくる「孤独」や「不安」や「恐怖」。
 二部では、死を軸にした「愛」。



 父は非情に苦しんだということだったけれども、そういう苦痛のあとは残っていなかった。彼の顔は、逗留客が帰ったあとの客間の家具のように、さも所在なげな表情に変わっていた。僕はすでに何度かこのような父の死顔を見た気がしてならなかった。僕は父の死顔にすぐ心から親しさを覚えた。(p191)
 このことがあってから、僕はいろいろの死の恐怖について考えてみた。むろん、自分の二つ三つの乏しい経験も、いっしょに考え合わせてみたのである。僕は確かに死の恐怖を感じたことがある。なんの素因もなしに、恐怖は人ごみの市街の中で群集にもまれている僕を襲ったりした。むろん、またいろいろな原因が幾つも幾つも重なりあっていたこともある。(中略) 
しかし、僕はそれよりも前、すでに恐怖を感じたのを知っている。たとえば、僕の犬が死んだ時だ。犬は自分の死をあくまで僕のせいだと信じこんでしまったのだ。犬の病気は非常に重かった。僕はその日一日、犬のそばに付ききりにしゃがんでいた。突然、犬が短くきれぎれに吠えた。知らぬ人間が、はいって来た時に吠える吠え方だった。僕と犬とはそのような場合、いつもこんな吠え方で知らせあうことに決めていた。だから、僕は思わずドアの方を振りむいた。しかし、「死」はすでにもう内部へ忍びこんでしまったのだ。僕は不安になって犬の目を求めた。犬も僕の目を求めてきた。しかし、犬の目は、最後の別れを告げる目とは違っていた。犬は僕を情けなさそうな、激しい目でにらんだのである。その目は僕が黙って「死」を内部へはいらせてしまったことを非難していた。僕だったらそれを追い返すことができると、あくまで犬は主人を信じきっていたのだろう。しかし、今僕を過信していたことがわかったのだ。僕はもう犬に事情を説明してやる暇がなかった。犬は僕を情けなさそうに、寂しく見ながら、死んでしまった。(p200)

 苦しみとは、いったい何を言うのだろう。仕合せとは、いったい何をさすのだろう。(p259)

 いわば彼女らは生活に もてあそばれた人形なのだ。来る春も来る春も、人形の腕は、ただ無意味に拡げられたり引っぱられたりしたものだから、肩の付け根がもうがたがたになってしまったのだ。彼女らは高い希望から投げおろされることがまだ一度もなかったので、わずかに砕けることだけは免れているらしい。がしかし、彼女らはそういう一切の希望からみじめに拒絶されているのだ。結局、もう生活には何の役にも立たなくなった人形なのだ。 (中略) 僕はただイエスだけが彼女らを耐えることができるだろうと思っている。イエスの体には復活があるゆえに。しかし、彼女らのことなどイエスにはどうでもよかったのだ。イエスを呼ぶのは、人を愛する、けなげな女だけだろう。ただ愛する女のみがイエスを誘いよせる。愛せられるための、いささかの技巧や才能があったとて、所詮それは灯の消えた冷たいランプにすぎぬ。愛を待つことでは、決して救われはしないのだ。(p261)

楽しさはわずかな一瞬だが、僕たちは悲しみよりも長い持続を知らぬのである。 (p263)

 彼の狂った心の荒涼たる原野に、今はもう誰一人はいって来る者もいない。彼の魂の孤独な深淵から彼を救おうとするものは、誰一人としてなかったのだ。突然彼が、青草を求める家畜のように、つぶらな目つきで寝室から出てきても、誰もその気持ちを理解する者がなかった。(p264-265)

 ただ人から愛せられるだけの人間の生活は、くだらぬ生活といわねばならぬ。むしろ、それは危険な生活といってよいのだ。愛せられる人間は自己に打ち勝って、愛する人間に変らねばならなぬ。愛する人間にだけ不動な確信と安心があるのだ。愛する人間はもはや誰の疑いも許さない。すでにわれとわが身に裏切りを許さぬのだ。愛する人間の心には清らかな神秘がある。夜鶯のように彼らは千万無量のものをただ一こえに鳴く。結晶した神秘の美しさがばらばらに破れることは決してないのだ。彼らはただ一人の人間を呼ぶのに違いないが、その声にはあらゆる自然の美しい声が加わるのだ。悲しい鳴き声は何か永遠なものの呼び声のように聞こえる。彼らはすでに失ったものを必死に追いすがるのかもしれぬ。しかし、彼らは最初の数歩でやすやすとそれを追い抜いてしまうのだ。彼らの前にはもう神があるばかりだ。(p289-290)

