2011/07/16

『帰りたい風景/気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮社)




本当に、洲之内さんのこのシリーズはいい。
自称えかきの私には、芯に突き刺さる言葉の数々ばかりである。

とくに、池田一憲氏の話に出てくる「何か」というものについては、
日頃私が絵について聞かれた時によく言っていることとまさしく同じであったので驚いたし、
よくぞ言ってくれたという気分もした。
納得することから、改めて心に刻まなければいけないと思うことまで、日頃思うことがたくさん書かれている。
まさに私にとってはバイブルのような本であるのだが、
ある人に教えてもらうまで、私は洲之内徹という人をつい最近まで知らなかったのだ。
あやうく知らずに人生が過ぎていってしまうところだった。
本当にその人には心から感謝しなくてはいけない。

この連載を「芸術新潮」に書いている1976〜1979年の時でさえ、洲之内さんは時代が変わったと言う。
それならば今の時代は彼の目にはどう映るのだろうかと私は何度も思ってしまう。
でも、だから、こんな時代に読むからこそ、『気まぐれ美術館』は私の心に響くのである。
時代なんかに翻弄される必要なんてないのだ、と
画家は絵に真摯に向き合う、それだけでいいのだ、と、勇気づけられる。

以前から、今の時代じゃなくてもっと前の時代に生まれたかったと、私はよく思う。
たぶん古い小説や文章ばかり読むせいである。
そんなところへ洲之内徹の『気まぐれ美術館』が来て、洲之内さんに会いたかったなぁとしみじみ思ってしまう。
でも洲之内さんは冷たくて怖いから、えかきとしてではなく、洲之内さんの愛人役の方でいい。
いや、それでも、そこにいる私も今の私と変わらないのであれば、やっぱりえかきとしてしか会えないのかもしれない。
自分の作品に自信が持てなくても、私は絵を描かないと生きていけないし、絵に向かう心情の自分が好きなのだから、
やっぱりえかきとして会うしかないのかもしれない。

Twitter にもちょこちょこと心に留まった文章を随時つぶやいていたが、
ここにも改めて文章を引用しておこうと思う。
長くなることを、ご了承ください。

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【鶴のいる診察室(小林朝治さんの話)】より
ただ、みんなの話を聞いているうちに、私はふと思った。
この人が版画をやりはじめなかったら死なずにすんだかもしれない、と。
芸術はときに人を殺す。見かけによらずミューズの神は非情なのだ。

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【帰りたい風景(佐伯和子さんの話)】より
私は佐伯さんの絵が爽やかで楽しく、優しい印象で、不思議に安らいだ気持ちの中にいる。
生き返ったような心地である。
(中略)
心に平安を与えてくれる芸術は必要なのだ。

***

また風景の話になって、吉浦の風景だってただ懐かしいばかりじゃない、何か、本物の風景は別にあるのだという気がしてならない、
と佐伯さんは言うのだったが、それを聞いて、私は、佐伯さんの風景の懐かしさは、その眼の前にあるのとはちがう帰りたい風景への懐かしさなんだなと思った。これが佐伯さんの風景なのである。
だとすると、佐伯さんが水墨でしか風景を描こうとしない理由もわかる。
佐伯さんの水墨画が水墨の正統派的解釈にあてはまるかどうかは私は知らないが、物象の形似を描くのではなく、
その奥にある精神を描こうとするのが水墨の精神ではなかったか。

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【オートバイに乗った画家(佐藤泰治さんの話)】より
絵の話をしているときは、われわれは芸術という、いわば虚構の世界の中にいる。
しかしそのわれわれは生きるために毎日あくせくと働き、いつどうなるかわからない人生を、薄氷を踏む思いで生きているのである。

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【三年目の車(池田一憲さんの話)】より
それまでに池田君は画集で、ファン・アイクやグリューネワルトは知っていて好きだったらしい。
しかし(中略)、そういう北欧絵画の影響はたしかにあるとしても、もっと別の何かが、この絵にはある。
この絵の前に立てば、いやでもその何かを見ないわけにはゆかない。(中略)
あるいは、その何かは作者自身にもわからないのではあるまいか。
そして、作者は、その自分でもわからない何かに内側から押されて、描かずにはいられなかったのだろう。
この絵の恐ろしいところはそこだ。
その証拠に、作者がその何かを下手に意識して、一種の幻想的画風のものを描きだす数年後の作品は、私の見るところでは、ずっと落ちる。
何かは何かでいい。わざわざ名前をつけて矮小化することはない。
それは本来、触れることのできないものなのだ。
描くほうも、受けとるほうも、その何かを言葉の表現にしないと安心できないというのが因果な傾向らしい(後略)

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【脱線の画家(横井弘三さんの話)】より
横井弘三は「脱俗の画家」だから立派な画家だということになるらしいのがよくわからない。
いい絵を描いたからいい画家だ、というのならわかるのだが。

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【同行二人(宮忠子さんの話)】より
画家の眼はいっぺんに見るのではない、あなたは一本の線を引く瞬間ごとに、あなたの眼と手できびしい選択をしているのだ、
絵を描くというのはそういうことで、そこに絵と写真のちがいがある。(中略)
この人は決して絵を描くことをやめることはできないだろうし、やめない以上、
この人自身の熱中した眼と手が、やがて、この人の写真コンプレックスを自然に解消させるにちがいない。

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【凝視と放心(木下晋さんの話)】より
芸術というものは、生存の恐しさに脅え、意気沮喪した人間に救済として与えられる仮象だと、私は考える。
生存に対する幻滅なしには、真の芸術への希求もない。
恐怖が救済を約束する。
美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない。

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【一枚の絵(草光信成さんの話)】より
ただ、絵というものは、生れつきそれを必要とする種類の人間と、
そんなものは全く必要としない種類の人間があるというだけのことだ。

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【自転車について(松田正平さんの話)】より
松田さんのアトリエは汚いが、汚らしくはない。
そういう汚らしいもの、他人を意識したものが一切ない。
裸の蛍光灯で照らされたその古い土蔵の中で、松田さんは誰とも会話しないし、会話を予想していない。
話し相手は自分だけ、つまり独り言を言うだけだ。絵を描くことも独り言なのだ。
ところで、現代の絵画、現代の小説、あるいは現代の評論から全く失われてしまったのがこの独語性、モノローグの精神ではあるまいか。
そして、私がこんなに松田さんの絵に惹かれるのは、このモノローグの精神に惹かれるのだと、実は、先日、松田さんのそのアトリエの中に自分がいて、ふと気がついたのである。

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