2015/10/30

ねじめ正一『荒地の恋』(2007年 / 文藝春秋)


詩人・北村太郎の話。実話。
家族の了承は得ているらしいです。

Amazonのレビューには受け入れられないという意見も割とありました。
フィクションだったら私も違った感想かもしれません。でも、これはノンフィクションであり、北村太郎という人間の話だと知っていて読んでいるので、私は読んでいる間じゅう胸が苦しくて胃が締め付けられる様に切なくて、最後は涙が止まらなくなりました。

若い人には受け入れられないだろうと思います。人生の終わりが見えるというか、長く生きないと分からないようにも思います。
それから真っ当な人にも分からないだろうと思います。私のように創作側の人間で、精神を病んでいたり色々と抱えている人間でないときっと分からないんじゃないかと思います。
奥さんを捨てる北村の身勝手さに憤慨するレビューも多々ありました。けれども、私はあまりそうは思わず、逆に奥さんや家族や安定というこれまでの幸福すべてを捨てる潔さにただただ驚きました。私は潔く捨てれない。
北村さんは自分にも他人にもまっすぐ正直な人で、お人好しで、強い。
だいたいの人は北村さんみたいに生きられない。嘘つきで、自分勝手で、弱い。

心の病気はだいたいは分かってもらえません。恋愛も。この作品を不倫話と位置づけるのは私は間違っていると思います(私は人が人を愛するのに不倫という言葉を当てることにそもそも疑問を持っている人間なので)。
不倫話にこの本の本質があるわけではないと思うのです。
この本は北村太郎という人間の話なんです。そして彼の周りの人間の話なんです。「荒地」の詩人たちとの繋がりから見る北村太郎。
いいとか悪いとかではなく、北村太郎を知る本だと思います。
彼がどんな人であったのか、どんな人とどんな風に過したのか、彼がどんなことを考えていたのか。

私が泣けたのは彼のまっすぐな生き様が、彼のまっすぐな言葉が、あまりに心に深く刺さってどうにも堪えられなくて涙が溢れたのです。

「愛している」という言葉のまっすぐさ。
「愛した」ことへの責任。

すべてを正面から受け止めることのできる芯の強さ。

たとえば太宰治とは真逆で、北村太郎は生から逃げないのです。
これを読んでから太宰治を読むと、太宰治が女々しく感じてしまいます。


私はこの本を読んで、彼の眼差しや彼の人柄や彼の詩に触れて、北村太郎が大好きになりました。詩集を読んでみたくなりました。

そして、こんな風に書けるねじめさんはすごいと思いました。ねじめさんは初めて読んだのですが、有名なだけあってやっぱり巧い作家さんだと思いました。

2015/10/26

滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(2015年/新潮社)


どことなく太宰治に似たところがあるように思いました。
一人称の長い独白、若さ特有の心情、深い部分への疑問。
そういうところが太宰を思い出させました。

人間の記憶の曖昧さについて、他者との関わりというものについて、思いというものについて、五感というものについて。

小説の時代は現代であっても主題は時代を問わないもので、けれども書き方は斬新さがあって、新しい小説だと思います。
まだ若い作家さん(1982年生まれ)なのに本当にすごいと思います。

要らないなぁと思う部分も多々あったけれど、それでもとても良い作品だと思いました。他の作品も読んでみたいと思いました。



過去がどんどん長くなっていくことを、ちゃんと考えていなかった。考えて見れば迂闊なことだが、そんなこと本当に思いもしなかった。(p35)


同じ言葉であってもその声によって意味は変わる。声によって言葉の意味が変わるのではなくて、声が言葉から意味を葬って音だけになってその音を聞くということか。その声は、音は、時間が経つと消えてなくなる。言葉と文字だけが消えずに残る(p59−60)


思い出される過去を、今という時間でなく、過去の時間のままに思い出すことはどうしてできないものか。(p62)


過去から跳ね返ってくるのは、私がつくった過去ばかりで、そこにあったはずの私の知らないものたちは、過去に埋もれたままこちらに姿を見せない。思い出されるのは知っていることばかりで、思い出せば出すほど、記憶は硬く小さくなっていく。(p109)

2015/10/24

長部日出雄『津軽世去れ節』(昭和47年/津軽書房)



津軽を舞台にした短編6篇が収められています。
太宰治からの津軽繋がりで読みました。

『津軽じょんがら節』と『津軽世去れ節』が特に良かったです。
津軽三味線やじょんがら節の歴史がとても興味深く、面白かったです。津軽弁の会話も味わい深くて良かったです。


〈 津軽には、葛西善蔵、太宰治、という所謂「破滅型」の系譜があるといわれている(p82)〉ことを初めて知りました。

いまのこどもたちが大人になったときに、咽喉をしめつけるようにして声をしぼり出し、抑圧された思いを屈折させて震わせる小節に共感を覚えることは、おそらくないだろう。あるとすれば、それは悪い世の中になっているときだ。が、小節は消えても、かつて人人がヨサレ節に籠めたうたのこころが失われることはあるまいと思う。(p135)

2015/10/20

太宰治『信天翁』(昭和17年発行/昭南書房)


昭和10年(27歳)〜昭和15年(32歳)までに書かれたエッセイ集。装幀は宮村十吉氏。
すごく良かったので2度読みしました。
沢山付箋を貼ったので、いくつかメモしておきます。()内は私の感想。旧仮名遣いは新仮名に換えてあります。


