2013/02/06

『美しきもの見し人は』堀田善衛(新潮社 1969年)


まず最初にひとつ。
図版の置き場所が良くない。
それぞれのエッセイの初めか終わりに置くとか、本の最初にまとめてしまうとかすればいいのに、唐突にところどころにエッセイの途中に置かれていて、図版は見にくいし文章は読みにくい。
さらに、ジョルジュ・ラ・トゥールの作品のタイトル『イカサマ師』と『占い女』が逆に表記されていた。

やっぱり堀田さんは難しく感じる。どうしてかと考えると、1行が長いのだ。しかもその1行の中で二転三転したり、否定を否定したり、という印象が強い。
それともうひとつ、話を引っ張るという印象も強い。ここではまだ言わない、というのが多い。これは『新潮現代文学』の時から思っていた。
そういうわけで読むのにちょっと疲れる。

それに、描き手からすると、読み解くのがこじつけに感じたり、細かく意味付けされるのはどうかなと思ったりもした。
画家は理屈じゃなく描いてる部分もあると思う。(みんなゼロから百まで理屈と理論で絵を描いているのだろうか? 理屈や緻密な計算を抜きにして、ただ感動や溢れ出る感情を感覚で描くというのはいけないのだろうか?)

でも、堀田さんの言うことには、納得することや眼から鱗なことやなるほどと思うことが多いのも事実である。
今回のこの『美しきもの見し人は』を読んで、私は古典絵画の見え方が変わった。

『美しきもの見し人は』はエッセイズであるが、読み進めて行くうちに最終結論が導き出されていくという体をとっている(と、思われる)。

つまり、堀田さんの結論としてすべてのエッセイを通して読者に伝えたかったのは、《 美しきもの 》というのは、巧いとか、似ているとか、美しいとかではなく、「私に人間存在というものの、無限な不気味さを、まことに、不気味なまでに告知をしてくれるもの」なのだということである。

描き手である私は、内的なものを表そうと、そういう気持ちを一心にして絵に向う。
堀田さんの言うのはそれをはるかに超えたところにあり、私が個人の感情であるのに対し、堀田さんが言うのは人間の存在であり、神であり、信仰であり崇拝であるのだ。

この本を読んで、私は自分に自信を持つ部分もあれば、まだまだダメだと打ちひしがれ自己嫌悪する部分もあった。

それからこの本を読んで、現代アートというのは古典回帰なのだと腑に落ちた。私は現代アートなるものがあまり好きではないのだが、みんな、その「人間存在」というものを表現しようと、姿形を変えているだけなのだと眼から鱗が落ちた。
内的なものをダイレクトに表現している現代アートは分かりやすいが、現代ではそこに奇抜さと斬新さと新しいマテリアルとデザイン性というのがまとわりついているからわかり難いものが増してしまっているのだろう。

私は私のやり方で、見る人にダイレクトに内的なものが伝わるように、堀田さんの言う《 美しきもの 》に迫っていけるよう努力したい。


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美はやはり人をためすのであり、人にその本音をはかせるところにその徳があるものであろう。(「12 美し、フランス LA DOUCE FRANCE 」p188より)

人が鏡をのぞき込んでおのれの面をつくづくと眺めたとしても、それは、おのれがこうある、と思い込んでいる、あるいはかくかくでありたいと思い込んでいるおのれの顔かたちについての、そのイデーに見合うように、自身で編集したものを見ているにすぎないであろう。そうでない筈がないのである。(中略) 
すなわち、似ているとは、各人が内的に自分であるとしているものに似ているということが、似ているということなのであって、その他ではない。
だからカメラは、原理的にはそういう真に似ているというものをとらえるということをはじめから拒否されているのであり、この原理を逆手にとって内的なものに迫って行くのが写真芸術というものの原理ということになるであろう。(「19 肖像画 対話あるいは弁証法について 」p298より)

上記引用文のカメラというのは絵画でも当然当て嵌まる。まさにそういうことだと思う。私はいつもそういうつもりで、そういう心持ちで、人を描いている。