2011/07/30

『シベリヤ物語』長谷川四郎(講談社文芸文庫)



先に読んだ『鶴』よりもこちらの方が1年ほど早く刊行されていたので、こちらの『シベリヤ物語』から読むべきだった、と、ちょっと後悔しつつ読み始めたのだが、読み終えた結論から言って『鶴』が先で良かった。
どうして『鶴』が先でよかったのかと言うと『鶴』の方が良かったからである。

本を読む時、その作家のどれから読むかというのは案外重要だと思う。
多くの作品がある作家の場合は特にそうなんじゃないだろうか。
書き続けている期間が長ければやはり若い頃と年を重ねた頃とでは作品は変わって当然だと思う。時代みたいなものも関係するかもしれない。
たとえば絵の場合でも作風が変わったりする。ただ、絵の場合、大抵は若い頃にいい作品を描いていなければその後良くなるということはない。作家の場合はどうなのだろう?
まぁ、とにかく、本の場合、どの本から読むかで、その作家を好きになるか否かというのが決まるように思う。
好きな作家の作品はすべて読みたいと思うけれど、まぁ読まなくてもいいと思われるものだってある。
そんな風だから、もしその作家を初めて読む人が「まぁ読まなくてもいいよな」と思う作品や「これはちょっとこの作家らしくないよな」なんていう作品から読んでしまったら、その作家のファンとしてはちょっと残念に思ってしまう。
ずいぶん前にイタロ・カルヴィーノの『柔らかい月』を読んでいて苦戦していた時、『宿命の交わる城』が読みやすいと助言をしてもらえたおかげでカルヴィーノが好きになったし、エリクソンも『黒い時計の旅』じゃなくて『アムジニアスコープ』から読んでいたら次はなかったと思う。

と、話が脱線してしまったので、話を長谷川四郎の『シベリヤ物語』へ戻そう。

『鶴』を読んでいた時もそうだったが、長谷川四郎の小説はどうしてだか止められない。一度読み出すと、ついついうっかり1篇を読み終えてしまい、さらに次の1篇も読みたくなってしまう。サスペンスミステリーのように続きが気になるというのではないのに、何故かずんずんと読んでしまう。不思議である。
そんな風に入り込んで感動したりするくせに、どんな話か説明しようとすると、その内容はひどく簡素で単純でありきたりのものに要約されてしまう。

『シベリヤ物語』に収められている話は、そのストーリー自体がひとつの概念や象徴に直結していて、そのせいでストーリーがあるようでない。
たとえば『小さな礼拝堂』は小さな礼拝堂にまつわる話でありながら実はもっと大きな命題を抱えている。人間の命について、命のあっけなさとたくましさについて、ひいては生きる事について、そういう話だったように私は感じた。直接的にそう言ってはいないが、書かれていなくても私はそういう話だった、と認識している。
他の話もすべてそういう別の大きなものの話なのである。
『勲章』は人間の本能やその単純さ愚かさが、最後に収められた『犬殺し』には命を殺めることについてが。
そしてさらにそこに教訓的な感じだったり、なるほどそうだよなということだったり、うまいこと言うなみたいなことだったりが含まれている。

『犬殺し』という作品をを最後に収めているというのが、意味深く感じた。
この作品は長谷川四郎の思いすべてがそのまま詰まったもののように思うのだ。
犬を殺してしまう捕虜たちの話であるが、そこには命令とはいえそれが当たり前とはいえ戦争に加担してしまった作者の心情がそのままあるように思われるのである。

” 誰もが犬を殺して食おうと思ったわけではなかったのだ。しかし、若し誰かが犬を殺して、料理して、出されたなら、それを食べることは辞さなかったのである。だから、若しも私たちの一人が法廷に立って「我は犠牲者にして共犯者にあらず」と言ったとしても、それを信じてはいけない。何故なら私たちは消極的な共犯者なのであって、犠牲者と呼ばれ得るのは犬以外の何者でもなかったのだから。"

