2012/08/29

8/25-29 長野旅行

別荘のある長野飯綱高原へ行って来た。
別荘に着く前に、長野市内で行きつけの味噌屋「すや亀」で食事をし、霊仙寺湖で行なわれる花火を見て、戸隠のうずらやで蕎麦を食べ、小林農園でとうもろこしを買い、ゴルフコースを回り、テニスをし、火燃しをした。


ここの花火は土手に寝転んで見る。
天から花火が降ってきて宇宙空間を漂っている気分になる。



湖上花火


戸隠

うずらや店内

小林農園
ここのとうもろこしは本当に美味しい。
私はとうもろこしが苦手なんだけど、ここのだけは食べられる。

別荘には子連れ家族も来ていたので、みんなでBBQをしようと
父と旦那さんでBBQ用に火おこししてくれたのにこの後雨が降ってBBQは中止に(T_T)

長野に来ると火燃しばかりしてしまう。めらめらゆらゆら燃える炎は飽きない。
そしてやっぱり火というのは不思議な力があるなと思う。

牟礼駅
なーんにもない素晴しいのどかさ



信越本線


2012/08/24

『私のピカソ 私のゴッホ』池田満寿夫(中公文庫)


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 室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」にならって「我が愛する画家の肖像」を書きたいと希(こいねが)った。(中略)
 はじめのプランではロートレック、ゴーギャン、セザンヌ、マチス、クレー、カンディンスキー、モンドリアン、ムンク、デ・クーニング等がリストアップされていた。しかし、今になってみると書きあげた画家はピカソ、ゴッホ、モディリアニの三人だった。

 何故この三人の画家たちに限定されたのか。(中略)この三人の画家は、私が画家になろうと決意した青春時代に最初に私の心を揺り動かした画家たちだった。

 ゴッホにおいては告白するものと告白される側の関係、つまりヴィンセント・ヴァン・ゴッホの終生の唯一の支援者であった弟テオとの葛藤を、モディリアニにおいては伝説の効用と青春の破滅を、ピカソにおいてはこの二十世紀最大の画家の青春の挑戦を、私なりに自分の青春と合わせて書いてみたかったのだ。

 この三人の伝説的な画家たちをとらえてはなさなかったものは何だったのか、私なりに解釈しようとしたともいえる。ゴッホは信仰によって、モディリアニは愛によって、ピカソは変身によって、それぞれが信じられないスピードで絵を描いた。(中略)描きたいという本能の力が何よりも優先していた。


あとがきより

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この本の説明として作者自身のあとがきが一番適切に思ったので引用した。
これ以上何も言うことがないというくらい、的確に言い表していると思う。

私はちょうどこの本を手にした時虚ろで上の空な状態だったせいか、気付くと何も考えずに文字を追っていたり何も頭に残らなかったりしてしまうことが度々あった。
共感したり関心を持ったりする文章が沢山あるのに関わらず、全体としてみるとひっかかりが少ないという感じだった。

私は表紙の絵であるピカソの青の時代が大好きだし、ゴッホも大好きだし、モディリアニも満寿夫さんも好きなのだから、この本に感動しないということは有り得ないはずなのである。
ほんとうはもっと感銘を受けるはずの本であると思うのに、どうしてだか、深く印象に残る強烈に心に響くものというのはなかった。

どうしてだろうと考えてみた。

まずひとつ、ピカソもゴッホもモディリアニもあまりに有名な画家である。だから知っていることも多い。
同じような美術評論としては、洲之内徹さんの『気まぐれ美術館』があるが、こちらは藤田嗣治や梅原龍三郎や岡鹿之助や長谷川潾二郎などである。この本で知った画家も少なくない。
知らないことを知るというのはそれだけで感動する。

つぎに、ひとつの作品について語るのではなく画家について語ろうとすると短いエッセイでは無理があるように感じる。
『気まぐれ美術館』も短いエッセイだが、こちらは画家のひとつの顔にもしくはひとつの作品に焦点を絞っている。
しかし満寿夫さんのように言いたいことが色々あると、あっちをかじりこっちをかじりで話が飛ぶから読んでいて最初はどんなことが書いてあったんだっけ?と何度もページをめくってしまう。
そういうのが積み重なって読み終わると全体として何が書かれていたのか忘れているということになる。
読んでいる瞬間目にしている文章そのものはおもしろいのに、記憶に焼き付かない。


