2012/12/27

『蜜のあはれ』室生犀星(新潮社)



『火の魚』は栃折久美子さんがとった金魚の魚拓の話であり、その本物となる『蜜のあはれ』をぜひ読んでみたいと思っていた。
一尾の魚が水平線に落下しながら燃えながら死を遂げるような絵を欲して、金魚の魚拓に辿り着くということだったから、『蜜のあはれ』の一匹の金魚の姿はイメージと違った。
ともあれイメージとは違っても、背表紙の凝った素材も題字の書も色も素敵な本。金魚の魚拓のあしらわれた函も素敵で、宝物の一冊にしたいと思える本である。

内容は想像つかないようなお話でびっくりした。
だって、金魚が人間みたいになっている話なんて誰が想像できるだろう? しかも金魚の少女は金魚であったり人間の姿になったり摩訶不思議なのである。
そしてすべてが会話というのもすごい。おぢさんと呼ばれる室生犀星と赤い金魚の会話。
でも、面白かった。
あまり考え過ぎず、ただ目の前にある物語を素直に読む。発想は突飛だけれど幻想文學というよりは現実的な日常を感じる。

読み終えて頭の中には朱色の金魚の姿がこびりついて残った。きらきらと銀色に光るぷっくりしたお腹とぬめぬめした尾びれ。ぴちぴちと跳ねるちいさなからだ。生臭い匂いまで感じた。
生命と死が小さな赤い金魚に集約されている。


「をぢさま、人を好くといふことは愉しいことでございますといふ言葉はとても派手だけれど、本物の美しさでうざうざしてゐるわね。」(p29)

「一たい何處にいのちがあるのよ、いのちの在るところを教へていただきたいわ。」
「をぢさんはをぢさんを考えてみても、いのちを知るのに理屈を感じてだめだが、金魚を見てゐると却つていのちの狀態が判る。ひねり潰せばわけもない命のあはれさを覺えるが、をぢさん自身のいのちをさぐる時には、大論文を書かなければならない面倒さがある。」(p51)

「そしてあたい、甘つたれるだけ甘つたれてゐて、何時も、をぢさまをとろとろにしてゐるの、をぢさまもそれが堪らなくお好きらしいんです。」(p114)

「嬉しくないこと、つまり惱むといふことはからだの全部にとり憑いてくるわね。」(p133)


2012/12/26

『かげろふの日記遺文』室生犀星(講談社)


とてもおもしろかった。

 ベースはもちろん藤原道綱母の『蜻蛉日記』なのだが、まったく別の物語になっている。
 知と才と美を兼ね備えた道綱母(紫苑の上)より一途な女の愛を捧げる冴野の方が目立っている。
 当然作家であるから文學の素晴しさを否定するようなことはないが、主人公は紫苑の上ではなく冴野で、まるで冴野と兼家の恋愛物語のような印象になっている。
 
 室生犀星は自分にあまり学歴のないことや、生き別れた生みの母親への思いからか、女性に対する目が他の作家とは少し違って思える。
 多くの男性作家(女性もそうかもしれない)は、知的で頭が良く美しい女性を好しとするような気がするが、室生犀星はそういう女性より、ただ甘く柔らかい愛情のかたまりのような、匂い立つ花を思わせるような女性を好んでいるように思う。女は女であるだけで美しいというのが室生犀星のように思う。


 ね、冴野。紫苑の上に私といふ人間がゐなかつたら、和歌や文章を書き綴るといふ所には、紫苑の上の心は向きあつて往かなかつたであらう、私といふ一人の男のすみずみを見渡し、それを遍くうたひ上げるために、私はその生き方を、終始、寫し出されてゐるやうなものなのだ。私の生きてゐることは彼女の文學の内材になつてゐる、私なしに彼女の文學は編まれることはなかつたであらう、私は彼女の心に養はれてゐるスズメの雛みたいな物なのだ。併し冴野よ。文學といふ奴は大した奴だ、これほどの私は紫苑の上の考へる仕事を壊さうとしても、到底、壊しきれる物ではない、紫苑の上自身が抹殺しないかぎり、數々の和歌はもはや人間のちからでは削除することの出來ない、言はばすでに天上の物でさへある。私はこのやうな女と暮すことに不倖を感じてゐる、物を書くことの恐ろしさ、そんな不必要な物を抱いてゐて、人間に憩らひがあると思ふか、偉いといふことに女の美しさがある筈はない。私のほしい物は失くなり、私に要らない物が日毎に積み重ねられてゐる。私は嘆いてそなたを得たのだ。冴野は生きてその生きを失つてゐた私に、血をくれた。その血で私のこころは塗られてゐる。(p180)


