2011/05/30

ガーリーなイラストを描いてみた







やわらかい感じでお願いします、とよく言われるので
やわらかい感じを練習している。

2011/05/27

友達に送った葉書のイラスト





高校時代からの友人と手紙のやりとりをしている。

メールが主流の社会の中、わたしたちは郵便でやりとりをする。
そういうのがわたしたちには合っている。
わたしと彼はそういう感じの友達なのだ。

私は手紙と一緒に自分の絵のポストカードを同封する。
この前は椅子の絵のカード(右のプロフィールにある絵)を送ったら気に入ってくれたみたい。
それで、今回は色気の話をしていたから、それに見合ったエロチックなイラストにした。
ずっと以前に描いたものを手直ししたもの。とはいえ、ほとんど変わってないけど。


最近、仕事でかわいらしい絵を描いていて、まぁそういうのも悪くないなと思ってそういう "かわいらしい感じの" イラストを仕事と関係なく描いてみたりもしてたんだけど、
やっぱりエロチックで力強い絵の方が私らしい。(と、思う)

2011/05/21

演劇『雨』




西村くんから演劇『雨』のチケットが届いた。
新国立劇場・中劇場で、6/9〜29まで公演される。
原作は井上ひさし、演出が栗山民也。
金物拾いの男が大金持ちの当主と間違われて、なりすまそうとする江戸時代の話。
市川亀治郎と永作博美が主演するという大きな舞台。

大きい舞台はいい席が取れないし(チケットも高いし)見えないとつまらないから普段あまり行かない。でも、今回は西村くんが出演していてチケットを取ってくれるというのでお願いした。
久しぶりの大きい舞台。いつぶりだろう。あ、最後に見た大きい舞台は『雨』と同じ井上ひさしと栗山民也の『ロマンス』だったかも。松たか子が歌がうまくてびっくりしたのと大竹しのぶがめちゃくちゃ演技がうまくてびっくりした。チェーホフの生涯を描いた話で面白かった。

『雨』も面白そうで今から楽しみ。

2011/05/19

新しいアロマディフューザー



これまで使っていたアロマディフューザーのシリーズが売ってなかったので、別のものにしてみた。
うちは明るいけど日差しの入らない北向き住戸なので植物がどんどん枯れる。仕方がないからフェイクグリーンを買ってみたりもしている。そんなわけで少しでも植物っぽい方がいいと思って花の形をしたアロマディフューザーにした。
この花、最初は真っ白で徐々に色が変わって最終的にはもっと黄緑色になる。

2011/05/06

東山魁夷小画集




小画集は全6冊ある。
『京洛四季』『森と湖と』『ドイツ・オーストリア』『中国への旅』『唐招提寺全障壁画』『風景との巡り合い』の6冊。

本当はすべて揃えたらいいのだろうけど、私は東山魁夷のヨーロッパの絵が好きだから、とりあえず『森と湖と』と『ドイツ・オーストリア』でいい。






『森と湖と』は、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、の絵画が収められている。
北欧らしい美しい白と青と緑はいつ見ても何度見てもやっぱり素晴しい。

初めて美術館で東山魁夷の白と青のコントラストを見た時はすごい衝撃を受けた。

本当に美しい風景であり、本当に美しい絵だ。




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ドイツ・オーストリアは私も大好きな国。
ドイツへは私も何度も行ったし、また行きたい。

画集を見ていると懐かしく、まさにその空気自体を描いていると分かる。
本当に東山魁夷の描く通りだと思う。

素敵な絵ばかりだし、勉強になる構図ばかりだし、好きな色彩ばかりだし、こんな風に描けたらどんなに素敵だろうと思う。
いつも思うことだけれど、また改めて思った。





2011/05/02

『コーマルタン界隈』山田稔(河出書房新社)




読みやすくておもしろくてあっという間に読み切ってしまった。

山田稔がコーマルタン界隈に住んでいた時の話が数篇収められている。エッセイというよりは短編小説に近いと思った。
作家自身が書いていてもそのような主人公がいるという感じの文章で、感情も主観と客観の中間くらいな感じがした。
作家以外の登場人物がどの人物も興味深い人たちで、その人たちと関わる作家の心情もとても共感できる。

