『火の魚』は栃折久美子さんがとった金魚の魚拓の話であり、その本物となる『蜜のあはれ』をぜひ読んでみたいと思っていた。
一尾の魚が水平線に落下しながら燃えながら死を遂げるような絵を欲して、金魚の魚拓に辿り着くということだったから、『蜜のあはれ』の一匹の金魚の姿はイメージと違った。
ともあれイメージとは違っても、背表紙の凝った素材も題字の書も色も素敵な本。金魚の魚拓のあしらわれた函も素敵で、宝物の一冊にしたいと思える本である。
内容は想像つかないようなお話でびっくりした。
だって、金魚が人間みたいになっている話なんて誰が想像できるだろう? しかも金魚の少女は金魚であったり人間の姿になったり摩訶不思議なのである。
そしてすべてが会話というのもすごい。おぢさんと呼ばれる室生犀星と赤い金魚の会話。
でも、面白かった。
あまり考え過ぎず、ただ目の前にある物語を素直に読む。発想は突飛だけれど幻想文學というよりは現実的な日常を感じる。
読み終えて頭の中には朱色の金魚の姿がこびりついて残った。きらきらと銀色に光るぷっくりしたお腹とぬめぬめした尾びれ。ぴちぴちと跳ねるちいさなからだ。生臭い匂いまで感じた。
生命と死が小さな赤い金魚に集約されている。
「をぢさま、人を好くといふことは愉しいことでございますといふ言葉はとても派手だけれど、本物の美しさでうざうざしてゐるわね。」(p29)
「一たい何處にいのちがあるのよ、いのちの在るところを教へていただきたいわ。」
「をぢさんはをぢさんを考えてみても、いのちを知るのに理屈を感じてだめだが、金魚を見てゐると却つていのちの狀態が判る。ひねり潰せばわけもない命のあはれさを覺えるが、をぢさん自身のいのちをさぐる時には、大論文を書かなければならない面倒さがある。」(p51)
「そしてあたい、甘つたれるだけ甘つたれてゐて、何時も、をぢさまをとろとろにしてゐるの、をぢさまもそれが堪らなくお好きらしいんです。」(p114)
「嬉しくないこと、つまり惱むといふことはからだの全部にとり憑いてくるわね。」(p133)