2011/12/18

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(松籟社・イタリア叢書Ⅰ/脇功訳)





このところ日本のものばかり読んでいたから、この本を読み始めて「あぁ、こういうのが読みたかった!」と思った。
カルヴィーノの、言葉遊びならぬ文章遊びの小説は、ここのところ読んでいた日本の小説やエッセイとは全く違っていて、本を読んでいるという幸せ感がある。

読み始めて少しして、ふと、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』はカルヴィーノに影響されたのかなぁと思った。『冬の夜ー』が1981年で『世界の終わりー』が1985年だから、なくはないと思う。
私の中でカルヴィーノと村上春樹はどこか少し似ているような気がする。というか共通する何かがあるような気がする。

そう感じたから、Wikipediaで<幻想文学>を見たら、 [日本における受容] という項目に、村上春樹、平野啓一郎、いしいしんじ、と私が好きな日本人作家の名前が全員あった。恥ずかしながら同じジャンルに括られるのを初めて知った。
私はこのジャンルが好きなのかというのも知った。


この『冬の夜ひとりの旅人が』の構成は本当におもしろい。
『宿命の交わる城』も驚嘆の発想と構成だったけど、『冬の夜ー』は読みやすいところがいい。
今にして思えば、その時は挫折した『柔らかい月』もやっぱり発想が素晴しかったし、おもしろかった。

日本の小説やエッセイをばかり読んだあとでは本当にカルヴィーノはおもしろいと思う。スポンジに水が吸収されていくように、ずんずんと読書のおもしろさが私の中に染みていった。

この『冬の夜ひとりの旅人が』という本は、小さなカンバスに描かれた絵が何枚も集まってひとつの大きなカンバスを作っているような本である。
本という形の大きな絵はふつうの場合近づいてみればその絵の断片が見える。しかしこの本の場合近づいてみるとそこに見えるのは大きな絵の局部ではなくそれぞれに異なる様々な絵なのである。
この本は【 1枚の絵 】ではなく【 1つの美術館 】のようなものなのである。

私はカルヴィーノに、ルネサンス〜バロックの絵画、光と影のくっきりとした鮮やかな色彩を、思い浮かべてしまう。
ティッツィアーノやルーベンスやレンブラントのような絵が頭に浮かぶ。
文章自体は実際にはもう少し近代の絵なのだけれど、全体像としての印象は私の内では何故かバロック絵画になってしまう。

絵画の中の人物たちが織り成す物語。そんなふうに感じる。
=============================================================================


と、ここまでが読み始めて思った感想。次からは読み終えてからの感想。


小説の中に出てくる小説「絡みあう線の網目に」は、『柔らかい月』にちょっと似ている気がする。
うっかりすると文字の表面をするすると滑っていてしまってまるで頭に入って来なくなってしまうから注意しなくてはいけない。
そしてこの辺りからこの本は最初の頃とは姿が変わってくる。
男性読者が "あなた" であったのが一度だけ女性読者が "あなた" に変わるところがある。
それを機に、この本の本当の姿が露になってくる。カルヴィーノがこの本でしたいこと、提示したいことが見えてくる。
そして先にあるような感想はなくなって、奥に秘められている真の何かを読み取らなければという思いと、なるほどなるほどと提示される考えに感心したり、文章が生み出す物語のおもしろさにただただ没頭してしまうのとで埋められてしまう。
作家と読者の関係性についてのカルヴィーノの考え方。ひいては物語というものについて、書くということについて、読むということについて。

ルドミッラとして出てくるカルヴィーノの言う女性読者の考え方に私はとても共感する。
自分と同じようなところが多いと感じる。

要するに、あなたはもう一度読み直す読者ではないようだ。あなたは一度読んだものはとてもよく覚えている(それはあなたが自らのことについて明らかにした最初の事柄のひとつだ)、おそらくあなたにとってはあらゆる本が、ひとたび読んでしまうと、ある特定の機会に行なったその読書体験と同一化してしまうのだ。そしてそれを記憶の中に大切にしまいこむのと同じように、物としてのその本も自分のそばに置いておくのが好きなのだ。(p184より)

「その女性にとっては」とアルカディアン・ポルフィリッチはあなたがいかに関心をもって彼の言葉に聞き入っているかを見てとってなおも続ける、「読むということはあらゆる思惑や先入観を棄てて、期待するところが少なければそれだけよく聞こえてくる声を、どこから来るのかわからないが、本の彼方の、作者の彼方の、慣用的な文字の彼方のどこかから来る声を。語られていないものから、世界がまだおのれに関して語ってはいず、またそれを語るための言葉を持ってはいないものから来る声を聞き取ろうとすることにあるのです。一方、彼の方としては、書かれたページのうしろになにもないことを、世界は人為的な技巧、虚構、誤解、嘘としてしか存在しないことを彼女に示したかったのです。(中略)《(略)彼は私にこう言いました。────文学には私が力を及ぼすことのできないなにかが起こるのです》(p309-310より)

そして最後の結末がいい。考え方の、物語の、きちんとした完結がそこに提示される。

本当に傑作。本当に素晴しい本。

それで、流れでウンベルト・エーコが読みたくなって『フーコーの振り子』を購入。現在読んでいるところ。