10年以上も前に私もパリに少しだけ滞在したことがある。だから読んでいてとても懐かしい気分になった。その頃に買った地図を引っ張り出してきてみたりもした。

私はパリ12区、ナシオン広場からセーヌ川へ伸びるディドゥロ通りのサン=タントワーヌ病院から少し入ったコルブラ通りにある小さなホテルに泊まっていた。
どうしてそのホテルに泊まることになったのかはよく覚えていない。たぶん一人旅同士で仲良くなった誰かに教えてもらったのだと思う。ルーブル美術館で何人かと合流した時には、安上がりで行って良かった場所としてポルトガルのファーロを教えてもらって実際にファーロにも長いこと滞在したくらいだから、きっと誰かに教えてもらったのだろう。

そのホテルの主人は北アフリカ系の(もしかしたらインド系も少し混じっていたかもしれない)フランス人だった。
よく言われることだがフランス人はフランス語以外あまり話さない。英語で問いかけても知らんぷりされてしまう。しかしその主人は本当にフランス語しか喋れないようだった。私は大学の時にフランス語を履修していたけれど、全くといっていいほど役に立たない程度だった。それでもなぜか主人は私のことを甚く気に入ってくれて、顔を合わせる度に満面の笑みを浮かべて「Sachi! Sachi!」と話しかけてきてくれた。

朝食も何度かご馳走になった。夕食も一度か二度ご馳走になった。
朝食はいつもクロワッサンにたっぷりのバターとジャムをサンドしたもの。ひとつで十分に胃もたれしそうなものなのに、もっと食べろもっと食べろと主人はいくつも勧めてくれた。もちろん他のこれまた甘そうなデニッシュも。
私を部屋に招いた時には主人はもう食べ終えたのか自分は食べずに、私が食べるのを笑顔で見ていた。主人の笑顔と好意を踏みにじるのがイヤで、私は胃がはちきれそうになるまで食べた。
主人に見つかるとたらふく食べさせられてしまうので、最初のご馳走の後から、主人に見つからないように近所のパン屋でバゲットと出店のフルーツを買いに行っていた。
見つかったら最後、笑顔に負けて部屋に連れ込まれてしまう。時々玄関で見つかって、それで何度もご馳走になってしまったのだ。

いくら喋れないとはいえ、文字は書ける。それに簡単ないくつかの単語とか短いセンテンスくらいなら分かる。それなのに主人が話すとそれはフランス語には私には聞こえず、私の言っていることも分かっていないようだった。
会話ができないと困ることも多い。それならば、と、私はスケッチブックに絵を書いてみた。たとえば、もう満腹だとか朝8時に起こしてくれとか。すると主人は大きく何度も頷いて「わかった」というような素振りをした。やっぱり絵は世界共通だと思って安心していたのに、結局朝は起こしてくれないし、食事も勧めてくる。それで私はもうすっかり諦めて、お互いに違う言語を喋りジェスチャーと絵とを交えて、会話になっていない会話で主人との時間を過ごした。

ポルトガルかドイツかイギリスか、とにかくどこかへ出かけていてパリに戻って来た時、飛行機の遅れでシャルル・ド・ゴール空港に到着した時にはもうすっかり深夜だったことがあった。私はグランドホステスにお願いをして主人に電話をかけてもらった。主人はフランス語しか分からないのでフランス語で「Sachiが今から行く」と言って欲しい、と。すると私の話すフランス語や書いたフランス語は分かっていないようなのに、グランドホステスの伝言はちゃんと伝わったらしく、部屋はあるから勝手に入って来いと言う。私は夜にカフェへ出かけたりしていたから、以前に主人からホテルの暗証番号を教えてもらっていた。
ホテルに着いて中へ入ると、主人はまるで映画のコメディのような、カラフルなパジャマにナイトキャップという恰好で出迎えてくれた。

いつでも優しく笑顔だった、名前もわからぬホテルの主人。
パリを離れる時、またいつでも来いというような仕草をしてくれたのに、それから一度もパリに行っていない。
今でも元気でいるだろうか。今も一人旅の外国人の女の子に朝食をご馳走しているだろうか。
いつかパリへ行ったら、主人が私を覚えていなくても、私は主人のホテルに泊まりにいってみたい。