 『マルテの手記』は自分の心を自分でうまくコントロールできない、常に不安と恐怖を抱えている、今を生きることに馴染めていない人でないと分かりにくく、ちっとも共感するところのないつまらない作品かもしれない。 







2012/03/23

『アドルフ』コンスタン(大塚幸男 訳 / 岩波文庫)





 私は予備知識なく本を読むので、コンスタンという人が200年も前の人だというのも知らなかった。
 貴族の存在するヨーロッパが舞台で、口調もその頃の礼儀正しいもので、私はそういうのが好きだから読んでいて心地良かった。
 それにしても男女間の愛についてというのは年代時代を問わないものである。1800年代に書かれたものを2012年に読んでも何ら差し障りが無い。
 この小説はコンスタン自身のことらしいが、ぐちぐちとしたずるずると別れを切り出せない男の話と言ってしまう人もいるかも知れないが、私は始めから終わりまで共感できた。
 ぐちぐちずるずる、というのはリアルだ。ふつう小説はきれいごとが多い。でもこの『アドルフ』はぐちぐちずるずる迷ってコロコロと気持ちが変わって煮え切らない。
 コンスタン自身作品の中でこう書いている。
”人の感情というものは、とりとめのない複雑なものである。それは観察しにくい種々雑多な印象から成り立っているので、あまりに粗雑であまりに一般的である言葉は、それらの感情を指示するには役立っても、決して定義するには役立たない。(p26)”
”およそ人間には完全な統一というものはないので、ほとんど決して、なんびとも全く真剣であることもなければ、さりとて全く不誠実であることもない。(p34)”
 私もそう思う。これらの文章のように、そう!その通り!と共感するところが本当に多かった。
 愛情という感情はよくわからないものだとだと思う。
 あるようなないようなと揺れ動いてし駆るべきものだと思う。
 失って気付くこともある。後悔することもある。何が正しくて何が間違っているのかが決まっていない。


 作中の女性のように、本当に愛するというものに出会えたとき、生命をかけて何もかもを抛ってしまうというのもとてもよく分かる。
 だからといって、その女性の肩を持つというのではない。コンスタンの立場、この女性を捨てようとして捨てきれずにいる男の気持ちもよく分かる。


 この小説は人間の感情のみに焦点を当てたもので、風景の描写がほとんど無い。徹頭徹尾気持ちだけが書かれている。それだからこの小説はおもしろいんだと思う。小説の長さが短いのも効いてると思う。


 私は結構好きだった。また読み返してもいいなと思う。



2012/03/22

『フォークナー短篇集』William Cuthbert Faulkner ( 瀧口直太郎 訳 / 新潮文庫 )







 野呂邦暢作品集の中に、野呂さんが好きだという小説がいくつもあった。それで買ってみた1冊。


 他に、リルケの『マルテの手記』( 大山定一 訳 )、コンスタン『アドルフ』( 大塚幸男 訳 )、グリーン『幻を追う人』( 福永武彦 訳 )、フィリップ『小さな町で』( 山田稔 訳 ) を買った。
 これ以外にも読んだことのない本がたくさん記載されていたけれど、読みたいと思うもので、Amazonで買えて値段が手頃なものを買った。


 感想は、・・・・・特にない。
 好きな作品は終わりが近づくと名残惜しい気持ちになってちびちびと読み進めるのだけど、これはとくにそういうこともなかった。良くないというのは全く無くて、いい本だと思う。ただ私は特別にすごく感動しなかったというだけ。
 読み終えて随分と時間が経った今になると、読み終えた時よりも良かったんじゃないかという気持ちが増えている。


