2012/01/26
萩原葉子『セビリヤの驢馬』(旺文社文庫)
パリ、マドリッド、セビリヤなどスペインの旅行の思い出、身辺雑記、現代夫婦模様など、
独特の鋭い感性でつづったエッセイ集。
カバー裏面にはこう書いてある。
今年の海外旅行はスペインにしようと思っているので、読んでみた。
でも、スペインの風景の描写のようなものはほとんどなかった。
スペインの旅行の話は確かに書いてはあるけれど、作者のどうでもいい話という印象しか残っていない。
身辺雑記も現代夫婦模様も、私にとってはほとんどがどれもイラッとくる感じだった。全体的に愚痴っぽい。一緒にスペイン旅行に行った女友達への愚痴、社会に、登山中に、出版社に、隣の住人に、引っ越し屋さんに、郵便配達人に、等々への愚痴。
そんな話、読んで楽しいわけがない。
何となくいい感じのしない話が多かった。
作者の目線とか考え方がしっくりこない。
それはこの本の刊行が1983年だというせいかも知れない。当時読めばおもしろいのかも知れないが、私は元々現代社会に対するエッセイというものが好きじゃないから、当時でもやっぱりしっくりこなかったかも知れない。
「納得のゆかない結婚などしないで、自分の仕事にまっしぐらに向かっている人を見ると、尊敬する。仕事に筋金が入っているからである。他の人が結婚や出産をしている間に勉強し、結婚の体験がなくても、仕事を通しての体験が豊富なので、話も面白い。平凡な妻で一生を終る女性の話題は乏しく、身のまわりのことだけに限られているのに比べて、視野も広く際限ない話題となって生きている」(p226より)
こんな文章があってびっくりした。
ひどい偏見。
平凡な妻の話題が乏しいなんてよく言えたものだと思う。私はバリバリ働いている人も専業主婦もどっちも尊敬する。自分の話題と合わないというだけで、それが乏しいことにはならないと私は思う。結婚だとか仕事だとかの問題じゃなくて人間の問題だ。
作者のように才能があってそれを仕事にできている人が言うと、なんとなく傲慢に聞こえる。
不愉快になりつつ、親の七光りのくせに、と読んでいると、父親が朔太郎であることの苦悩や苦労が語られる。父親が朔太郎であるがゆえに壮絶な人生だったと言う。そのことを書いた作品『蕁麻の家』の執筆についてが語られる。
エッセイとしてこの本は好きじゃないけれど、小説は良いのかも知れない。
小説を読んでみないことには萩原葉子さんという作家の良し悪しは言えない。
2012/01/24
『八木橋幸子 季節展』始まりました
今日から麻布十番のギャラリーカフェバー縁縁で特別展が始まりました。
昨日も搬入で行ったのだけど、昨日の忘れたものを持って今日も行って来ました。
オープンしてからもちょこっとお店にいたら(アキラくんとおしゃべりしてたら)、
お客さんが絵を見ながら何か話していたり、置いてあるポストカードを手にとって見ていたりしていて、
そういうのを見ると、どうしてだかちょっと恥ずかしくなってしまう私です。
(で、そそくさと帰って来ました...。)
新しく描いたのはないのだけど、お目見えが初めてという絵もあります。
カードは自分でもなかなかいいなと思う出来です。
会期は2週間、2月6日(月)18:00 までです。18:00〜搬出します。
特別展は入って左側の壁とトイレ内部です。右側は常設です(私も常設しているので右壁の高い位置にもひとつ作品を飾ってあります。今は白い椅子の絵です)。
お近くの方はどうぞランチやお茶やお酒でも飲食しがてら見にに来て下さい。
ギャラリーカフェバー縁縁
港区麻布十番2-8-15
03-3453-4021
1月は月曜定休 2月からは火曜定休 オープンは12:00〜
2月から 水〜土曜 12:00〜24:00 日、月曜 12:00〜18:00 ランチ12:00〜15:00
2012/01/23
2012/01/18
お知らせ
『八木橋幸子 季節展』1月24日(火)〜2月5日(日)