2011/05/01

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』ウンベルト・エーコ × ジャン=クロード・カリエール(工藤妙子訳/阪急コミュニケーションズ)





この対談は、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』というタイトルである。だから、もうすぐ絶滅するという紙の書物についての内容なのかと思って読んでしまう。
ところが、内容は想像するものとはだいぶ違う。愛書家として本や言語や芸術について語り合うという感じだ。

私は本のタイトルから勝手に電子書籍とこれまでの本というものについての(プラスそこから広がっていく書物というものについての)対談なのかと思ってしまっていた。人はだいたいのことにおいて、予め予測をたててしまうものである。私もすっかり勝手に予測してしまっていた。だから実際に読んでみると、どうしてもしっくりこないのだ。一体何の話をしているのだろう?と読みながらちょこちょことクエスチョンマークが浮かんでしまう。だから対談自体はものすごくおもしろいのに、おもしろかったと言いにくくなってしまう。騙されたとまでは言わないにしろ、ちょっと拍子抜けというか、本としての仕様にすっかりやられてしまったという感じがする。

あとがきを読むと、もともとこの本のタイトルは『N'espérez pas vous débarrasser des livres, Grasset & Fasquelle, 2009』直訳すると『本が離れようったってそうはいかない』というらしい。こっちのタイトルだったらよかったのにと思う。デジタル元年に『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』というタイトルで出すのはやっぱりちょっとズルい感じがする。カッコイイ本だし私のようにうっかり手を出す人が沢山でてくる。まぁ内容自体はおもしろいから、いいといえばいいのかもしれないけど。

私はこの本を読んでいて、度々、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』を思い出した。
どちらも、文学 → 言語 → その起源(宗教、<読む>ことから始まるムハンマドの『コーラン』や『聖書』)、伝わり残るもの、というような相似した内容だと思った。

古い本で今でも読まれ続けている本について(残り続ける本ということで)エーコとカリエールはこう言っている。
「時の流れの中で解釈が豊かになる。人類はずっと以前から生きていて、人類の記憶は書物に添加され、混入する。」と。
なるほどそうだと思う。
この本には、そういう「そうだよな」「なるほどな」と思えることがたくさんある。

終盤からは、本の良さや書棚や図書館の齎す効用など、本をたくさん持つ人の気持ちや拾集する人の気持ちなどがよく分かる話が続く。
私も本に囲まれて暮らすのが憧れである。壁一面の本は落ち着くというか安堵感がある。
これについてとてもいい文章がある。

C:私のある友人は、時分の蔵書を暖かい毛皮に喩えていました。本があれば、間違えたり、迷ったりしないだけでなく、凍えることもないんだそうです。世界じゅうのあらゆる概念、あらゆる感情、あらゆる知識、そしてあらゆる間違いに囲まれることで、安心と安全の感じが得られるんですね。書庫にいれば寒くありません。書物が無知という危険な霜から守ってくれます。(p409より)

C:私はよく、本のある部屋へ行って、ただ本を眺めて、一冊も手に取ることなく出てくることがあります。言葉では言い表せない何かを受け取って戻ってくるんですね。不思議ですが、ほっとする一時でもあります。
E:公共の図書館や大型書店で同じような経験をすることがあるかもしれません。棚に並べてある本の匂いを嗅いだだけで、幸せな気持ちになる。それが自分の本でないとしてもです。(中略)本を眺めることでそこから知識を引き出すんです。まだ読んだことがないそれらの本は、何かを約束してくれるようです。(p420-421より)

素晴しい愛書家ふたりの様々な話は本当に面白い。
予測は立てず、愛書家ふたりのつれづれなる対談として読むべき本。
もしくは、エーコやカリエールのファンという人にはいいと思う(ふたりがどんな本を蒐集しているのかが分かるし、ふたり自身のことがよくわかる)。

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最後に心がけようと思った引用(メモ)

C:本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。その点をはっきりさせておくのは素晴らしいことですね。本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。(p382)

C:「目利き」に任せるという方法もあります。自分より見る目があって、自分の好みをよく知ってくれている誰かを頼りにするんです。(p384)

C:書物の場所を時々入れ替えることは私は必要だと思います。そういう習慣を持っていてほしいし、持つことを勧めます。(p412)
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