2011/06/28
2011/06/25
『別れの手続き』山田稔(みすず書房)
【帯書き】 人は思い出されているかぎり、死なないのだ。 思い出すとは、呼び戻すこと。 精緻な文章で、忘れえぬ印象を残す、名作13篇を収めるベスト・オブ・ヤマダミノル。 |
どうやら私はごく若いころから人生を思い出として、完了した過去の相の下に反芻することに喜びを感じる、そうした型の人間であったようだ。「私は人生を生きるよりも思い出すことが好きだ。思い出の中に生きたい」(フェリーニ)。
(中略)
楽しかった「こないだ」、いまでは近々過去でなく四、五十年も前の「こないだ」について、その時間を共にしたあの人この人について回顧談のようなものをせっせと書きつづける。
ここ数年私の書いてきたものは小説であれ、エッセイであれ、みな「いや、こないだはどうも」のつづきにすぎなかったような気がする。
文章によって親しい人を呼び寄せあるいは甦らせる、この世に呼びもどす、これもまた文学の大事な役目であろう。
(p202-203より引用)
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山田稔の文章を、まるでイタコのようだと言った人がいた。
そのときはまだ私は実感としてその意味がよく分からなかった。
そのときはまだ私は実感としてその意味がよく分からなかった。
先に読んだ『コーマルタン界隈』は、山田稔がパリで暮らしていた時の出来事を綴ったエッセイであり、過去を題材にしているという点では『別れの手続き』に共通しているが、死者を呼びもどすというのとは違った。
『別れの手続き』は、かつて山田稔が関わって今は亡くなってしまった人々を懐かしみその思い出を語るものである。
この本を読んで、さらには冒頭に引用した山田稔本人の思いを読んで「イタコのよう」な文章という意味が分かった。
親交のあった人との思い出話、そして登場する人物に興味を持たせるという点で、『昔日の客』関口良雄(夏葉社)を思い出した。
古本屋の主人であった関口良雄氏が様々な作家たちとの思い出を語る『昔日の客』も回顧談であり、亡くなった人を呼び寄せ甦らせるものだった。
『昔日の客』と山田稔の違いは、山田稔の方はどれもユーモアに溢れ、湿っぽくないということだ。
『昔日の客』の方は泣けるし、心にじんわりとあたたかいものが込み上げてくるようなものだったけれど、山田稔の文章はエスプリがきいている。そうして描かれる人はみなみずみずしく生き生きと映し出される。
山田稔自身が言う「こないだはどうも」というのが本当にぴったりとくる文章なのである。
『前田純敬、声のお便り』という話の中では、前田純敬の死を知ったときのことを「ああ、あのひと、まだ生きていたのか」なんて書いてしまう。
不快だった気持ちも正直に打ち明けてしまう。そういうところがすごい。
いいことだけ書くのは簡単なのだ。でも山田稔はそうではない。
汚いものも、惨めで情けないことも、さらけ出して書く。
そもそもこの本の最初に収められている話が『ヴォア・アナール』(←肛門の道という意味。便秘の話)という世界共通の話題を持ってくるところからして、山田稔という作家が「人間が生きるということは綺麗事だけでは語れないのだ」と考えていることが分かる。
そして、エスプリとユーモアに富んでいるということも分かる。
どんな人間だって食事をして排泄をする。それが生きるってもんだ。
どんなに悲しみに打ちひしがれても腹は減る。排泄だってする。
楽しみも幸せも悲しみも苦しみもすべて同じ中にあるのだ。
山田稔の文章はそう言っている気がする。
全部ひっくるめて人間なんだと。
全部ひっくるめて人間なんだと。
だから山田稔の回顧談は生き生きしているのかもしれない。
母親の死を知り、旅から帰る電車の中での描写、
「悲しみにもかかわらず空腹をおぼえ、それが恥ずかしくまた悲しく、わたしは顔を伏せ、
駅弁の冷たい飯の上に涙をこぼした。」(『志津』より引用)
という文章は本当に素晴しい。
冷たい飯の上に落ちる涙は、きれいに美しく書くよりもずっと悲しく感じる。
解説の中で堀江敏幸氏は
「山田稔が固有名であると同時に、ひとつの文学ジャンルであることはもはや疑いようがない」
と書いている。私もその通りだと思う。
山田稔の文章は「そうそう、この間こんなことがあってさ.......」と始まる友人からの手紙を読んでいるみたいに読める。
考えられた構成や精緻な文章を深く考察しようなんていうのではなく、ただ素直に、山田稔という文学を愉しめばいいのだ。
2011/06/24
パウル・クレー|おわらないアトリエ @東京国立近代美術館
《花ひらいて》1934, 199 油彩・カンバス、81.5×80.0cm、 ヴィンタートゥーア美術館
Dr. Emil and Clara Friedrich-Jezler 寄贈、1973 © Schweizerisches Institut für Kunstwissenschaft, Zürich, Lutz Hartmann
Dr. Emil and Clara Friedrich-Jezler 寄贈、1973 © Schweizerisches Institut für Kunstwissenschaft, Zürich, Lutz Hartmann