それでも興味深い本だった。
満寿夫さんの見解は画家としての立場で書かれているのがいい。目線が違う。
ゴッホの絵において、正しい油絵の技法と材料のおかげで保存状態が非常に良く、そのために光輝いて見えるという話はとくに興味深かった。(そして、そのテカテカ光っている明るい色が、憂鬱で暗い絵を好んでいた当時の青年は嫌いだったという話も私もそうだったからよく分かった)。

この感想を書いていたら『気まぐれ美術館』をまた読みたくなってしまった。


2012/08/19

太鼓小僧 夏ライブ @ラゾーナ川崎


9年くらい前にバイト先が一緒で知り合った友人はその頃から和太鼓をやっていた。
彼女(ルウ)とは確か年が割と離れていて、姉さんと慕ってもらっていた。
ルウとは仲良くしていたのに私の方に色々とあって、疎遠になってしまっていた。

今回9年ぶりに突然メールが来て、和太鼓のショーのお誘いを受けたので行って来た。
ルウから連絡が来たことが嬉しかった。

私、和太鼓の音って好き。お腹に「ずん、ずん、」と来る振動っていい。クラブも同じ要素があって好き。
大小様々な和太鼓を使って、それぞれの音の違いで聴かせるというのは面白かった。金髪に刺青の人がすごく上手かった。
海外公演したらいいのにと思った。(けど、太鼓を持って行くのが難儀だから難しいのか...。)
ホントにすごく良かった。


撥捌きが速いから写真ではこうなっちゃう(*0*)




http://lueluelue.com/index.htm


2012/08/17

『楼閣に向って』池田満寿夫(角川書店)



中篇の『楼閣に向って』から始まり、短篇の4つ『震える男』『反ポルノ』『ガリヴァーの遺物』『スウィフトの恩寵』が続く。
『楼閣に向って』は、以前に読んだ『ズボンの中の雲』から抜き出された1コマの物語だった。舞台は満州だし、主人公の<少年>の家がカフェーを経営しているのも同じ。少年が性に目覚めるというのも同じ。
でも私は『ズボンの中の雲』よりこっちの方がいいと思う。少年と青年と大人の割合もいいし、全体を暗い影に覆わせたのもいい。短くまとまっていることで絵画的な良さがよく出ている。いや絵画的じゃなくて映画的という感じかもしれない。

この本の中では『震える男』が良かった。この短篇は満寿夫さんだから書けたように思う。
画を描くというのと文章を書くというのが一緒くたに表現されているように感じた。
どちらも心象を表現するものである。
たとえば「暗闇の吹雪」という形で心を表現する。この場合、文字は映像をイメージさせ、イメージから心象につながる。
一方「棺の重さが肩と腕の骨に痛いほど響いた」というのは文章自体がイメージを持っている。この場合、言葉は映像をイメージさせるのではなく、文章そのものが心を表現している。

そのようにして『震える男』では、主人公の感情や気持ちが妄想や状景によって表現されている。
人間の心というのは単純ではない。様々な思いが同時に混在する。だから支離滅裂に見える描写は主人公の心を表現するのに相応しいように思った。


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巻末にそれぞれの発表誌が載っている。
「ガリヴァーの遺物」は『思考する魚』収録とあったのだが、読んだ記憶がなかった。『思考する魚 Ⅰ・Ⅱ』の目次を見てもそういうタイトルはない。どういうことだろう? 文庫には収められていないということなのかしら(@_@)?

2012/08/13

『私小説 ーわが青春の文学と性の遍歴ー』池田満寿夫(文藝春秋)



私が池田満寿夫さんを好きになったのは長野にある池田満寿夫美術館へ行ったのがきっかけだった。何年前のことかは覚えていないがかなり前だ。その美術館で満寿夫さんの作品を見て受けた衝撃はよく覚えている。
美術館へ行くまでの私は、池田満寿夫という人は知っていても作品についてはあまり知らなかった。そしてあまり好きに思っていなかった。
しかし母親に誘われて池田満寿夫美術館に行き、そこで見たヨーロッパ風の作品で(ヴェネツィア・ビエンナーレで受賞した作品のような画だった)私はいっぺんに池田満寿夫を好きになってしまった。
「なんて素敵な線!なんて素敵な色み!」と、血の気が引き、ぼおっと立ちすくんだのを覚えている。私の体と世界が乖離して足が地面についていないように感じた。
そしてここから私の版画熱も生まれたように思う。この美術館で版画についての実用書的な本も買った。
それ以来「池田満寿夫」という文字に反応するようになり、古本屋で『エーゲ海に捧ぐ』を見つけて読み、文章を書く池田満寿夫も好きになった。

