小沼丹さんの名前はよく見かけていて、ずっとコヌマさんだと思っていたがオヌマさんだった。
この本には、小沼さんの生前最後に出た随筆集『珈琲挽き』からの46篇に、最初の随筆集『小さな手袋』から選ばれた15篇が加えられて収められている。
選者が庄野潤三さんだから、(2)**の小鳥や草花のことをメインにしたエッセイは、少し庄野さんに似ていると思った。
ちょうど少し前に庄野さんの『うさぎのミミリー』を読んだせいもあって、そう思った。
庄野さんと小沼さんは友達で、どちらのエッセイにも互いのことがよく出てくる。
ふたりとも小鳥や草花を愛おしんでいるのは同じだけれど、私は、庄野さんより小沼さんの方が男っぽくて子供っぽくて好きだ。
(1)*を読んでいる時、あーいいなぁ、いい感じだなぁ、そういう心地で読んだ。
草の上に座ってぽかぽかした陽射しを浴びているような、美しい月夜に木々に囲まれて露天風呂にのんびり浸かっているような、ほっとしてほんわかした心地になる。
そして、ふと、幼い頃の自分や住んでいた家や祖父母を思い出した。
畳や木の床、でこぼこした柱、襖に障子、小さな庭、そういうのがとても懐かしくなった。
ずっと一緒に住んでいた、もう亡くなった祖父母のことを思い出した。
畳に布団を敷いて、祖母に日本昔話を読み聞かせてもらって寝たことや、毎晩呑む祖父の徳利とお猪口や、ごつごつして皺だらけの手やその手が私にいつも添えられていたことや、イナゴの佃煮や野蒜や土筆を食べるという関東平野の田舎の風習まで、昔の思い出がひどく懐かしく思い出された。
(3)***は小沼さんに縁のある人たちにまつわるエッセイで、これも良かった。
『町の踊り場』という徳田秋声についてのエッセイの中で、
昔読んで感心した作品と云ふのは幾つもある。しかし、暫く経つて読み返してみると案外面白くない。こんな筈ではなかつたと云ふ場合も尠くない。秋声の作品は、どうもその逆ではないかと思はれる。最初読んで格別の感銘は無い。しかし、時が経つて二度三度と読むと次第に味が出て来る。殊に晩年の短篇にはそんな所があるやうに思ふが、これは読む方の年のせゐなのかしらん?と、あって、そうだよなと思った。
年齢を重ねて読むものが変わったり良いと思うものが変わったりする。
だから、小沼さんのこの本も、ようやく草木などに興味を持ち、のんびりとした田舎暮らしに憧れるようになった年齢だからいいなぁと思うのかも知れない。若い人には退屈な本かも知れない。
色々なことを経験してきて、尖った感情というものが擦り減って割合に静かな心持ちになってきたから、じんわり心に沁み入るのだろうと思う。