【帯書き】 人は思い出されているかぎり、死なないのだ。 思い出すとは、呼び戻すこと。 精緻な文章で、忘れえぬ印象を残す、名作13篇を収めるベスト・オブ・ヤマダミノル。 |
どうやら私はごく若いころから人生を思い出として、完了した過去の相の下に反芻することに喜びを感じる、そうした型の人間であったようだ。「私は人生を生きるよりも思い出すことが好きだ。思い出の中に生きたい」(フェリーニ)。
(中略)
楽しかった「こないだ」、いまでは近々過去でなく四、五十年も前の「こないだ」について、その時間を共にしたあの人この人について回顧談のようなものをせっせと書きつづける。
ここ数年私の書いてきたものは小説であれ、エッセイであれ、みな「いや、こないだはどうも」のつづきにすぎなかったような気がする。
文章によって親しい人を呼び寄せあるいは甦らせる、この世に呼びもどす、これもまた文学の大事な役目であろう。
(p202-203より引用)
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山田稔の文章を、まるでイタコのようだと言った人がいた。
そのときはまだ私は実感としてその意味がよく分からなかった。
そのときはまだ私は実感としてその意味がよく分からなかった。
先に読んだ『コーマルタン界隈』は、山田稔がパリで暮らしていた時の出来事を綴ったエッセイであり、過去を題材にしているという点では『別れの手続き』に共通しているが、死者を呼びもどすというのとは違った。
『別れの手続き』は、かつて山田稔が関わって今は亡くなってしまった人々を懐かしみその思い出を語るものである。
この本を読んで、さらには冒頭に引用した山田稔本人の思いを読んで「イタコのよう」な文章という意味が分かった。
親交のあった人との思い出話、そして登場する人物に興味を持たせるという点で、『昔日の客』関口良雄(夏葉社)を思い出した。
古本屋の主人であった関口良雄氏が様々な作家たちとの思い出を語る『昔日の客』も回顧談であり、亡くなった人を呼び寄せ甦らせるものだった。
『昔日の客』と山田稔の違いは、山田稔の方はどれもユーモアに溢れ、湿っぽくないということだ。
『昔日の客』の方は泣けるし、心にじんわりとあたたかいものが込み上げてくるようなものだったけれど、山田稔の文章はエスプリがきいている。そうして描かれる人はみなみずみずしく生き生きと映し出される。
山田稔自身が言う「こないだはどうも」というのが本当にぴったりとくる文章なのである。
『前田純敬、声のお便り』という話の中では、前田純敬の死を知ったときのことを「ああ、あのひと、まだ生きていたのか」なんて書いてしまう。
不快だった気持ちも正直に打ち明けてしまう。そういうところがすごい。
いいことだけ書くのは簡単なのだ。でも山田稔はそうではない。
汚いものも、惨めで情けないことも、さらけ出して書く。
そもそもこの本の最初に収められている話が『ヴォア・アナール』(←肛門の道という意味。便秘の話)という世界共通の話題を持ってくるところからして、山田稔という作家が「人間が生きるということは綺麗事だけでは語れないのだ」と考えていることが分かる。
そして、エスプリとユーモアに富んでいるということも分かる。
どんな人間だって食事をして排泄をする。それが生きるってもんだ。
どんなに悲しみに打ちひしがれても腹は減る。排泄だってする。
楽しみも幸せも悲しみも苦しみもすべて同じ中にあるのだ。
山田稔の文章はそう言っている気がする。
全部ひっくるめて人間なんだと。
全部ひっくるめて人間なんだと。
だから山田稔の回顧談は生き生きしているのかもしれない。
母親の死を知り、旅から帰る電車の中での描写、
「悲しみにもかかわらず空腹をおぼえ、それが恥ずかしくまた悲しく、わたしは顔を伏せ、
駅弁の冷たい飯の上に涙をこぼした。」(『志津』より引用)
という文章は本当に素晴しい。
冷たい飯の上に落ちる涙は、きれいに美しく書くよりもずっと悲しく感じる。
解説の中で堀江敏幸氏は
「山田稔が固有名であると同時に、ひとつの文学ジャンルであることはもはや疑いようがない」
と書いている。私もその通りだと思う。
山田稔の文章は「そうそう、この間こんなことがあってさ.......」と始まる友人からの手紙を読んでいるみたいに読める。
考えられた構成や精緻な文章を深く考察しようなんていうのではなく、ただ素直に、山田稔という文学を愉しめばいいのだ。