2013/01/29

『禁猟区』丹羽文雄(新潮文庫)


読んでいた本に丹羽文雄さんの名前を度々目にしていたので読んでみたいと思っていた。

ふらっと寄った近所の本屋にたまたまこれだけがあったので、本の内容はあまり考えずとりあえず買ってしまった。

背表紙には

「見はてぬ夢を追い続け、最後には夢破れて自殺する美貌の女性空閑虹子。(中略)結婚という平凡な対称に憧れ続け、自分には結婚生活を行なうことが出来ないということがついに判らなかった女の転落の相をえぐって精彩を放つ評判作」

とある。

これを読んで、私は「見果てぬ夢」が「大金持ちとの結婚」だと思わなかった。ただ勝手に夢と結婚は別なものだと思いこんでいた。
ところが、夢は大金持ちとの安定した結婚なのである。一応はその理由付けに虹子の生い立ちが関係していて、そうすることだけが唯一の自己の存在証明なのだ、と言うが、私は虹子にまったく共感できなかった。

虹子の主張は筋が通っていて、分からなくもないと思うところもあるが、根本的に私は虹子のような女性が苦手なのだ。
人の気持ちを考えない、思いやりのない、からっぽで、自分中心の人、が虹子である。そういう人間が私は苦手なのである。

いつも私が使う「おもしろい」というので言うならば、ちっともおもしろくない。
これはまさに大衆文学というものなんだと思う。俗っぽいのは私はあまり好きじゃない。
だから、ムカムカしながら早く転落しないかなぁ、という気持ちだけでずんずんと読んだ。昨日は起き上がれずに横になっていたので一日で読んでしまった。

この本に登場する男女は、人間の本音を代弁していると言ってしまえば、そういうことなのかもしれない。
私だって大金持ちと結婚して美容にお金をかけられて不自由無く暮らしたいとは思う。でもそれだけで幸せというのではない。


そうは言っても、気になった台詞もあったので最後に載せておく。
これは虹子の台詞ではなく、この作中唯一真っ当な人であるクラブのママの台詞である。

「お幸ちゃんの自殺は、結局お幸ちゃんがそれだけ利口ものだったということになるのじゃないかしら。もうすこし馬鹿だったら、自殺しようとは思いはしなかったでしょう。もうすこし聡明だったら、ほかに生きる道を選んだでしょうね。自殺するに丁度いい程度に利口者だったのよ。ねばりが足りなかったために、あっさりと自分を自殺に追いやってしまったのだわ。
(中略)
お幸ちゃんは、自分以外の人間に対して、何かを是非しておくといった義務感を持たなかった。そのことが、お幸ちゃんを自殺に追いやった唯一の原因ではなかったかしら。どんな意味でもかまわないけど、つまりお幸ちゃんは誰かのために犠牲になることを知らなかったのね。」(p436 - 439)



このあとに虹子は、
私はお幸ちゃんの自殺には賛成したくない。家庭生活はうるさい。たとえ五十を過ぎても異性は必要だ。でも命令はされたくない。男のために生活がかき乱されるのはたまらない。身ぎれいに贅沢に暮らしたい。あのまま家庭にいたら私の美貌は損なわれていた。水商売に引き入れてくれたマダムは私に若さと美しさを取り戻してくれた恩人だ。
と言う。呆れて物も言えなくなる(終始こんな感じなのだ)。



2013/01/27

『新潮現代文学 29 堀田善衛』(1950 新潮社)



 『ヨーロッパ・二つの窓』(加藤周一共作)を読んだことで堀田さんを知り、その後スペイン旅行することになったことで、スペインと関わりの深い堀田さんに興味を持った。

 堀田さんの作品『広場の孤独』『橋上幻像』は海外文學っぽいなと感じた。

 『橋上幻像』の序盤はちょっとカルヴィーノの『柔らかい月』に似ていると思った。

性の経験は、あれはね、たしかに生きていることの一回一回の実証ではあるでしょうけでど、あれは一回一回の死の経験なのじゃないか、と、ね。死というのがもし言いすぎなら、死にもっとも接近した経験なのじゃないかと思ったの、(中略)死にもっとも接近した経験でなかったとしたら、人生でこんなにもその一回一回を忘れないで記憶している筈がないと思う。人生での最終的な、最大の経験は、結局、死、でしょう。だから・・・。コイタスの後、人は悲し、って言うでしょう。なぜ悲しいか、意識というものをもたされた人間ってこともあるけれど、なぜ悲しいか、それはね、それ以上のこともそれ以下のこともないからなのよ、死そのもののようにね。(『橋上幻像 第一部 彼らのあいだの屍』より)

