2010/11/05

『世界のすべての七月』ティム・オブライエン(文芸春秋刊/村上春樹訳)



近所の古本屋で本棚をぐるりと見ていてこの本を見つけた。
タイトルを見て、そういえばこの本読んでみたかったんだと思い出して買ってみた。

読み始めてすぐの時は、失敗したかなと思った。でも読んでいくうちにずんずんと淡々と読み進めてしまった。

村上春樹があとがきでこう言っている。

どたばた劇として、延々と続く笑劇(ファルス)として、この長編小説を成立させている。まとまりよりは、ばらけの中に真実を見出そうとしている。解決よりは、より深い迷宮化の中に、光明を見いだそうとしている。明るい展望よりは、よたよたとしたもたつきの中に希望を見いだそうとしている。もちろん思い入れはある。しかしその思い入れは、多くの場合空回りしていて、読んでいてなんとなく面はゆく感じられてしまう。もちろんそれは意図的なものであり、決して作者が下手だからではないのだけれど、なんとなくそれが下手っぴいさに思えてしまうところが、オブライエンの小説家としての徳のようなものではないかと、僕は思う。つまり、それが偉そうな仕掛けに見えないところが、実はこの小説のいちばんすごいところなのかもしれない、ということだ。


あとがきを読んで、なるほど、そうなのか、と気づいた。
だって、どうしてだか分からないけど、時間があれば手に取って読んでしまうのを自分でも不思議な気持ちでいたのだ。
オースターのように物語に華やかさがあるわけじゃないのに、マンディアルグのようにちっとも読み進められないというのでもなく、エリクソンのように心にガツンとくるわけじゃないけど、何だか気になる、そういう気持ちでいたのだ。


そうそう、あとがきにおもしろいことが書いてあったので、こちらも引用。

僕自身はオブライエンとほぼ同世代なので、読んでいて「うんうん、気持ちはわかるよ」というところはある。世代的共感。五十代半ばになってもなお行き惑い、生き惑う心持ちが実感として理解できるわけだ。でも、たとえば今二十歳の読者がこの小説を読んで、どのような印象を持ち、感想を持つのか、僕にはわからない。「えー、うちのお父さんの年の人って、まだこんなぐじぐじしたことやってるわけ?」と驚くのだろうか?