読みながら、かつての恋人が私に私は愛に生きる女だと言ったことを思い出した。兼家が冴野に語ることばはその人のことばのように思えた。
懐かしく遠い温かい記憶に寄添いながらこの本を読んだ。


2012/12/25

『或る少女の死まで』室生犀星(岩波文庫)

 

 友はこの書物をよこに置いて、 
「この間短いのを書いたから見てくれ。」とノートを見せた。
 ノートも薬が沁み込んで、ページをめくるとパッとにおいがした。私はしばらく見なかった作品を味わうようにして読んだ。

  この寂しさは何処いずくより おとずれて来るや。
  たましいの奥の奥よりか
  空とおく過ぎゆくごとく
  わが胸にありてささやくごとく
  とらえんとすれど形なし。
  ああ、われ、ひねもす坐して
  わが寂しさに触れんとはせり。
  されどかたちなきものの影をおとして
  わが胸を日に日に衰えゆかしむ。

 私はこの詩の精神にゆきわたった靈の孤独になやまされてゆく友を見た。しかも彼は一日ずつ何者かに力を掠められてゆくもののように、自分の生命の微妙な衰えを凝視しているさまが、私をしてこの友が死を否定していながら次第に肯定してゆくさまが、読み分けられて行くのであった。
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 表(注:「おもて」は友の名前)はただ享楽すればよかった。表は未来や過去を考えるよりも、目の前の女性を楽しみたかったのだ。私は表のしていたことが、表の死後、なおその犠牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死によってもなおそそぎつくせない贖罪のあるものだということを感じた。本人はそれでいいだろう。しかしあとに残ったものの苦しみはどうなるのだろうと、私は表の生涯の短いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを短い間に尽くして行ったような運命のずるさを感じた。(「性に目覚める頃」より)



引用したのは私がいちばん好きなところである。
表悼影(おもて とうえい)という友人が書いたという詩がいい。涙が出る。


あとがきの中で室生犀星はこれら初期の作品を失敗作のように恥じているが、私は好きだ。先に読んだ『火の魚』に比べて劣っているとは思えないし、純粋な分、これらの初期の作品の方が心に響くものがあるようにも思う。

幼年期の室生犀星にも青年期の室生犀星にも、もうすでに『火の魚』のいじわるじいさんのような捩じれた感情があって、それがとても興味深かった。たとえば好きな女の子の悪事をこっそり盗み見したりその子の履物を片方盗んだりして興奮するというのは、ちょっと変わっているように思う。しかしそういう感情が描かれているからこそリアルな生々しい血の流れる作品になるのだと思う。
きれいごとや現実離れした小説を私は好きになれない。
だから室生犀星の作品はいい。


 

2012/12/23

縁縁コラボ展

 

いよいよ来週の水曜日26日から、縁縁の年末年始コラボ展が始まります。

モノクロ+赤の作品3点を出品しています。
『 BALL 』『 WALK 』『 GIRL 』のいずれも紙に水彩で描いた作品です。
それぞれのGreeting Card( ¥ 400 )も販売しています。



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常設絵画も新しい作品に変わりました。


初心に戻って(?)、くすんだ色合いと質感の作品を描きました。
『 Fallen Cup 』または、覆水盆に返らず、です。
こちらもGreeting Card( ¥ 400 )があります。


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Year ends and New year
Standing artist Collaboration exhibition

2012/12/26 ( wed ) 〜 2013/01/20 ( sun ) [ 12/28 〜 01/03 close]

ギャラリーカフェバー縁縁

03-3453-4021
港区麻布十番2-8-15  1F

大江戸線麻布十番駅 7番出口
南北線麻布十番駅 4番出口
徒歩5分

水〜土 12:00〜22:00
日   12:00〜19:00
月・火曜 定休

お時間がある方、お近くにお越しの際は、ぜひお茶でもしに来て下さい。


2012/12/12

『海の匂い』芝木好子(集英社文庫)