「嫉妬」「赤い葉」「エミリーに薔薇を」「あの夕陽」「乾燥の九月」「孫むすめ」「バーベナの匂い」「納屋は燃える」の8編が収められている。
 その中で私がいちばん好きなのは「バーベナの匂い」。
 どれも印象深い作品だし、どれもそれぞれ面白かったし、インディアンの話の「赤い葉」も捨てがたいのだけど「バーベナの匂い」は他の作品にはないものがある。クセの強い文章もいい具合の割合だったし、いいなと思う描写が多かった。


 フォークナーについて何も知らなかったから、黒人と白人の不条理な関係について書く人だというのを読んで初めて知った。
 知っていたら読まなかっただろうから知らなくて良かった。


 なるほど、こういう文章の人なのかというのが分かっただけでも読んで良かったと思う。



2012/03/21

串田孫一自選『山のパンセ』岩波文庫




 《 その頃私は、物そのものよりも、色や光の組み合わせによって風景を見て、またそういう印象を強く残そうとしていたためなのか、西に廻った太陽からのやわらかな橙色の陽光による、あたり一面の、かすかにほてるような、あるいは恥しさのための赤らみのような、その色合いが私に何か物語をきかせているようだった。
  それは改めて私から人に語れるような筋を持ったものではなく、私をその場所で深く包み込んで行くような物語だった。》(「山村の村」より)


 串田孫一さんの文章は気持ちがいい。好き。


 自然は美しい。だから、自然の中に身を置いて語る串田さんの文章も当然美しい。
 自分の前に自然が広がっているような気持ちになる圧倒的な自然の姿がある。


 最近、私は自然の描写が(太陽の光や空や木々などの色彩の描写が)好きなんだと気付いた。
 そういう文章を読んでいると幸福な心持ちになって、生きていく力が湧く。
 生きていく力なんて大袈裟な!と言われるかもしれないが、事実私はほんとうに生きていく力をもらう。


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 後半にいくとちょっと内容が変わる。それまでは実際の山に居る串田さんと眼の前に在る自然の様子が描かれているのに、詩のような擬人化された山の様子を描いた文章になる。
 自然に対して、作者自身の心に対して、随想的な感じになる。
 私は本来そのような文章が好きだからそれはそれでいいのだけれど、山登りをしている日記のような前半が結構気に入っていたので後半の方はちょっと残念な気持ちもした。もちろん慣れてくればそういう文章はそういう文章でいいのだけど。


 作者の串田さんのプロフィールには詩人、哲学者とある。
 後半は、私がイメージする詩人や哲学者というものにぴったりと合う文章。
 たとえば、
 《 岩は、人間の測定の能力からも想像からも遥かに超えた力の死骸である。宇宙を駆けめぐっていた一つの力は分裂し、呼び合ったりはじき返されたりしていたが、いつしか消え落ちる火花のように、他の一層強烈な力に組み伏せられて失神し、そのまま動きを止め、次々に重なり合った、そういう力の死骸である。「岩の沈黙」より)
 これなんかは哲学的だし、


 《 電灯を消して、寝床に入ると、外で蛙が鳴いていた。激しい鳴き方ではなく、途切れ途切れに絶望的な、溜息のような声だった。どうしてまたこの一匹だけが、それも狂ったように鳴くならばとも角、まるでこの世界の空しさを、こぼれるように嘆く声が私には変に気になった。(「堆積」より)
 こちらはちょっと詩的。


 《 岩山ま少しずつ崩れ、春の雪崩とともに、表面の石を落として行く。大気は山の緑をうるおすが、岩を風化させ、僅かずつ亀裂を大きくし、あたかもそれが不要な部分となったもののように、大きな岩塊を谷に落とす。それは山の全体の姿を変えなかったようにも見える。
 しかし岩山は次第にやせ細って行く病めるもののように焦燥をおぼえることもある。その岩稜は皮膚のないむき出しの骨である。その胸壁も、もうこれ以上落ちるものもない一枚の骨である。(「崇拝と礼賛」より)
 串田さんはこういう風に山を見る。
 私はたぶんこれから山を見る目が変わってしまう。


『私の、山についての非体系的地理学も少しは進んだつもりなのだが、この口調は人を眠らせる要素が強すぎる。』
 と、串田さんは書いているけれど、そんなことはない。確かに何ページにも渡って続くとキツいかも知れないが、串田さんの文章は何しろ短い。数ページで終るものばかりだから眠くなったり飽きたりしない。その短さがいい。


 とてもいい本だった