これは作者の戦争に対する本心に思えるし、犠牲者意識の強い日本人への警鐘に聞こえる。
そして作品はこんな言葉で締めくくられる。

" 犬の肉の晩餐を食いながら、私たちはまたしても誰かが呟くのを聞いた。
「俺(おら)ハァ、帰(けえ)ったら橋の下だ」"

長谷川四郎の作品を読むと、抗えない時代であったとはいえ作者は自分がしたことを懺悔し、それを少しでも償いたいと思いシベリヤに自分から赴いたように思われる。
しかし、この最後の『犬殺し』を読むと、たとえシベリヤ抑留をしてもその気持ちが慰められることはなかったのだろうと感じる。


と、ここまで書いて、もう一度本を開いてもう一度思い返してみて、『鶴』の方がよかったというのはやはり撤回することにした。
文章の素晴しさは『シベリヤ物語』も『鶴』に引けを取らない。
目につく違いはただ、状景描写に心象を映すのではなくそのまま心情を語る割合が少し多いというだけだ。

最後の最後に意見を変えるなんてと呆れられるかもしれないが、やはり『鶴』も『シベリヤ物語』も、どちらもそれぞれいい。


2011/07/21

『鶴』長谷川四郎(講談社文芸文庫)


参考画像:長谷川潾二郎『猫』の一部



長谷川四郎は、有名な ”世界一幸せそうに見える”『猫』(←写真)を描いた画家長谷川潾二郎の弟である。

長谷川家のDNAはとても優秀である。
長男、海太郎は3つのペンネームを使う流行作家。
次男、潾二郎は洋画家。
三男、濬(しゅん)はロシア文学者。
そして四男が四郎である。

四郎氏は戦争がなければ作家にはならなかったと言う。


私はこれまで、長谷川潾二郎しか知らなかった。
潾二郎の家族がこんなにスゴいと知ったのは(そして長谷川四郎を知ったのは)、
洲之内徹の『絵のなかの散歩』を読んでである。



潾二郎の絵は、代表作『猫』を筆頭に、どれも静謐で美しい。
一見冷たく感じるのだが、そこにはあたたかさがある。私はそういう絵に見える。
一見写実的でありながら、幻想的でもある。
硬い線でありながら、そこにはゆるりとした空気と被写体の息づかいが伝わってくるような絵である。
それは植物であれ、静物であれ、猫であれ、同じように呼吸をしている。
緻密なタッチは被写体となる生きるものたちへの愛情の表れであるように感じる。
私は長谷川潾二郎の絵を見ると心が癒される。
そして同時に孤独を感じる静けさに少し哀しくもなる。



そのような絵を描く兄を持った四郎の小説はやはり静謐で美しい。
一見惨たらしく感じる死は、人間と自然の生を際立たせ、生の美しさを際立たせる。

私は読んでいてダイヤモンドのようだと思った。
その固さ、その輝き、それが私にダイヤモンドを思い起こさせた。

この本は『張徳義』『鶴』『ガラ・ブルセンツォワ』『脱走兵』『可小農園主人』『選択の自由』『赤い岩』の7篇を収めた短篇集である。
どれも満州国での敗戦後も含めた戦時中の話だ。

日記あるいは体験談であるのに、四郎氏の文章はそれを美しい絵画に変え、ひんやりと輝くダイヤモンドに変えてしまう。
四郎氏の文章は私が知っている戦争にまつわるものとはまるで違うものだった。



物語の主人公の心中は、そのまま語られるのではなく、眼の前にある自然や風景に落とし込まれている。
きめ細やかで具体的な描写はそのまま主人公の心となっている。

感情描写が少なく、そこに居る人物を客観的に具体的に飾り立てずにありのままに書いている。
その時代の、そこに存在する人間の、そこにある日々と生活とをただ書いただけ、というように仕上げている。
戦うことや中国人・ロシア人に対するへの個人的な感情はそこにはない。
だってそこは満州国であり、眼の前にはもう人を殺すことも自爆することも当たり前な現実があるのだから。
淡々と書かれた文章でしか表現できないものがある。
そして、その淡々とした文章が却って心にじんわりと沁みてくる。