出かけるときに家から本を持って出るのを忘れて、途中の本屋で買った。
表紙の絵がいいなぁと思って買った。久しぶりのジャケ買いである。

片山廣子さんを読んだすぐ後だったので読みやすかった。
しかも片山さんと同様(というか片山さんよりはるかに)芝木さんは死の匂いがする。

芝木さんの作品は死の匂いだけでなく朽ちていくもの、滅びるものの世界を描いている。
加えて強さと弱さと孤独。

こう書くといかにも暗そうに聞こえるけれど、決して暗い重いというのではない。静かに、ひっそりと、そういう空気が流れている。

朽ちていくものや滅びゆくもの、死や孤独、そういう題材は私自身が描く題材と共通しているので、とても読みやすかった。
「家の終り」を読んでいる時などは創作意欲が湧いた。

私は「家の終り」と「下町の空」と「有明海」がとくによかった。

2012/12/09

『燈火節』片山廣子(月曜社)









片山廣子さんは与謝野晶子と同世代の歌人であり翻訳家(筆名は松村よね子)でありエッセイストである。

室生犀星、堀辰雄、芥川龍之介と親交があり、森鴎外、坪内逍遥、上田敏、菊池寛らに高く評価された。
というように書くとだいたいどの時代の人か分かりやすい。
堀と芥川の作品の中には片山さんをモデルとした人が在ったりする。



「ある國のこよみ」というエッセイで始まる。


はじめに生まれたのは勸びの靈である、この新しい年をよろこべ!
一月  靈はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と綠の衣を着る
五月  世界の⾭春
六月  壯嚴
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
ケルトの古い言ひつたへかもしれない、或るふるぼけた本の最後の頁に何のつながりもなくこの暦が載つてゐるのを讀んだのである。

このあと色についての話が続くのだが、この最初のエッセイで私のこころはぐっと掴まれた。

片山さんは歌人であるから、前半のエッセイにはいくつも歌が出てくる。
私はどちらかというと詩より短歌の方がしっくりくる。塾で中学生に国語を教えていた時も短歌は結構好きだった。おそらく短歌には色があるからだろう、色彩を通して状景や心情がすんなりと心に入ってくる気がする。
短歌がいくつも載っていてそれがとても良かった。とくに小野小町の歌を久しぶりに見てやっぱりいいなぁと思った。私は古い歌の方が好きだ。
とくに歌集を買うことはないけれど、こうして読む機会があるといいなと思う。

花の色はうつりにけりな徒にわが身世にふるながめせしまに

などはあまりに有名な一句だけれど、やっぱりいい。
ほかにも、

うたたねに戀しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
いとせめて戀しき時はうばたまの夜の衣をかへしてぞきる

などの恋の歌もいいし、

卯の花の咲ける垣根に時ならでわが如ぞ鳴く鶯の声

などのように音を重ね心情を重ね、状景の浮かび易い歌などもいいし、
最期の句とされている

あはれなりわが身のはてや淺みどりつひには野邊の霞とおもへば

というこの歌など、なんと心に沁み入る歌だろうと思う。


短歌を読んでいて、ふっと友人のEmiちゃんを思った(THE LOWBROWSの、夏目漱石のひ孫のEmiちゃん)。
そうか、彼女のつくる歌詞は短歌と似ているのだと気付いた。私は彼女のことが、彼女の生み出す世界が、大好きである。
たとえば、『 seachin' my soul /NEO 』 の歌詞にこんなものがある

仮初めのかげろふに知らぬ間に零れた面影
幾つ薫る幻佇んで現に触れ
在りし日の余韻に刻み出す何時か奏でた欠片

彼女の言葉が音楽に乗ると、美しい音となり、命が宿る。


短歌の登場は徐々になくなり、読み終える頃には短歌のことは忘れてしまい、読み終えたときの感想は、川上弘美さんに似ていたなというのが真っ先にくる。
食べ物の話が多いところとか、とくに「燈火節」の章のあとにくる「燈火節の周邊」の章のエッセイにそう感じた。
「うちのお稲荷さん」というエッセイでお稲荷さんと会話しちゃうところなんかは何となく川上さんを思い出させる。正しく言えば川上さんが片山さんに似ているのだけど。


