続けて2度読んでしまった。
そしてまた読み返したくもなっている。
それくらいこの『アウステルリッツ』は、いい。
この本は、【私】が【アウステルリッツ】の話を聞いているという形を成しているので、読んでいるうちに《本を読んでいる》というより《話を聞いている》という気分になった。
それは小説には珍しく写真がたくさん添えられていることも関係しているかも知れない。
写真は内容に準じたもので、古い時代のそれらによって、私は【私】と一緒に【アウステルリッツ】に語ってもらっているような感覚になる。
本を開いて読む時というのが、「ねぇ、お話して」と言うようなもので、普通の本を読むというのとはまるで違った。
そして読んでいるうちに、話をしている人物はアウステルリッツではなく、何故か恋人のような気分になった。
たぶん、語る口調の穏やかさや博識な話の数々や秘密、そういうものが私だけに語ってくれているような錯覚を起こさせ、ふたりだけの世界のような気分になるのだと思う。(そんな風に感じるのは私だけなのかもしれないけど.....)
そんな風だから、読み終えてしまった時はまるで恋人と別れたかのような淋しい気持ちになり、読み終えるのが厭で繰り返し読みたくなってしまう。
博識で物知りな恋人が語ってくれている気分になるくらいだから、当然この本の中のどこをとっても面白い。どこをとっても何度読んでも【アウステルリッツ】は語るのが上手く、【アウステルリッツ】の語る話は興味深い。
ゼーバルトは過去に目を向けている。
過去、廃墟、記憶、そういうものをゼーバルトは大事にしている。
そして、私もそうである。
たとえば代表作の『椅子』は廃墟に置き残された椅子で、賑やかだった家の記憶を持ってそこに居る姿だし、『冷蔵庫』も突然いなくなった家人によってどんどんと朽ちていく様を描いたものだし、私は未来よりも過去の空気という方に気持ちがある。
『アウステルリッツ』は、どの部分をとっても過去の歴史の話となっている。
そういうところも私にはすごくしっくりときた。
それから、話のつくり(テーマと展開の順序)や話の必要性が素晴しい。
Austerlitz(アウステルリッツ)が Auschwitz(アウシュビッツ)を連想させる通り、主題はアウシュビッツに関連している。
しかしそれだけでなく、アウステルリッツの会戦や、同じ綴りのパリのAusterlitz(オーステルリッツ)駅もアウステルリッツという人物に深く関係していたりもする。
詳しく書いてしまうとこれから読む人が楽しめないのでなるべく書かないでおこうと思うが、はじめから終わりまで関連性で満ち溢れているのである。
【私】と【アウステルリッツ】はベルギーのアントワープで出会い、そこから必然性を持って、プラハやドイツ、ロンドンやパリなどの様々な土地が出てくる。
私はプラハもドイツもロンドンもパリも行ったことがあるのでなおさらこの本に惹き込まれたというのもある。
たとえば、
ライン流域を走っていると、とアウステルリッツは語った、自分がどの時代にいるのかわからなくなってくるのです。河畔の丘高くそびえる城にしても、富者の石 ( ライヘンシュタイン Reichen Stein )、名誉の巌 ( エーレンフェルス Ehrenfels城 )、鋼鉄の稜 ( シュタールエック Stahleck城 )などと奇矯でどこか嘘臭い名前がつけられていて、列車から見るかぎりではそれらが中世に遡るものなのか、つい十九世紀に産業成金によって建てられたものなのか判然としません。(中略)いずれにせよ、ライン河流域を下りながら、私は自分が人生のどの時代にいるのかを杳としてつかめなくなっていました。(p217)
チェコ領内では青息吐息で進んでいた感のある列車はここにきてにわかに信じがたいほどの軽やかさで疾走しはじめるのです。(アウステルリッツがチェコからドイツに入る場面)というような文章があり、私もライン河沿いに下って旅をしていた時に同じように思ったし、チェコの印象もアウステルリッツが語るのに近い感じがした。プラハは他のヨーロッパの国々とは違った。
本当に、すごく良い本だった。