その人をその人たらしめるものの脆弱さ。
その人がその人であると証明することの容易さ、それ故の難しさ。
現代であれば、その人がその人である物質的な証明は容易い。
DNA鑑定や指紋照合といった技術によって、その人がその人であることはいとも簡単に証明できる。
しかし、そういった技術を用いないとしたらどうだろうか。
自分は「誰それこういうものである」という証明は、個人自身の訴えと証言に頼るしかない。
ところが、大方の人間は曖昧なものである。
もしも仮に、ある日突然自分がそれまでの自分としてではない人間という立場に置かれてしまったら、
自分であるということが自分のなかにしか存在しないとしたら、
自分であるということが自分のなかにしか存在しないとしたら、
自分がそれまでの自分であると証明できるだろうか。
おそらく無理である。
証明しようとしているうちに、自分の存在というものが、これまでの自分の存在そのものが、自分自身の内でもぼやけて霞み薄れ不鮮明になってしまうだろう。
個人を形成するのは周囲でしかないのである。
周囲の認識を積み重ね、自分自身の認識も積み重なってゆく。
家族、友人、環境、誰かと共有している記憶。
その上に塗り重ねるようにして現在進行する自分があり、未来がある。
自分を自分と認めてくれるものの存在が無ければ、自分の存在というのはひどく不確かなものになってしまう。
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劇はコメディ風に進み続けるが、その内容とオチはシニカルで考えさせられるものだ。
笑える仕立てにしている部分が、実は重要な、話のカギになっていたりするのだが、それをそれと気付かせないで終盤まで持っていく。
ひとつひとつの台詞に繋がりがあり、主人公を演じる市川亀治郎の演技は主人公の気持ちの変化を見事に表現していて、終演したときには主人公に同情し、その人生について反芻したり、何をどうするべきだあったのか、いや、どうにもできない運命があるのだ、人生というのはまさに何が起こるかわからない自分の手中にはないものなのだ、などと様々な思いや感情を胸の内で巡らせてしまった。