満寿夫さんと私は結構感覚が似ているように思う。先に読んだ『思考する魚』は付箋だらけになり、同じように思うところが沢山あった。共感できるから好きなのだと思う。
この本『私小説』でもやはり同じように共感するところが多かった。
たとえば太宰治について。高校三年の時にとりつかれたとあったが、私も高校三年の時にとりつかれた。満寿夫さんは
多分太宰の敗北の思想が私の共鳴を呼んだのであろう。「人間失格」、私は自分の自画像を眺めているようにさえ思った。ワタシハ猿ノヨウニ醜カッタ。そんな「人間失格」のフレーズが私のふさぎ込んでいた心に、妙に甘ったるく、やるせなく響いた。
と書いている。私の方は太宰の『斜陽』で号泣したのを覚えている。きっと太宰の文学というのは十七、八の若い心に響くのだろう。
どうしたって切れない血の繋がりというものに気も狂わんばかりだった高校生の頃、血の繋がりを絶つためには死ぬしかないと思い詰めていたあの頃、私は、暗く人間臭く現実味をもってある物語というものに惹かれていたのだが、それを言葉でなんと言えばよいのか分からなかった。そこへ満寿夫さんが言葉をつけてくれている。
満寿夫さんは太宰だけでなく芥川龍之介も萩原朔太郎も好きだったのだが、私も芥川と萩原は好きだった。大学の卒業論文は芥川についての考察だったし、萩原の世界も中学生の頃ハマっていた。
芥川、萩原、太宰。この三人に共通するものがあるとすれば、それは「憂愁」であった。別な言葉におきかえると芥川は「寂」であり、萩原は「メランコリー」であり、太宰は「淋しい」であったかもしれない。そして、共に敗れた人たちである。芥川は自らの "才気" に敗れ、萩原は "家" に敗れ、太宰は "時代" に敗れた。少年にはそれは素晴しい敗北に映った。彼等の「憂愁」にはフランス象徴詩人たちによって発見された近代精神があった。世俗にさからう貴族精神と、群集のなかの孤独と、新しい芸術潮流に鋭敏な感覚とがあった。また彼等はなによりもボードレール的な病める精神を識っていた。芥川は "病理学的" に、萩原は "精神主義的" に、そして太宰は唯 "病的" に病んだ。
敗北の美学か。なるほど、そうだなぁと思う。


次にはカミュの『異邦人』が出てくる。やはり私も同じようにこちらも高校生の時に読んで衝撃を受けた。
満寿夫さんは『異邦人』について、「思考する感覚」ともいうべき概念を教えられたと書いている。
カミュの文体は私の感覚に五発の銃声を炸裂させる効果があった。この小説をはじめて読んだ時の衝撃は、勿論文体だけによるものではなかった。不条理といういままでは知らなかった哲学的な概念が、小説という形式のなかで、ムルソオによって語られている点にあった。
この不条理の概念から満寿夫さんは哲学にも手を出し、サルトルの『実存主義とは何か』を読んでいるが、そのあたりは私とは違う。『異邦人』を読んでも私は全然哲学の方に行かなかった。カフカの『変身』や三島由紀夫の『金閣寺』の方に行った気がする。
向かった方角は違うが、自分が思っていたことと同じことが書いていてびっくりした箇所がある。カミュとクレーがどこか似ているように思えて仕方ないというのである。私も感覚的に「似ている」と感じる。 私はカミュの本をイメージするとどうしてだか装幀にクレーの画が浮かんでしまう。


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後記に作者自身でも書いているが、
<各章によって文体や主題に一貫性がない。はじめの頃は作家論か作品論にもっと重点をおいて書くつもりであったが、だんだん自伝的要素の方が多くなっていった。>
という本作品において、私は作家論や作品論をメインにしている最初の数章が好きだった。自伝的要素が多くなる文章ならば『思考する魚』の方がずっと面白く興味深い。
ヘンリー・ミラーについての最後の2章はもう全く遅々として進まなかった。


2012/08/05

縁縁コラボ展



8月8日(水)〜9月3日(月) (8/13〜15は夏期休暇でお休みです)
ギャラリーカフェバー縁縁コラボ展「つながる」


来店したお客様にプレゼントするカードはコレ ↓

PALE COLOR VERSIONとVIVID COLOR VERSIONのハト。
OKマットポスト紙220kg / レーザープリント