中でも最初の4篇は素晴しい。とくに『張徳義』と『鶴』は傑作だと思う。
この4篇を読んでいる時、私はまるで音楽を聴いているような感覚になった。
うまく言えないのだが、文章を読んでいるとそれが音楽を聴いた時みたいに脳に伝わるような、不思議な感覚だった。

2011/07/19

祐天寺の盆踊り

17日の日曜日の夕方から祐天寺の盆踊りへ行って来た。
土曜日に盆踊りの音がしていて、しかも人が大勢家の前を通るので、祐天寺で盆踊りをやっているのかなぁと思っていた。
翌日調べてみたら祐天寺の盆踊り<み魂まつり>は第77回だそうで、
これまでもわりと近所に住んでいたのに、そんなに歴史のあるものなのに、知らなかった。
というわけで日曜日に旦那さんと一緒に、うちとは目と鼻の先にある祐天寺へ行ってみた。


びっくりするくらいの人出だった。南原清隆さんも来ていた。
屋台の数も沢山で、金魚すくいやスーパーボールすくいや水ヨーヨー、いか焼きにもろこし焼き、わたあめにあんず飴、かき氷、お面売りに水笛売り、その他にも色々な種類の屋台があ出ていた。
お馴染みの焼きそば、たこ焼き、お好み焼きから、射的とかだるま落としまであった。
屋台の並ぶあたりはぎゅうぎゅうで動けないくらいだった。
何かを買うのにも長い行列に並ばないといけないくらいだった。

楽しくて炭坑節を輪に混ざって踊った。
懐かしくてあんず飴のすももを買った。
じゃんけんに勝って2本もらった。

来年は浴衣を着て行こう。







さすが祐天寺の盆踊り。お坊さんも踊る。




2011/07/16

『帰りたい風景/気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮社)




本当に、洲之内さんのこのシリーズはいい。
自称えかきの私には、芯に突き刺さる言葉の数々ばかりである。

とくに、池田一憲氏の話に出てくる「何か」というものについては、
日頃私が絵について聞かれた時によく言っていることとまさしく同じであったので驚いたし、
よくぞ言ってくれたという気分もした。
納得することから、改めて心に刻まなければいけないと思うことまで、日頃思うことがたくさん書かれている。
まさに私にとってはバイブルのような本であるのだが、
ある人に教えてもらうまで、私は洲之内徹という人をつい最近まで知らなかったのだ。
あやうく知らずに人生が過ぎていってしまうところだった。
本当にその人には心から感謝しなくてはいけない。

この連載を「芸術新潮」に書いている1976〜1979年の時でさえ、洲之内さんは時代が変わったと言う。
それならば今の時代は彼の目にはどう映るのだろうかと私は何度も思ってしまう。
でも、だから、こんな時代に読むからこそ、『気まぐれ美術館』は私の心に響くのである。
時代なんかに翻弄される必要なんてないのだ、と
画家は絵に真摯に向き合う、それだけでいいのだ、と、勇気づけられる。

以前から、今の時代じゃなくてもっと前の時代に生まれたかったと、私はよく思う。
たぶん古い小説や文章ばかり読むせいである。
そんなところへ洲之内徹の『気まぐれ美術館』が来て、洲之内さんに会いたかったなぁとしみじみ思ってしまう。
でも洲之内さんは冷たくて怖いから、えかきとしてではなく、洲之内さんの愛人役の方でいい。
いや、それでも、そこにいる私も今の私と変わらないのであれば、やっぱりえかきとしてしか会えないのかもしれない。
自分の作品に自信が持てなくても、私は絵を描かないと生きていけないし、絵に向かう心情の自分が好きなのだから、
やっぱりえかきとして会うしかないのかもしれない。

