2013/02/24

『風の中の詩』串田孫一(集英社文庫 1981)


古山高麗雄さんの読後がモヤモヤしていたので、串田さんを読むことにした。

串田さんはやっぱりいい。ホッとして落ちついた心持ちになった。
山や空や海、植物に動物、自然の美しさを主体にしているのが、穏やかな気持ちにさせるのだろう。


串田さんのような人を私は好きで、そんな人になりたいと憧れもする。
でも、私はたぶん串田さんが疲れてうんざりしてしまう方の人間だろうなと思ってしょげる。

たとえば、
河鹿が鳴きだした。二日前にもその声を聞き、お喋りの途中であったが河鹿だよと私は彼に教えた。するとそうかいとひとこと言っただけでそのいい声に耳を傾けようともせずに喋り続けるので、その時から私も少々がっかりし出したようだった。河鹿はその後、まるで彼のその態度に腹を立てたように鳴かなくなってしまったが、彼が帰ったのが分かったのかまた美声を聞かせはじめた。(「交替する営み」より)
河鹿の美しい響きに聞き惚れることが果たして私にできるだろうかと、私もこの彼と同じかもしれないと、ひとりで勝手に落ち込んで自己嫌悪したりしてしまったりする。

それから、
 勿論この娘さんは儀礼的に、いつでもお出掛け下さい、歓迎いたしますと言っているだけではないが、勝手に創り上げた自分の夢の中で駆け廻っていて、そこへ私を引き込もうとしている。それが私には少々かなわなかった。(『風の中の詩』「梟の声」より)
 というのを読めば、私もこの娘さんのように勝手に自分の創り上げた世界へ人を引き込もうとしてしまうのではないかとも思い、またまた胸がちくりとする。



『風の中の詩』と『漂白』と、大きく2つに分けられているが、話はどれも短いエッセイである。
とくに『風の中の詩』の中の作品たちはどれも6ページほどの短さで、よくも同じ枚数にまとめてこんなにたくさん素晴しい文章が書けるなぁと、眼をみはってしまう。
本当に全部の作品がよくまとまっていて、読みながら感嘆してばかりいた。
『漂白』の方に入っている作品たちは『風の中の詩』のものに比べると少し長い。それでもわずか11ページである。

私は『風の中の詩』の中の作品の方が好きだ。読みやすく、あたたかい。
『漂白』の中の作品は『風の中の詩』に比べると重く、暗い。より哲学的でもある。だからしっかり集中して文章を自分の中に入れていかないと読めなくて、ちょっと疲れる。

でも、全体として、やっぱり串田さんはいい。


 死んだ者は生きている者を支配するというか、彼は私に、もう何も言わない。(「筆洗」『漂白』より)

 音楽は優しすぎる。絵画は静かすぎる。文学はだらだらとなまぬるく、その他芸術は、偽りと技巧に傾き過ぎていた。(「蛇のいた山荘」『漂白』より)

 曖昧でいい加減というのは、何を考えるにしても、表現するにしても、外に向って強く押し出せない。表現として仮りに的確であっても、それを自分で支えていられない。いつも偶然に支配されている気持ちから抜け出せない。(「初冬の疲れ」『漂白』より)