お正月に実家へ戻ったとき、父の本棚にこの『新潮現代文学』全80巻を見つけ、とりあえず尾崎一雄さんと堀田善衛さんの巻を借りて来た。
父に「室生犀星は何かある?」と聞いたら、この新潮現代文学を見せられたのだが、このシリーズに室生犀星はなかった。でもまあ80巻もあればあると思う方が普通だ。
1は川端康成、2が井伏鱒二、と始まり、読んでみたいと思っていた人がかなりあった。中野重治、丹羽文雄、伊藤整、高見順、中山義秀、檀一雄、田宮虎彦、福永武彦、小島信夫、森茉莉、丸谷才一など。梅崎春生や庄野潤三、安部公房、吉行淳之介もあったから、読んでいないのは読んでみたいと思う。
函の絵はそれぞれ有名画家が手がけている。
東山魁夷、奥村土牛、小野竹喬、平山郁夫、中川一政と続く。
でも、尾崎一雄さんの装画が中川一政さんというのは、読み途中には屢々ちょっと違う気がした。遠くもないけどぴったりというのでもない。この絵からは尾崎さんの文章はイメージしないなぁと思ったりした。
この前に読んでいたのが島村利正さんだから島村さんと比較して言うと、島村さんは薄塗りの澄んだ水彩で、尾崎さんはどっしりとした油絵。
島村さんの色は透き通る明るい色に対し尾崎さんは涅色や茶褐色のような重い色。
緑は翡翠ではなく千歳緑、空は空色ではなく薄縹。
野に咲く可憐な花ではなく古い老大木。滑らかな女の肌ではなくごつごつとした男の手。
中川一政さんの絵はイメージからするとちょっと明るすぎる気がした。でもタッチや色の使い方や重さはイメージに近い。
と、こんな風に思って読んでいたのだが、読み終わったら中川さんの絵で合っている気になった。
後半の話のいくつかが前半のものと印象が違ったからだと思う。
終わりの方の作品は元気な老人のエッセイ風で割と明るい色みを感じるようなものだったから、最終的な印象が変わったのだ。
前半の印象は小説風な『懶い春』と『すみっこ』が占めている。その他にエッセイ風の
『虫のいろいろ』『美しい墓地からの眺め』『まぼろしの記』『夢蝶』『松風』『井戸がえをしなければ──』『蜜蜂が降る』『居据った蜜蜂』『八幡坂のあたり』『だんだんと鳧がつく』『鎌倉の人』『木登り』が収められている。
尾崎さんの作品は全部私小説という感じなのかもしれない。だから「それ知ってる」というエピソードが重なって出て来て、そのうち文章の良さみたいなものが半減してしまっているような気がする。
ひとつひとつは良いのだが、まとめて読むと感想がよく分からなくなる。
ただ、小さきものに焦点を当てながら大きな題材を描くというのが尾崎さんなんだな、と思った。自然の植物や昆虫などの生命を取扱いつつそれがいつの間にか人間のそれに結びつく。小さなエピソードの奥に大きな命題が見える。
だから全体に「死」がうろうろしている。尾崎さんの「死」は「生」そのものでもある。
───俺はこの頃、何か墓場へもぐる準備ばかりしているようだが、実は、そうではないのだ、と思う。すべては「生」のためだ。人間のやることに、「死」のためということはない。人間は「死」なんか知ったためしがない、「死」を体験する主体、我はすでに無いからだ。人間は「生」のためには、自殺さえする───。(『美しい墓地からの眺め』より)
それから、運命のような、どうすることもできない何かというのも多くに出てくる。
それは植物にもあるし、人の死にもある。
私がこの中でいちばん印象に残り、「すごい」と思ったのは『すみっこ』だ。
その形式構成も内容もインパクトの強い作品である。
もし人に尾崎さんの本で何かおススメは?と聞かれたら絶対にこの『すみっこ』を勧める。
この話は主人公の手記(画家のK先生に宛てた手紙)という形式をとっている。
どうしても、誰かを相手に、話して了う必要がありそうだ。一度、徹底的に話して、頭、胸、というより、身体中に充満した悪気のようなものを抜いて了わないと、現実的に何か好くないことが起りそうな気がする。と始まる。
主人公は戦争中駆逐艦に乗り従軍した男で運良く生きて帰ってくるが、生まれた子供は先天的な「兎唇 (みつくち)」であった。
その後主人公が人目を避け閉じ込めたせいで子供の足は後天的にO字に彎曲してしまう。
ようやくどちらもに片がつき始めた矢先に子供は電車に轢かれて死んでしまう。
理不尽、生と死、エゴ、神仏、色んな題材がぎゅっと詰め込まれて喉の奥が苦しく胸が締め付けられるような話である。
そしてそういう内容なのに「すみっこ」という題名をつけるところが尾崎さんの才能っぷりを感じる。(題名の所以については触れないでおくが)
小説の終り方も秀逸だと思う。最後の一文は泣けてしまう。
最後に、『すみっこ』についての三島由紀夫のことばを載せておく。
「この小説には、私小説の方法論を、私小説作品自身が徹底的に利用したといふ面白味があり、ふつう、小説でまづ人物の性格が設定されるところを、その代りに、やむぬやまれぬ一生一度の告白といふ形で、告白の根源的な衝動を設定してゐる。尾崎氏の一転機を劃する作品であるばかりでなく、『フイクシヨンの私小説』として異色ある作品である」