Twitter にもちょこちょこと心に留まった文章を随時つぶやいていたが、
ここにも改めて文章を引用しておこうと思う。
長くなることを、ご了承ください。

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【鶴のいる診察室(小林朝治さんの話)】より
ただ、みんなの話を聞いているうちに、私はふと思った。
この人が版画をやりはじめなかったら死なずにすんだかもしれない、と。
芸術はときに人を殺す。見かけによらずミューズの神は非情なのだ。

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【帰りたい風景(佐伯和子さんの話)】より
私は佐伯さんの絵が爽やかで楽しく、優しい印象で、不思議に安らいだ気持ちの中にいる。
生き返ったような心地である。
(中略)
心に平安を与えてくれる芸術は必要なのだ。

***

また風景の話になって、吉浦の風景だってただ懐かしいばかりじゃない、何か、本物の風景は別にあるのだという気がしてならない、
と佐伯さんは言うのだったが、それを聞いて、私は、佐伯さんの風景の懐かしさは、その眼の前にあるのとはちがう帰りたい風景への懐かしさなんだなと思った。これが佐伯さんの風景なのである。
だとすると、佐伯さんが水墨でしか風景を描こうとしない理由もわかる。
佐伯さんの水墨画が水墨の正統派的解釈にあてはまるかどうかは私は知らないが、物象の形似を描くのではなく、
その奥にある精神を描こうとするのが水墨の精神ではなかったか。

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【オートバイに乗った画家(佐藤泰治さんの話)】より
絵の話をしているときは、われわれは芸術という、いわば虚構の世界の中にいる。
しかしそのわれわれは生きるために毎日あくせくと働き、いつどうなるかわからない人生を、薄氷を踏む思いで生きているのである。

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【三年目の車(池田一憲さんの話)】より
それまでに池田君は画集で、ファン・アイクやグリューネワルトは知っていて好きだったらしい。
しかし(中略)、そういう北欧絵画の影響はたしかにあるとしても、もっと別の何かが、この絵にはある。
この絵の前に立てば、いやでもその何かを見ないわけにはゆかない。(中略)
あるいは、その何かは作者自身にもわからないのではあるまいか。
そして、作者は、その自分でもわからない何かに内側から押されて、描かずにはいられなかったのだろう。
この絵の恐ろしいところはそこだ。
その証拠に、作者がその何かを下手に意識して、一種の幻想的画風のものを描きだす数年後の作品は、私の見るところでは、ずっと落ちる。
何かは何かでいい。わざわざ名前をつけて矮小化することはない。
それは本来、触れることのできないものなのだ。
描くほうも、受けとるほうも、その何かを言葉の表現にしないと安心できないというのが因果な傾向らしい(後略)

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【脱線の画家(横井弘三さんの話)】より
横井弘三は「脱俗の画家」だから立派な画家だということになるらしいのがよくわからない。
いい絵を描いたからいい画家だ、というのならわかるのだが。

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【同行二人(宮忠子さんの話)】より
画家の眼はいっぺんに見るのではない、あなたは一本の線を引く瞬間ごとに、あなたの眼と手できびしい選択をしているのだ、
絵を描くというのはそういうことで、そこに絵と写真のちがいがある。(中略)
この人は決して絵を描くことをやめることはできないだろうし、やめない以上、
この人自身の熱中した眼と手が、やがて、この人の写真コンプレックスを自然に解消させるにちがいない。

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【凝視と放心(木下晋さんの話)】より
芸術というものは、生存の恐しさに脅え、意気沮喪した人間に救済として与えられる仮象だと、私は考える。
生存に対する幻滅なしには、真の芸術への希求もない。
恐怖が救済を約束する。
美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない。

