野見山暁治 ( のみやま ぎょうじ ) さんのことは、洲之内徹さんの『気まぐれ美術館』で知った。
しかし実は、ずいぶん前に上田市にある無言館という野見山さんと関わりの深い美術館には行ったことがある。
無言館は信濃デッサン館の分館として1997年に開館。第二次世界大戦中に志半ばで亡くなった画学生たちの作品や遺品が展示されている。館長は窪島誠一郎氏。野見山さんは窪島さんと一緒に設立に携わった人であり、作品収集に尽力をつくした画家である。
それなのに、私はつい最近まで野見山さんを知らなかった。誰が館長でどんな人がどんな風にして美術館をつくったのかということにその頃の私はまるで興味がなかったのだ。おそらく名前は目にしていたと思うが覚えられなかった。
野見山さんや窪島さんのことはその時記憶に残らなかったが、美術館を訪れて感じたことは今でもよく覚えている。
まず、建物に存在感があった。小高い丘というか小さな山の頂にそれは在り、何と言えばいいか、そこだけ空気の流れや時の流れが違うような佇まいで、そこには小さな独立した世界があった。
私は青のような静けさと、黄昏のような橙を感じた。不思議と炎のような赤は少しも感じなかった。
無言館へ行った時、私と両親以外は誰もいなかったような気がする。そのせいか名前に相応しく本当に閑寂(しん)としていた。
私はそこにいることがひどくしんどかった。気が重苦しくなった。作品が重いというのでも、若くして戦争で死んだ人たちの遺品があるからというのでもなかった。しんどさは無言館自体が生き物のように感じたことからやってきていた。無言館という生き物に食われて、まるでその腹の中に居るような心地悪さを感じたのである。
私の耳の後ろでひそひそと何かが囁く声が聞こえ、右腕と左腕は誰かがひたりと寄り添っているような気配がした。だから絵を見ることに集中できなかった。また来たいとは思わなかったし、事実その1回しか行っていない。
『四百字のデッサン』はエッセイ集である。画家や有名な人たちとの交流を書いた「ひとびと」というカテゴリーと、日々の思ったり感じたりしたことを書いた「うわの空」というカテゴリーの2種類からなっている。
野見山さんのエカキとしての自身の在り方やパリでの暮らしが書かれていて面白く読めた。戦後の日本の暮らしぶりも面白かった。
中でも私は「ひとびと」の冒頭エッセイ『戦争画とその後 ── 藤田嗣治』が良かった。
藤田嗣治の『アッツ島玉砕』、洲之内さんはこの絵について
「藤田嗣治の最高傑作。あんな絵を描いてしまったらその後もう何も描けっこないよ」というようなことを言っていた。
野見山さんの話にもこの絵のことが出てくる。戦争画を描かなくてはいけない時代に描かれたこの絵はまるで逆の反戦画に見えると言っている。
野見山さんの話は、これまで知っていた藤田嗣治とはまるで違う普通の人間の部分の藤田嗣治が書かれていてとても興味深かった。