2012/12/25

『或る少女の死まで』室生犀星(岩波文庫)

 

 友はこの書物をよこに置いて、 
「この間短いのを書いたから見てくれ。」とノートを見せた。
 ノートも薬が沁み込んで、ページをめくるとパッとにおいがした。私はしばらく見なかった作品を味わうようにして読んだ。

  この寂しさは何処いずくより おとずれて来るや。
  たましいの奥の奥よりか
  空とおく過ぎゆくごとく
  わが胸にありてささやくごとく
  とらえんとすれど形なし。
  ああ、われ、ひねもす坐して
  わが寂しさに触れんとはせり。
  されどかたちなきものの影をおとして
  わが胸を日に日に衰えゆかしむ。

 私はこの詩の精神にゆきわたった靈の孤独になやまされてゆく友を見た。しかも彼は一日ずつ何者かに力を掠められてゆくもののように、自分の生命の微妙な衰えを凝視しているさまが、私をしてこの友が死を否定していながら次第に肯定してゆくさまが、読み分けられて行くのであった。
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 表(注:「おもて」は友の名前)はただ享楽すればよかった。表は未来や過去を考えるよりも、目の前の女性を楽しみたかったのだ。私は表のしていたことが、表の死後、なおその犠牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死によってもなおそそぎつくせない贖罪のあるものだということを感じた。本人はそれでいいだろう。しかしあとに残ったものの苦しみはどうなるのだろうと、私は表の生涯の短いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを短い間に尽くして行ったような運命のずるさを感じた。(「性に目覚める頃」より)



引用したのは私がいちばん好きなところである。
表悼影(おもて とうえい)という友人が書いたという詩がいい。涙が出る。


あとがきの中で室生犀星はこれら初期の作品を失敗作のように恥じているが、私は好きだ。先に読んだ『火の魚』に比べて劣っているとは思えないし、純粋な分、これらの初期の作品の方が心に響くものがあるようにも思う。

幼年期の室生犀星にも青年期の室生犀星にも、もうすでに『火の魚』のいじわるじいさんのような捩じれた感情があって、それがとても興味深かった。たとえば好きな女の子の悪事をこっそり盗み見したりその子の履物を片方盗んだりして興奮するというのは、ちょっと変わっているように思う。しかしそういう感情が描かれているからこそリアルな生々しい血の流れる作品になるのだと思う。
きれいごとや現実離れした小説を私は好きになれない。
だから室生犀星の作品はいい。