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【一枚の絵(草光信成さんの話)】より
ただ、絵というものは、生れつきそれを必要とする種類の人間と、
そんなものは全く必要としない種類の人間があるというだけのことだ。

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【自転車について(松田正平さんの話)】より
松田さんのアトリエは汚いが、汚らしくはない。
そういう汚らしいもの、他人を意識したものが一切ない。
裸の蛍光灯で照らされたその古い土蔵の中で、松田さんは誰とも会話しないし、会話を予想していない。
話し相手は自分だけ、つまり独り言を言うだけだ。絵を描くことも独り言なのだ。
ところで、現代の絵画、現代の小説、あるいは現代の評論から全く失われてしまったのがこの独語性、モノローグの精神ではあるまいか。
そして、私がこんなに松田さんの絵に惹かれるのは、このモノローグの精神に惹かれるのだと、実は、先日、松田さんのそのアトリエの中に自分がいて、ふと気がついたのである。

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2011/07/13

上林暁傑作小説集『星を撒いた街』(夏葉社)



装丁がとても美しく、この本に合っていると思う。
夏葉社さんの本は装丁にこだわっていて素敵。

だからまぁ、ジャケ買いみたいな感じである。
夏葉社さんのこの前の出版本『昔日の客』に上林暁が出て来ていて、
上林暁という人を読んでみたかったというのもある。
それにtwitterの私がフォローしている人たちの間で盛り上がっていたから
私も欲しくなったというのもある。

さて、本の感想ということなのだが、
いちばん最初に収められている『花の精』というのが良かった。
これはすごく良い小説だと思う。

悪くないし、いいのだと思うけど、私には、それほど衝撃も感激もなかった。

たぶん、並行して読んでいた本(洲之内徹『気まぐれ美術館/帰りたい風景』)が好きすぎて良すぎて薄れてしまったのだと思う。

2011/07/07

『ナボコフ短篇全集Ⅰ』ウラジーミル・ナボコフ(作品社)





様々なテーマの、様々な種類の作品が収められている。
天使や神やファンタスティックなイメージが登場するものから政治的なものまでと幅広い。

テーマが色々だからどの作品も印象に残るし、どれもが面白いし素晴しい。
短篇集で、しかも35篇も収められていて、ほとんどの内容を覚えていられるというのはすごいと思う。
たいてい短篇集なんていう場合、記憶に残るものや好きなものとそうではないものがはっきり分かれるものなのに
この本はそんなことがない。本当にどの話もいい。
聞くところによると、ナボコフは短篇の方がいいなんて言う人も割といるらしい。

それにしても、いやはや、ナボコフさんはやっぱりスゴい人である。
死ぬまでに読んでおかなくてはいけない偉大な文豪のひとりだと思う。
言葉をこれほどまでに使いこなす作家はそうはいない。
翻訳でこれなのだから、原文はきっともっとスゴいのだろう。


美しい言葉で描かれた絵画。
おとぎ話的な映像を脳に浮かび上がらせるような文章の連なり。
美しい比喩が生み出す世界。
散りばめられた色彩。溢れ出す色。


紙の上にひろがる言葉によって描かれる風景に、うっかりするとすぐに気持ちよく目蓋を閉じてしまいそうになる。
閉じてしまいそうというより再読の際は1ページ読むか読まないかのうちに目蓋が下りることもあったけど。。。

劇的な起承転結によるストーリーというよりは、とある人間のとある人生の一部分の出来事を切りとったものが多い。
中には少し長めの物語として読みやすい『ラ・ベネツィアーナ』のようなものもあるが、
印象としてはどの作品も美しい風景に溶け込む死のイメージを文章にしたものばかりだった感じがする。

