伯母が通っている書道教室の展示会。
どこかでふらーっと行こう。
2013年 12月 14日(土)〜 18日(水)
10:00 〜 18:30(最終日は15:00まで)
O美術館
141-0032 品川区大崎1-6-2 大崎ニューシティ・2号館2F
JR線・りんかい線大崎駅(北改札口・東口)下車徒歩1分
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。(p57より)
私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。(p151より)
風景を色彩によって描くのなら、それによって共感を起こすような色をまぜてはならない。赤がAを感じさせるのは赤が単純でないからだ。(「牧歌」より)
一切の動物と、殆どすべての植物とが仮死の冬眠についているこの森は、そういう深い眠りの世界を胎内に孕んで、人間の知らない厳しさを見せ、雪の古びた匂いを交えた、ただ深海のような圧力を持った匂いを嗅がせ、更にその静寂のうちにも亦た古風な階音を聴かせた。四季を通じて、雪の森は、その巨体を一番あからさまに見せつけ、太い骨と強靭な筋肉だけになって踞っていた。(「森の絵」より)
最初は一番展望のきく河原へ画架を立ててみたが、森と向かい合っていた時のような落ちつきもなかなか得られなかった。どんなに工夫をしてみても、賑やかな風物の微動と、絶え間のない川音の中では、腰を下ろしていることさえむずかしかった。(中略)最初のころは、それがひどく気まずいようで、さっさと小屋へ戻って、ただ訳もなくぐったりと疲れた体をやすませていた。(中略)川が異様な刺戟を与えたことも事実だった。(「川」より)
二三羽の小鳥が枝から枝へと、何かの続け文字でも書いて行くように渡って行った。そして最後には、いつでも決まって、悦びとも悲しみともつかない啼声を残して飛び立って行く。小鳥はいつも同じように歌っているものなら、きっと私の方に、悦びとも悲しみともつかない気持ちがあったのだろう。(「黒い牝牛」より)
寒気は、何回かの予告のあとの、鋭利な刃物のように天上から斜めに下った。雪は谷を埋めはじめた。そして豊かさを誇り、白さを誇るように、小さな凹地を埋め、そこここになめらかな斜面を作り、巧みに襀(ひだ)を描いた。滝は、孤独な死のように静かに凍結し、光と水のもつれたそこも、そそぎ込む雪にさからう努力もなく、結氷した。流れる姿は消え去った。その時になって、この谷を訪れる光が、太陽の忠実な使者であり、たくらみのない素朴な想いに似たものであることが分かった。(中略)雪の下に滝は凍って、冬の間、青味を帯びた別の静かなおののきがあるのかも知れない。眠りにも死にも似てはいるが、絶えず水をうけ、氷に蔽われている岩の内部の犇めくような力の意味を知らないものにとっては、それは語られない神話である。(「光と水の戯れ」より)
ところで、寂しさが誘い出されるというのは、この単調な風景の一体何のせいなのだろう。晴れ渡って、空に一つの雲もないせいなのか、それとも、あまり遠くひろがる海と空との接触が、信じられないほど穏やかであったからなのか。いずれにしても、この寂しさが、私の感情にからまったものでないことだけは、まず間違いないとしたら、それを振り棄てることは出来ないし、と言って、その奇妙な寂しさに気が付いてしまった以上は、今度はそれが恐怖を誘い出すかも知れないと思われて来るのだった。(「波」より)
訴えることがなければ、他人からあれこれと指摘される筈もないその息苦しさは、生涯のある時期にはやや激しくなって、そのあとは徐々に薄れていくものかとも思っていたが、彷徨する魂がいつまでも行く先を見定めることが出来なければ、消えて行くどころか、長い歩みのために却って重く苦しく、時には、そこから逸脱してしまう卑怯な手段を夢見るようにさえなるのが分かっていた。(「晩夏の丘」より)
首をふらふらと左右に振るようなあんばいに掌へ片頬を載せたまま、歌でもうたうように女は言った。その口調がまるで愚痴をこぼしているようであった。民衆のあいだには無言の、どこまでもしんぼう強い悲しみがある。それは自己の内部に潜んで、じっと黙っている悲しみである。しかし、また張ち切れてしまった悲しみがある。それはいったん涙と共に流れ出すと、その瞬間から愚痴っぽくなるものである。それはまことに女に多い。(p137-138)
「(前略)その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もうどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風邪を引いていて、ひっきりなしに鼻汁(はな)をかむからといって憎らしがる。つまりわたしは、他人がちょっとでも自分に触れると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり、個々の人間に対する憎悪が深くなるに従って、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる』と、こういう話なのじゃ」(p168-169 ゾシマ長老の話より)
自由とパンとはいかなる人間にとっても、両立しがたいことを、彼らはみずから悟るだろう。(p831 イワンがアリョーシャへ語る物語より)
もう十五世紀も過ぎたのだから、よく人間を観察するがよい。あんなやつらをおまえは自分と同じ高さまで引き上げたのだ。わしは誓って言うが、人間はおまえの考えたより、はるかに弱くて卑劣なものなのだ!いったいおまえのしたことと同じことが人間にできると思うのか?あんなに人間を尊敬したためにかえっておまえの行為は彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。それはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したからである。これが人間を自分の身より以上に、愛した、おまえのなすべきことといえるだろうか?もしおまえがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。(p839-840 イワンがアリョーシャへ語る物語、老審問官がキリストへ語る場面より: この、イワンの語る部分が、いちばんおもしろかったという印象)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。