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「敗北の歌」より

鞭影への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである。

ぼくは新しい理論を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。



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「難解」より

文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。



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「書簡集」より

かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇くらいに譚詩十篇くらいのいい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、譚詩一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対にないもの。



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「 in a world 」より

芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問いを連発して論敵をなやましたものだ、(中略)芥川はこの「つまり」を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては看護婦、子守娘にさえ易々とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。動かざる、久遠の真理を、いますぐ、この手で掴みたかった。



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「生きて行く力」
いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。(うまいこと言う。くすっと笑ってしまった)



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「創世記」より

愛は言葉だ。おれたち、弱く無能なのだから、言葉だけでもよくして見せよう。その他のこと、人をよろこばせてあげ得る何をおれたちは持っているのか。

言葉で表現できぬ愛情は、まことに深き愛ではない。むづかしきこと、どこにも無い。むづかしいものは愛ではない。

いまの世の人、やさしき一語に餓えて居る。ことにも異性のやさしき一語に。(いつの世も変わらないのだなぁと思う)



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「古典龍頭蛇尾」より(本当は全文引用したい)

 日本文学に就いて、いつわりなき感想をしたためようとしたのであるが、あたせるかな、まごついてしまった。いやらしい、いやらしい、感想の感想の、感想の感想が、鳴戸の渦のようにあとからあとから湧いて出て、そこら一ぱいにはんらんし、手のつけようもなくなった。この机邊のどろどろの洪水を、たたきころして凝結させ、千代紙細工のように切り張りして、そうしてひとつの文章に仕立てあげるのが、これまでの私の手段であった。けれども、きょうはこの書斎一ぱいのはんらんを、はんらんのままに掬いとって、もやもや写してやろうと企てた。きっと、うまくゆくだろう。

「伝統。」という言葉の定義はむづかしい。(中略)伝統とは、自信の歴史であり、日々の自恃の堆積である。

 日本文学の伝統は、美術、音楽のそれにくらべ、げんざい、最も微弱である私たちの世代の文学に、どんな工合いの影響を興えているだろう。思いついたままを書きしるす。
 答。ちっとも。

 日本の古典は、まさしく、死都である。むかしはここで綠酒を汲んだ。菊の花を眺めた。それを今日の文学にとりいれて、どうのこうのではなしに、古典は古典として独自のたのしみがあり、そうして、それだけのもであろう。



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「音に就いて」より

 音の効果的な適用は、市井文学、いわば世話物に多い様である。(中略)聖書や源氏物語に音はない。全くのサイレントである。



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「晩年に就いて」より(本当は全文引用したい)

 私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。

 あのね、読んで面白くない小説はね、それは下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。

 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分ひとりで、ふっと発見するものです。



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「答案落第」より

 私は、思いちがいしていた。このレースは百メートル競走では、なかったのだ。千メートル、五千メートル、いやいや、もっとながい大マラソンであった。



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「緒方氏を殺した者」より

 うっとうしいことである。作家がいけないのである。作家精神がいけないのである。不幸がそんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨てることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。



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「一歩前進二歩退却」より

 日本だけではないようである。また、文学だけではないようである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気がかりになる。

 作家の私生活、底の底まで剥がそうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。



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「正直ノオト」
藝術に、意義や利益の効能書を、ほしがる人は、かえって、自分の生きていることに自信を持てない病弱者なのだ。



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「春の盗賊」より

小説の中に「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。

フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。

くるしいことには、私は六十、七十まで生きのびて、老大家と言われるほどの男にならなければ、いけない状勢に立ちいたってしまったのである。私はそれを、多くの人に約束した。あざむいてはならぬ。(31歳の時はこんなことを書いていたのかと驚いた)



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「諸君の位置」より

いまは、世間の人の真似をするね。美しいものの存在を信じ、それを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは在るのだ。学生の期間にだけ、それは在るのだ。




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「義務」より

どうも、私の文章の vocabulary は大袈裟なものばかりで、それゆえ、人にも反撥を感じさせる様子であるが、どうも私は「北方の百姓」の血をたっぷり受けているので、「高いのは地声」という宿命を持っているらしく、その点に於いては、無用の警戒心は不要にしてもらいたい。

義務が、私のいのちを支えてくれている。



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「自信の無さ」より

私たちは、この「自信の無さ」を大事にしたいと思います。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から前例の無い見事な花の咲くことを、わたしは祈念しています。



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「作家の像」より

 随筆は小説と違って、作者の言葉も「なま」であるから、よっぽど気を附けて書かない事には、あらぬ隣人をさえ傷つける。



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「かすかな声」より

 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に生きている。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。


「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」


自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。


「藝術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」

「藝術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」



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山崎剛平 随筆集「水郷記」

「貪婪禍」は「どんらんか」で良いのかしら?


2015/10/19

島本理生『匿名者のためのスピカ』祥伝社 (2015年07月23日発売)



眠る前に少し読もうと思ったのに最後まで読んでしまいました。

現代の小説は文章も読むというのではなく物語を追うのであっという間に読み終えます。よくできたお話を聞いているような感じです。

大正から昭和初期の小説だって物語なのに、こちらの方が文章を読んでいるという感じがします。小説の中に書き手の存在があり(存在を感じ)、一文一文が美しく景色があり、余韻があるようにも思います。
現代の物語の方が物語内容重視という印象です。