ギャラリーカフェバー縁縁 http://enyen.jp
港区麻布十番2-8-15 03-3453-4021
ランチタイム /11:30 〜 15:00(平日のみ)
土曜日 /14:00 〜 23:00
日曜日 /14:00 〜 21:00
月曜定休
【 2月より営業時間が変ります 】
水〜土 /12:00 〜 24:00
日・月 /12:00 〜 18:00
ランチタイム /12:00 〜 15:00
火曜定休
急遽、いつも絵を飾ってもらっている麻布十番の縁縁で展示をすることになりました。
お近くへお越しの際は是非お立ち寄り下さいませ。
(私はお店にいないので会いたい方はご連絡ください)
2012/01/14
2012/01/13
庄野英二『ロッテルダムの灯』(講談社文庫)
庄野潤三に兄がいて、彼も作家だと知って読んでみたかった。
この本は主に戦争の頃の話の短いエッセイである。
いちばん最後に収められている『短い手紙』は、戦争をモチーフにした童話という感じだ。
どの話も教科書に載っていてもおかしくない。
そんな風な戦争ものだから、よくある戦争の話とは全く違う。
庄野英二さんの戦争にまつわるお話たちはどれも美しい。
美しく芳しい色とりどりの花や、天を仰ぐような樹木などといった自然が沢山出てくるせいかもしれない。
庄野英二さんの文章は、彼自身が描いた挿画の絵に似ていると思う。その絵はそれぞれのエッセイの最初にちょこんと在る。
ペンで描かれた様々な物の絵は、飾らず素朴で温かみがある。そして控えめで出しゃばらないのにきちっと存在感を持っている。
私が『ロッテルダムの灯』から受けるイメージは、明るい色で描かれた水彩画だ。
南方の舞台が多く色彩は派手であるはずなのに、なぜか水彩画が思い浮かぶ。日本人としての目というものが影響しているのだろう。
空の薄い天色、紺碧の海、草の翡翠色や若竹色、菜の花色の道、金赤の太陽。
首飾りにされるサンパギータ(茉莉花、ジャスミンの別名)の白、オランダ人が身に付けたマリーゴールドの橙。
山盛りにされた大輪の菊、バラ、グラジオラス、ダリア、ガーベラ、夜来香、くちなし、あらせいとう等々の色鮮やかな花たちが美しい水彩画となる。
しかしその美しさは、美しいがゆえにどこか悲しみを感じさせる。
この本には南方の話が出てくるから祖父の話を思い出さずにはいられなかった。
祖父は93歳で今も元気である。祖父は有名なレイテ島へも行っている。
祖父は93歳で今も元気である。祖父は有名なレイテ島へも行っている。
『長い航海』という話の中で、船が沈没したのだが筏に乗って生き延びた男が出てくる。
私の祖父もまったく同じような体験をしているので驚いた。
本の中に出てくる筏はアメリカ製の舶来品で押収品であり鋼鉄で8畳ほどもある立派なものだが、祖父たちのは板を繋ぎ縛っただけの筏とは呼べないような代物だった。
祖父は5艘の船に乗ってそのうちの4艘が沈没している。
それでも生き延びたのだから祖父は強運の持ち主なのだと思うが、その4回のうちの1回の際、祖父は「もう死んでしまうな」と思ったのだという。真っ暗闇の夜の海に放り出されて海底へ沈んでいきながらそう思ったそうだ。
しかし、祖父は出航前に易者に言われた言葉を突然思い出すのである。
「あんたは長生きするよ」
その瞬間、祖父は腕を掻いた。上に向かって足で水を蹴った。
そうして祖父は生きることができたのである。
朝になってみると祖父たちがいたのは重油の海だったそうだ。
とにかく筏のような物を作ろう。浮いている使えそうなものを集め、遠くに浮かんでいるハンモックを泳いで取りに行かせてハンモックを解体して紐にした。その紐で板などをバラバラにならないように固定して筏にしたのだ。
片足を失った者もいた。その血に寄せられてなのか筏の周りにはフカ(鮫)が沢山いて、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったと祖父は言う。フカを避けようと皆が筏に乗る。すると筏は重みで沈んでしまんだよ。祖父は笑いながらそう言っていた。