 男(四郎)と女(みどり)が屍について語り合うところから私はちょっと現実から離れ始めていた。そして上記のセリフを読んだとき、不意に私のパンドラの箱が開いて、頭の中に様々な色々なことがなだれ込んで来て、活字から離せない眼を無理矢理引き剥がし、慌ただしく日常行動をとって自分を無理矢理現実に引き戻した。
 ほんとうに愛している人とのコイタス(coitus)というのは、悲しさがある、と私も思う。思うというか事実としてそう知っている。私はいつも死んでしまいたいと思った。それは幸福の反動なのかもしれない。けれど、いつも、悲しくなって涙がこぼれて死んでしまいたいと思った。どうしてそうなのか分からなかったのだが、このセリフを読んではっとしたのだ。
 色々なことがぐわっと押し寄せて来て、ちょっとパニックになった。
 怖くて続きが読めなくなった。
 毎日死について考えるような、過去に様々なものを抱えているような人には、四郎とみどりのやりとりはいけない、と思った。
 しかし、この部分を過ぎてからは全く普通に読めて、思ったことをその時にメモしていなかったらそんな気持ちになったことすらすっかり忘れてしまっていたと思う。

 この部分は、たまたま堀田さんの作品にあったというだけで、他のものを読む限りこれが堀田さんの作品の常であり堀田さんの作品を言い表わしているとは思わない。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 『方丈記私記』もおもしろかった。

 私は大学時代は中世日本文学を専攻していたのだけれど、ほとんど中世日本文学作品を読んでおらず『方丈記』も読まなかった。

 『方丈記』は、誰もが知っているその冒頭

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」

 しか知らず、この冒頭から推察して、無常やあはれについて書かれたものだと思っていた。

 ところが、堀田さんのこの『方丈記私記』を読んで、『方丈記』は思っていたものとはまるで違うものだと知り、『方丈記』を戦中戦後との比較で論じられると、「へぇ〜」と思うことや、「などほど」と思うことだらけで、『方丈記』を分かりやすく且つ興味深く理解できた。

 古都はすでに荒れて、新都はいまだ成らず

 という方丈記の中のことばが何度も取り上げられているが、これは戦前・戦中・戦後の時代を生きた堀田さんにとって実感できることであったのだろう。そして、東日本大震災を体験した今の私たちにとっても『方丈記』は実感できるところが多いにあるのではないかと思う。

 『方丈記私記』は堀田善衛さんの『方丈記』講義を受講しているような気分になった。
 人の心ということにとどまらず、政治や災害ということにまで着目していることと、鴨長明自身について深く読み込んでいるのが興味深かった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 『ゴヤ(『黒い絵』について)』は、堀田さんのゴヤについての作品の中のほんの一部で、いつか全4巻を読んでみたいと思った。


2013/01/17

Maori's Accessory


Loop tie



Tiepin


Maoriちゃんからこの間の個展のアクセサリーが届いた。つけるのが楽しみ。



2013/01/10

『新潮現代文学 5 尾崎一雄』(1981 新潮社)


お正月に実家へ戻ったとき、父の本棚にこの『新潮現代文学』全80巻を見つけ、とりあえず尾崎一雄さんと堀田善衛さんの巻を借りて来た。

父に「室生犀星は何かある?」と聞いたら、この新潮現代文学を見せられたのだが、このシリーズに室生犀星はなかった。でもまあ80巻もあればあると思う方が普通だ。

1は川端康成、2が井伏鱒二、と始まり、読んでみたいと思っていた人がかなりあった。中野重治、丹羽文雄、伊藤整、高見順、中山義秀、檀一雄、田宮虎彦、福永武彦、小島信夫、森茉莉、丸谷才一など。梅崎春生や庄野潤三、安部公房、吉行淳之介もあったから、読んでいないのは読んでみたいと思う。

函の絵はそれぞれ有名画家が手がけている。
東山魁夷、奥村土牛、小野竹喬、平山郁夫、中川一政と続く。
でも、尾崎一雄さんの装画が中川一政さんというのは、読み途中には屢々ちょっと違う気がした。遠くもないけどぴったりというのでもない。この絵からは尾崎さんの文章はイメージしないなぁと思ったりした。
この前に読んでいたのが島村利正さんだから島村さんと比較して言うと、島村さんは薄塗りの澄んだ水彩で、尾崎さんはどっしりとした油絵。
島村さんの色は透き通る明るい色に対し尾崎さんは涅色や茶褐色のような重い色。
緑は翡翠ではなく千歳緑、空は空色ではなく薄縹。
野に咲く可憐な花ではなく古い老大木。滑らかな女の肌ではなくごつごつとした男の手。
中川一政さんの絵はイメージからするとちょっと明るすぎる気がした。でもタッチや色の使い方や重さはイメージに近い。
と、こんな風に思って読んでいたのだが、読み終わったら中川さんの絵で合っている気になった。
後半の話のいくつかが前半のものと印象が違ったからだと思う。
終わりの方の作品は元気な老人のエッセイ風で割と明るい色みを感じるようなものだったから、最終的な印象が変わったのだ。