読んでいる時よりも読み終えてしばらくしてからのほうが内容が体に沁みてくる感じがする。
ふとした時に様々な作品の様々な場面がよみがえってくる。


どれもいいのだが、私は特に『恩恵』『クリスマス』『ロシアに届かなかった手紙』が好きだ。


最後に、素晴しい文章から成る『響き』より、好きな一節を引用。

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”ビロードの棺桶みたいなテーブルの上に載っていたアルバムを投げ出して、ぼくは君をみつめ、フーガと雨の音を聞いていた。いたるところで、棚からも、ピアノの翼からも、シャンデリアの細長いダイヤモンドからもしみ出てくるカーネーションの香りのように、さわやかな感覚がぼくの中から湧き出してきた。”

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【追記】
近く作品社から、ナボコフ短篇全集Ⅰ・Ⅱ を一冊に纏めた『ナボコフ全短篇』(¥7800 税別)が出る。
2冊を1冊にまとめただけでなく未収録の3作品も新たに収録。

Amazonで予約受付中


2011/07/06

『気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮文庫)





あとがき、ということではなく より

 「美術手帖」のベテラン記者の上甲みどりさんが
 「美術のことで、立ち読みで読めるもの書けるって、たいしたことよ」
 と言ってくれた。おそらくその辺が、私とこの本の唯一の取柄だろう。

まさにその通りなのが「気まぐれ美術館」である。
美術のことに詳しくなくても(私だって全然詳しくない。本に出てくる画家の半分は知らなかったりする)
さらさらと興味深く読めると思う。
画家自身やその作品の良さを語っている部分の文章がとにかく素晴しい。
洲之内さんの感覚の素晴しさに感銘を受ける、本当にいい本である。


あとがきの『さらば「気まぐれ美術館」』で白州正子さんがこう書いている。

 ”洲之内さんの文章はかならずしも最初から読む必要はなく、任意にめくったページから読み始めても、何の抵抗もなく入って行ける。辻褄を合わせることはいやだと、どこかでいっていたのを覚えているが、起承転結なんてことは考えてみたこともないらしい。”

そんな文章だから、私は、
気になるところを読み返したり、飛ばし読みしたり、ぱらぱらときまぐれに適当なところを読み返したりする。

以前にも日記に書いたが、私は「気まぐれ美術館」を読むと無性に絵が描きたくなる。
と、同時に、ここに出てくる素晴しい画家の足許にも及ばない自分に落ち込みもする。
それでも、落ち込んでも、洲之内さんの言葉は本物の私の本物の心に突き刺さって、
私を本当の私の姿に戻して真摯に絵に向かわせてくれる。


いいものは匂うのだと洲之内さんは言う。目でなく鼻でわかると言う。
私は鼻では分からないが、でも言っていることは分かる。
絵ってそういうものだ。理屈じゃない。
いいものはいいのだ。

洲之内さんのいくつもの心眼の言葉を肝に銘じて、私は本当の私に戻って
真っ直ぐ絵に向かいたい。


2011/07/05

今週の花 と 新作絵画【猫を抱く女】



絵と花を一緒に撮ってみた。

赤と黄色が入るとやっぱり華やかで美しくなる。

こういう構図で描けば良かったな。

今から手前に花を入れてみようか、悩む。

2011/07/01

memo pad



ガーリーなイラストを使って色んなものを作っている。
Bookmarker とか Letter set とか。で、これは Mini memo pad。

モノづくりは楽しい。

【椅子】のポストカード




椅子の絵のポストカードの印刷ができて届いた。

校正の時にちょっとシアンが過ぎるかと思い、色補正したら、
出来上がったらかなりマゼンダが強くなってしまった。

うーん、、、違う。。。

いつもと違う紙にしたから色が違ったのかなぁ(紙はいい感じ)。

だって、右のプロフィールのところにある写真が本来の椅子の絵なわけで。。。


本来の椅子の絵がいいのに!と言われるかもしれないけど、
もう出来上がっちゃったし、仕方ない。

今回はこれで勘弁して下さい。

これも縁縁で販売する予定。

1枚 120円(透明袋入り)です。