それから、旦那さんや子供など身近な人が早くに亡くなっているから片山さんの文章は死がまとわりついているものが多い。
生活の中の出来事を書いたエッセイであるのに、この世とあの世をつなぐ通過点のような、どこかひっそりと静かな空気が全体に満ちている。
そのせいか、この本を読んでいるとき、何かと引き替えに2日後に私が死ななければならないという夢をみた。私は死にたくないと思いながら諸々の整理をする。こころで叫び泣きながら、怖くて怖くてたまらない心持ちでいる、そういう夢を見た。

当時の人としてはかなり裕福な生活をしていた作者だから、読む人によっては鼻につくかもしれない。
私はちっとも気にならなかったし、ちゃきちゃきしたおばあちゃんという感じで楽しく読めた。


一人で生活することに倦きて慾も得もなくなり、死にたくなつて死んだのだらうと、まづそれよりほかに考えやうもなかつた。慾も得もなくなるといふ言葉は、疲れきつた時や、ひどく恐ろしい思ひをした時や、あるひはまたお湯にゆつくりはいつて好い氣持になつた時に味はふやうである。
私は先だつてその家の横の道を通つた折、棕櫚の樹のかげの應接間から、ピアノの音がきこえて来て、奇妙に悲しい氣分になつた。あの人がこんなきれいな家の人でなく、もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらうと思つたのである。(「赤とピンクの世界」より)

(北極星は)肉眼でみるとあまり大きくはないが、静かにしづかに光つてまばたきもしない。かぎりなく遠い、かぎりなく正しい、冷たい、頼りない感じを與へながら、それでゐて、どの星よりもたのもしく、われわれに近いやうでもある。人間に毎晩よびかけて何か言つてゐる感じである。(「北極星」より)

2012/12/06

Quiet note -MAORI 5th Exhibition-


無事に昨日終了しました。
たくさんの方々に会えて楽しかったです。

今回もとても素敵な写真とアクセサリーでした。

写真では気球の写真と海とバレーボール用のようなネットの写真が最終的にはいちばん好きでした。
毎日見ていると日によっていいと思うものが変わります。
そうそう、それに、その日のお天気によってもお客様が気に入る写真が違うように感じました。たとえば、曇よりとした日よりも晴天の日の方が青のキレイなものが好きと言われる方が多かった気がします。気のせいかも知れないけれどそういうことはあるんじゃないかと思います。

気球の写真の素晴しいところは、黒がないところです。
そして淡いグラデーションと白の多さ。
絵にしても写真にしても、色があれば影があり、影があれば黒が生じます。ところが気球は黒ではなくグレーでとどめている。その何とも言えないぼんやりとした感じが空気を感じさせ、幻想的な浮遊感を与えます。
私などが撮ったらきっとわんさか浮かんでいる気球たちをカラフルにくっきりと撮ってしまうように思うのですが...。

いま私も年末年始の縁縁コラボ展に向けての制作あり日々ちょこちょこと描いていて、くすんだ感じのものがやっぱり私は好きなんだなぁと改めて思ったり、水彩を多く描いているので(とはいえ私の場合黒多めで若干くっきりめですが)とても参考になりました。


アクセサリーの方では、私は過去の商品から糸杉の写真を使ったブローチと、新作からループタイを頂戴しました。ループタイは叔母におねだりをしてお揃いで買ってもらいました。
外にも欲しいものが沢山で、ご来場のお客様もみなさん迷っていました。
これかわいい、こっちも素敵、などとショッピングに興じるのは女子ならではですが、それが楽しいのです。

私の妹と妹の同僚、叔母、高校時代の友人たち、北澤くん、来てくれて嬉しかったです。
来てくれて本当にありがとう。


カードもたくさん売れました。
特にこの気球の写真のものは早くに売り切れてしまいました。


糸杉の写真のブローチ。
会期中はベロアのジャケットに着けてみました。
どうも私はこのきれいな青が好きみたいです。




有料のラッピングもあるのでプレゼントにも最適です。
これは夏に乃木坂で開催した展示会の時のもの。たしか池に映る風景の写真だったと思います。
大きめのブローチです。私のお気に入り。


左右が違うのもMaoriちゃんのアクセサリーのポイントです。
写真が違ったり、大きさが違ったり、長さが違ったりetc.....
この青も素敵な色です。



妹が誕生日プレゼントに買ってくれたミモザのピアス。



Maori      http://maori-tone.com/