前半の印象は小説風な『懶い春』と『すみっこ』が占めている。その他にエッセイ風の
『虫のいろいろ』『美しい墓地からの眺め』『まぼろしの記』『夢蝶』『松風』『井戸がえをしなければ──』『蜜蜂が降る』『居据った蜜蜂』『八幡坂のあたり』『だんだんと鳧がつく』『鎌倉の人』『木登り』が収められている。

尾崎さんの作品は全部私小説という感じなのかもしれない。だから「それ知ってる」というエピソードが重なって出て来て、そのうち文章の良さみたいなものが半減してしまっているような気がする。
ひとつひとつは良いのだが、まとめて読むと感想がよく分からなくなる。

ただ、小さきものに焦点を当てながら大きな題材を描くというのが尾崎さんなんだな、と思った。自然の植物や昆虫などの生命を取扱いつつそれがいつの間にか人間のそれに結びつく。小さなエピソードの奥に大きな命題が見える。
だから全体に「死」がうろうろしている。尾崎さんの「死」は「生」そのものでもある。
───俺はこの頃、何か墓場へもぐる準備ばかりしているようだが、実は、そうではないのだ、と思う。すべては「生」のためだ。人間のやることに、「死」のためということはない。人間は「死」なんか知ったためしがない、「死」を体験する主体、我はすでに無いからだ。人間は「生」のためには、自殺さえする───。(『美しい墓地からの眺め』より)

それから、運命のような、どうすることもできない何かというのも多くに出てくる。
それは植物にもあるし、人の死にもある。

私がこの中でいちばん印象に残り、「すごい」と思ったのは『すみっこ』だ。
その形式構成も内容もインパクトの強い作品である。
もし人に尾崎さんの本で何かおススメは?と聞かれたら絶対にこの『すみっこ』を勧める。

この話は主人公の手記(画家のK先生に宛てた手紙)という形式をとっている。
どうしても、誰かを相手に、話して了う必要がありそうだ。一度、徹底的に話して、頭、胸、というより、身体中に充満した悪気のようなものを抜いて了わないと、現実的に何か好くないことが起りそうな気がする。
と始まる。
主人公は戦争中駆逐艦に乗り従軍した男で運良く生きて帰ってくるが、生まれた子供は先天的な「兎唇  (みつくち)」であった。
その後主人公が人目を避け閉じ込めたせいで子供の足は後天的にO字に彎曲してしまう。
ようやくどちらもに片がつき始めた矢先に子供は電車に轢かれて死んでしまう。
理不尽、生と死、エゴ、神仏、色んな題材がぎゅっと詰め込まれて喉の奥が苦しく胸が締め付けられるような話である。
そしてそういう内容なのに「すみっこ」という題名をつけるところが尾崎さんの才能っぷりを感じる。(題名の所以については触れないでおくが)
小説の終り方も秀逸だと思う。最後の一文は泣けてしまう。


最後に、『すみっこ』についての三島由紀夫のことばを載せておく。
「この小説には、私小説の方法論を、私小説作品自身が徹底的に利用したといふ面白味があり、ふつう、小説でまづ人物の性格が設定されるところを、その代りに、やむぬやまれぬ一生一度の告白といふ形で、告白の根源的な衝動を設定してゐる。尾崎氏の一転機を劃する作品であるばかりでなく、『フイクシヨンの私小説』として異色ある作品である」


2013/01/08

『清流譜』島村利正(中央公論社)


 「清流譜」は「瀧井孝作全集」の月報に12回連載されたもの。そのほかに「海」に掲載された「潮来」「神田連雀町」「佃島薄暮」という続きものの小説が収められている。

 島村さんの書き物には瀧井孝作さんと志賀直哉さんがよく登場する。しかし私はどちらも読んだことがない。志賀直哉はさすがに小中学生のころに読んではいるけれど、全く覚えていないから読んだことがないに等しい。いつか読まなくてはとは思っていても、なかなか有名どころの作家に手が出せない。

 滝井さんの方は読んだことのある人に聞いてみたら俳句の人だからかごつごつしていると聞き、さらに島村さんの作中に滝井さんの文章の引用があってそれを読むと確かにごつごつした感じと読みにくさがあったので、滝井さんも当面読むには至らない気がする。
 でも、島村さんの本を読んでいると瀧井孝作と志賀直哉は読みたいという気にさせられてしまうのは、島村さんの文章がいいからなんだろう。

 島村さんの文章はやっぱり好きだなぁと思う。小説ではないエッセイ風の「清流譜」もやっぱりちゃんと島村さんで、いい。
 何がどう良いのか説明ができないのだけれど、なんかいい。やさしくて、静かで、さやさやしている。たっぷりの水で溶いた若竹色や勿忘草色みたいな文章。