『草のつるぎ』を読んで、野呂さんはあんまり好きじゃないかも...と思っていた私のもとに、分厚くてずっしりと重い『野呂邦暢作品集』がある。
『草のつるぎ』はちょっと特殊な内容だからその一冊だけで野呂さんを嫌いになるのはどうかということで、『野呂邦暢作品集』を読んでみることにしたのだ。
『草のつるぎ』はちょっと特殊な内容だからその一冊だけで野呂さんを嫌いになるのはどうかということで、『野呂邦暢作品集』を読んでみることにしたのだ。
読み出してすぐに、私は野呂さんが好きだと思った。
あまりにも良くてゾクゾクして陶酔した。
そうなのだ、『草のつるぎ』だって文章自体は好きだったのだ。
あれは長編で、自衛隊の青年が主人公という物語の内容なのがいけなかった。
描写されたワンシーンや文章はいいのに、だらだらと続くと何を言いたいのか分からなくなってしまうように感じてあまり好きじゃなかっただけだ。
描写されたワンシーンや文章はいいのに、だらだらと続くと何を言いたいのか分からなくなってしまうように感じてあまり好きじゃなかっただけだ。
私は間違っていた。
野呂さんの作品に劇的な物語を求めてはいけないのだ。
ただただ文章が生み出す風景や生活を読むのだ。
そして、その何の変哲もない日常こそが野呂さんの考える文学なのだ。
この作品集はまず短篇から始まる。
短篇は『白桃』『十一月』『日が沈むのを』『鳥たちの河口』の4篇であるが、これがどれもいい。
私にはズドンと直球でストライク。こりゃぁもうたまりませんなァ、といった感じだった。
4つとも印象に残るいい作品だったのだけど、なかでも女性が語り手となっている『日が沈むのを』が私は殊に良かった。
4つとも印象に残るいい作品だったのだけど、なかでも女性が語り手となっている『日が沈むのを』が私は殊に良かった。
気になる文章をいくつか抜粋。
同僚が食堂で男ともだちの噂から、今年の秋、結婚するだれそれの話をするとき、私はごく自然に自分の部屋で夕日に見とれている一刻を思いうかべる。 それは幸福に似ている。 (「夕日が沈むのを」より・ p 33 )
どうでもいいような部分に思われるかもしれないが、私には心にぐっときた。そういうのがたくさんあった。
野呂さんの文章には文字になっていない感情がある。
夕日は山の稜線に触れた。わたしは透明な砂金色の夕映えに浸っている。屋根瓦の濃い藍色が夕日を照り返して柔らかな黄金の陰影を帯びる。世界は深くなる。夕日の没する、なんというすみやかさ。わたしは息をのんでただうっとりとみつめる。 (「夕日が沈むのを」・p 44 )
物語の終わりにあるこの文章は、主人公と夕日が重なり一体となった美しい文章である。
野呂さんは心境を別のモチーフを用いて表現することに長けている。
ただの比喩ではなく、別のものは別のものとして筋が通っているのに、そのなかに主人公の心の動きや変化が重なるようになっている。
野呂さんの文章には色がある。印象派のような光に移ろい変わる色がある。
野呂さんの作品の特徴を言っているかのような箇所もある。私は野呂さんの作品はまさにこうだと思う。
野呂さんの文章には色がある。印象派のような光に移ろい変わる色がある。
野呂さんの作品の特徴を言っているかのような箇所もある。私は野呂さんの作品はまさにこうだと思う。
高校生のころ読んだ小説を思い出す。サナトリウムの女主人公が隣室のラジオで天気予報ばかり聴いている。それが記憶に残っている。小説の筋書きは忘れてしまったのに。
短篇が終わると長編がやってくる。
『壁の絵』『冬の皇帝』『草のつるぎ』『諫早菖蒲日記・(続編として短篇「花火」)』
長編のなかでは私は『諫早菖蒲日記』が好きだ。
幕末の諫早を描いたこの作品はまるで時代劇のドラマの映像を見ているようだった。
文章を飛び越えて、本を飛び出して、眼の前にはリアルな人物と風景と生活があった。
私がその時代のその場所にいるかのような錯覚さえ覚えた。
細かな状景描写が読み手をそういう気分にさせるのだろう。
それと、溌剌として生き生きとした武士の娘・志津という少女を主人公に据えていることが効いているのだろう。志津という「少女」の目線の瑞々しさがこの作品をただの時代物にさせていないのだろうと思う。
好奇心と活発さと初々しさ。志津はキラキラと光る日の光そのものとなっている。
もちろん他の登場人物もいい。砲術指南役の父上、躾にきびしい母上、使用人の吉爺、医師である伯父上、志津が思いを寄せる直次郎様 etc...。とくに吉爺がいなかったらこの物語は成立しない。
それと、溌剌として生き生きとした武士の娘・志津という少女を主人公に据えていることが効いているのだろう。志津という「少女」の目線の瑞々しさがこの作品をただの時代物にさせていないのだろうと思う。
好奇心と活発さと初々しさ。志津はキラキラと光る日の光そのものとなっている。
もちろん他の登場人物もいい。砲術指南役の父上、躾にきびしい母上、使用人の吉爺、医師である伯父上、志津が思いを寄せる直次郎様 etc...。とくに吉爺がいなかったらこの物語は成立しない。
物語途中から不吉な空気が流れ出し不安感が募り気持ちがぞわぞわしたのは、文章の中にすっかりのめり込んで自分も物語の中に入ってしまったせいだろうと思う。
少女の成長という視点と時代の移り変わりという背景が見事に合っていて、素晴しい作品だった。
ずっと続けばいいのにと思いながら読んだ。
そう思ったら、小説は終ってしまって、次からは随筆。
随筆もすごくいい。山田稔さんの文章みたいに読みやすくておもしろい。
「小さな町にて(抄)」のいくつものエッセイを読んで、野呂さんが絵をやり、よく映画を観ていて、音楽にも明るいことを知り、なるほど納得した。
色彩の織り成す美しい風景描写、映像として浮かび上がる文章構成と細やかな描写、音楽と成り代わり、または音楽がBGMとして流れるような文章がどうして生まれたのか合点がいった。
野呂さん自身の文学に対する文章に対する考え方が見えるエッセイとなっていてとても興味深い。
最後に、作家になろうと文章を書き始めた若き日の野呂さんが終わりまで書くことができず何が足りないのか自問自答する場面がありその部分が印象に残ったので引用しておこうと思う。
上手下手にかかわらず小説を小説たらしめるには作者の内部にやみくもな情熱がなければならない。文学の実在性に対する信頼とでもいおうか。高一の冬、二科展で見た伊藤研之作の白い馬をときどき思い出すことがあった。絵画のリアリティーは疑い様がなかった。文学も、といいたい所だが終わりまで書けない以上、私の中には我を忘れてペンを握り、物語の世界を完結させる情熱が欠けているのだと認めるほかはなかった。
(中略)
フルートの音が聞こえた。ラジオから流れ出ているのはフォーレのシチリア舞曲であった。短調の三拍子で演奏されるメランコリックな曲を耳にしたとき、私はジュリアン・グリーンの世界がそのまま音に変わったかのように思った。文学という虚構の世界がまぎれもなく私の中に実在することを、その瞬間に感じた。
この本を読めて本当に良かった。おすすめの1冊。
野呂邦暢という素晴しい作家のことを思い違いしたままにならなくて良かったと心から思う。