パウル・クレー。
学生の頃はそんなに好きじゃなかった。
それが、クレーのあの抽象的でカラフルな画風はチュニジアへ行って青の壁や鋲螺で象られた門扉の様々なモチーフなどを見て生まれたと知ってから興味を持つようになった。
すごく創作意欲が湧き勉強にもなった。
色々な手法別に作品を紹介してあったので、自分も色々なことを試してみたくなった。
油彩転写に近いことはするし、今はPCがあるから切ったり回転してみたりも簡単にできるけど、それでもクレーの試みや作品は刺激を与えてくれるものだった。
私は美大卒じゃないから「白亜下地」や「膠下地」なんていうのにも初めて知った。
とくに糊絵の具というのが気になった。
どういうものだろうとネットで見たら様々なものを混ぜたクレー独自の絵の具のことだった。そういう絵の具があるわけじゃないらしい。
そうか、そうでなくちゃいけないよなぁ。
描きたいものを描きたいようにということなんだよな。
描きたいものをどうしたら表現できるか独自に探求しなくちゃいけない。
そういう気持ちと心構えはすごく大事。
と、改めて心に留めた。
そうそう、会場には普通ならよくある年譜や時代解説などは一切ない。
私はもとより本にしても絵にしても作品重視だからさほど気にならないが、画家の人生を知りたいという人は困ると思う。
今回のこの展示はそういう意味でも創作をしている人におすすめの展示かもしれない。
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クレーを観たあと、神保町の古いビルにあるCAFE HINATAYAへ行った。
そのビルには、洲之内徹の画廊にあったのと同じ手動式のエレベーターがある。
日本で手動式に乗るのは初めてかも! 洲之内の本だ! かわいい! と、感動。
2011/06/20
MAORIちゃんのアクセサリー
日曜日、乙女パズルというイベントにMAORIちゃんが出展するというので行って来た。
そこで買ったイヤリング。
垂れ下がっている部分はイヤリングに引っ掛けてあるだけなので、取り外しが出来る。
本当は別のピアスが気に入っていて欲しかったんだけど、
合わせてみたらこっちの方が似合ったのでこちらを購入。
好きなものと似合うものは違うなぁとまた思った。
2011/06/16
『むずかしい愛』イタロ・カルヴィーノ(和田忠彦訳/福武書店)
二度目のナボコフ短篇集の合間に読んだ。
こちらも短篇集で読みやすい。
そして、それぞれに付けられたタイトルがいい。
「ある ◯ ◯ の冒険」というタイトルで揃っていて(12篇)、
それぞれの人間のそれぞれの日常のひとコマが描かれている。
私は「ある夫婦の冒険」がよかった。
どこがどんな風によかったのかと言われると「なんとなく」なのだが、
日常に在る小さな些細な出来事と、そこに潜む小さな些細な感情、
そういうのがじんわりと「いいな」と思った。
2011/06/14
2011/06/13
舞台『雨』
その人をその人たらしめるものの脆弱さ。
その人がその人であると証明することの容易さ、それ故の難しさ。
現代であれば、その人がその人である物質的な証明は容易い。
DNA鑑定や指紋照合といった技術によって、その人がその人であることはいとも簡単に証明できる。
しかし、そういった技術を用いないとしたらどうだろうか。
自分は「誰それこういうものである」という証明は、個人自身の訴えと証言に頼るしかない。
ところが、大方の人間は曖昧なものである。
もしも仮に、ある日突然自分がそれまでの自分としてではない人間という立場に置かれてしまったら、
自分であるということが自分のなかにしか存在しないとしたら、
自分であるということが自分のなかにしか存在しないとしたら、
自分がそれまでの自分であると証明できるだろうか。
おそらく無理である。
証明しようとしているうちに、自分の存在というものが、これまでの自分の存在そのものが、自分自身の内でもぼやけて霞み薄れ不鮮明になってしまうだろう。
個人を形成するのは周囲でしかないのである。
周囲の認識を積み重ね、自分自身の認識も積み重なってゆく。
家族、友人、環境、誰かと共有している記憶。
その上に塗り重ねるようにして現在進行する自分があり、未来がある。
自分を自分と認めてくれるものの存在が無ければ、自分の存在というのはひどく不確かなものになってしまう。
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劇はコメディ風に進み続けるが、その内容とオチはシニカルで考えさせられるものだ。
笑える仕立てにしている部分が、実は重要な、話のカギになっていたりするのだが、それをそれと気付かせないで終盤まで持っていく。
ひとつひとつの台詞に繋がりがあり、主人公を演じる市川亀治郎の演技は主人公の気持ちの変化を見事に表現していて、終演したときには主人公に同情し、その人生について反芻したり、何をどうするべきだあったのか、いや、どうにもできない運命があるのだ、人生というのはまさに何が起こるかわからない自分の手中にはないものなのだ、などと様々な思いや感情を胸の内で巡らせてしまった。
2011/06/01
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