2013/06/09

新潮現代文学14 高見順『いやな感じ』

装飾:朝井閑右衛門



読み始めの第一章その一、その二、あたりまでは隠語の乱用とアナーキストというものにちょっと失敗だったかなと思ったのだが、意外なことに途中からすごく心にぐっときてしまった。
体調が悪くて動けなかったせいもあって朝から夕方まで一気に読み耽ってしまった。

創作意欲が沸き立たされて、生死のしんのところに引寄せられて、様々な思いがわんさかと頭の中に充満した。

それは私にとってほんとうに意外な感じだった。
まさかこんな気持ちになるとは予想できなかった。

テロリストのアナーキストの主人公の話。同志、女、家族、昭和初期の社会。
自分の内の現代社会への思いや自分自身の思想や信念、そして生きるというそのものがぐちゃぐちゃになって私の外へ吹き出してきて、様々な絵のイメージが浮かんできた。

昔の話なはずなのに、ちっとも今の自分と切り離せなくて、ただただ今と同じ「人間というもの」がこの本にはある。
「人間というもの」という大きなものがのっしりと覆い被さってきて私を圧倒した。

こういうのを読んでしまうと、先の福永さんなんかはちょっと軽い感じになってしまう。キレイなドラマ仕立ての作り物という感じが強くなってしまう。

上海へ渡ってからの物語はタイトル通りまさにいやな感じで、途中で感じたものが若干失せて代わりに胃袋に重い塊が居坐って、気分が悪くなった。
しかし、それでもやはり、この本は私にとっては衝撃的な本だった。こういうのは読んだことがなかった。すごい本だと思う。単なるアナーキズム、ニヒリズムの話ではない。単なる思想小説、社会小説ではなく、そこから浮かび上がる「人間というもの」の話だと思う。

誰に何と言われようとも自分の思いを込めた作品をやらなくては、そうでなければ意味がない、と思った。



 ずいぶん昔のことだが、何しろすさまじい異常な思い出だ。思い出にしたって、俺の心を混乱させるのに充分な異常さだ。と言うより、この思い出の場合は、むしろ思い出の方が、なまなましい現実感を持っている。異常のなかに実際に身を置いたときよりも、それを思い出している今のほうが、ずっとすさまじい現実感が俺に迫ってくる。
 言いかえると、思い出の中に現実がある。そのほうに、そのほうだけに現実がある。
 すさまじい現実のなかにいながら、昔の俺は、それをすさまじい現実と感じなかった。現実のなかに現実を感じなかった。(p304-305)

作者の高見さん自身がこの作品について、「私は私のいきてきた昭和時代といふものを書きたかつたのであり、書きたいのである。」と言っているが、上記引用部は激動の時代に生きた人のすべてに当て嵌まるだろうと思う。というか激動の時代でなくとも人間というのはそういうものだと思う。



 三・一五、四・一六と毎年つづいて、大量検挙のあったその翌年のメーデーは葬式行列と嘲笑されるほどのみじめさだった。メーデー参加の一万五千の労働者に対して一万二千の警官が動員された。こんな状態では、労働者を組織して革命をおこすなどということは、夢みたいな話だった。
 しかもブルジョア政治じゃ腐敗をきわめていた。疑獄事件が続出し、政党は党利をはかることに忙しく、ただただ政争にあけくれている。選挙と言えば、財閥からの献金を公認候補に八千円の五千円のと軍資金に分配して、買収が公然と行なわれ、代議士はもはや国民の代表ではなく財閥の代弁者に過ぎない。しかも当選した代議士はその日から利権漁りという始末で、こうした議会政治に民衆はあいそをつかしていた。革命を望む声がー声にならない声が、巷にみちていた。(p88-89)

こういう文章を読んで、今だってそう変わらないじゃないか、と思ってしまう。
この本の中では革命やテロリストという言葉が出てくるのだが、アメリカの9・11に始まるテロや、アラブの春や、日本の政治では自民敗退から民主敗退という現代だから革命やテロという言葉は古い遠いものではなく身近なものに感じる。
今も昔もそんなに変わっていないし、そもそも人間の本質は同じだというのをこの本でまざまざと感じた。