という話を思い出した。
フカに誰かが襲われたというようなことは祖父から聞いていないから、その後皆無事に救出してもらえたのだろう。
2012/01/10
ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(上・下)(藤村昌昭訳/文藝春秋)
エーコらしい、遠回しで、ねちっこくて、くどくどした小説。
面白いかどうかという前に、最初から最後まで気になったことを言っておこう。
とにかく日本語訳がどうにもしっくりこなかった。気持ち悪いくらいに合っていないと私は思う。あまりにも古くさい言い回しの日本語が多い。
例えば、「ユダヤの顔も二度三度、と言ってるかと思ったら、すぐにアバタもエクボ」(下・282p)
こう言われると意味がわかりにくくなる。もっと他の適切な文章があると思う。
他にも「恐れ入谷の鬼子母神、さあ、殺したけりゃ殺すがいい」(下・538p)
って、ヨーロッパでイタリア人が主人公という小説に相応しい台詞とは思えない。
こういうのが多過ぎて何となく残念だった。
さて、本題。感想。
これぞ想像力!と言わんばかりの内容で、本当にスゴイ。
でも、スゴイけれどつまらなかった。上下巻にしなくてもいい。言いたいことはもっと短くても成り立つ。
まぁ、その無駄と思える部分がエーコらしさ(良さ)ってことなんだけど。
それで、読み終える頃にはくだらない、つまらない、と思っていたのに、深く胸の内に何かがひっかかって残る。
だからエーコはスゴイのだ。
9/10がつまらないように思っても1/10で逆転させられてしまう。
ひっかかる何かというのは、哲学的で論理的なものかもしれないし、物理や科学かもしれない、一生をかけて研究をするようなことの断片。その欠片。
キラリと見えた部分を掘っていけば、磨いていけば、その全貌が見える。掘ることはそれは出家や修行かもしれないし、磨くことは研究かもしれない。
とにかく、今ここで私が簡単に言葉にできるはずのない事柄の欠片を感じるのである。
歴史とは如何なるものか、真実とは、秘密とは。
発見、発明、証明、すべての知について。
社会、世界。 人生、生命。
この小説の概要に相応しいと思う(私が勝手にそう思うのだが)箇所を引用しておく。
このことは、東日本大震災後にそれに関することで様々に意見をしている人々の多くに当て嵌まるところがあるように私は思う。
正義のように見える責任の擦り付けばかりの現代の日本は、まさにこの小説のようだと思う。
何も信じないから何でも信じてしまう、知らないということを知らない人間にはならないようにしたい。
毎日の生活にしたって然り。大恐慌やブラックマンデーの群衆心理がその典型。一人一人が誤った判断で行動するから起こるので、それぞれの誤った行動が一つにまとまって全体をパニック状態に陥れるのだ。それから意志薄弱な人間が怪しむ。いったい誰がこの陰謀を企んだのか、誰が得をするのか? そして最後に、陰謀を企んだ奴を見つけなかったら承知しないぞ、と脅す。それをお前は自分の責任だとでも言うのか。それとも責任を感じているから、お前が陰謀をでっちあげるのか。それも一つじゃなくていくつも。しかし、その陰謀を叩き潰すために、今度は自分の陰謀を企てなければならなくなる。それにお前が自分の理解のなさを正当化するために、他人の陰謀を知恵を絞って考えれば考えるだけ、その陰謀の俘虜(とりこ)になり、結局は連中と同じ土俵で相撲をとることになってしまう。それだったら、あのイエズス会やベーコン派やパウロ派や新テンプル派のあいだで、誰もが皆『計画』の責任を相手に擦りつけたのとどこが違うのだ。(下・506pより)
2012/01/03
初詣など
2012/01/01
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