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| dinner 05/2014 |
2014/05/21
2014/05/11
2014/05/07
『帰ってきたヒトラー』ティムール ヴェルメシュ(訳:森内薫 / 河内書房新社)
読みたかった『帰ってきたヒトラー』が、Kindleの電子書籍で単行本より安かったので読んだ。
2月の時点では電子書籍になっていなかった。
「おもしろい」という言葉は難しい。私が言う「おもしろい」と、別の誰かの「おもしろい」は必ずしも一致しない。
たとえば、私の旦那さんは脚本のような本をおもしろいと感じる。スピーディな展開で、会話で成立していくようなもの。池井戸潤さんの半沢直樹シリーズとか、三谷幸喜さんの清洲会議とか。
私もそれを読ませてもらった。確かにおもしろい。ぐんぐんずんずん読める。
では、そういう「おもしろさ」と、この本の「おもしろさ」は同じかというと、違うように思う。だから、旦那さんに「僕は読める?おもしろかった?」と聞かれると困ってしまう。
歴史ものを読む気持ちで取り組むと良い思うが、三谷幸喜さんの本のような気持ちで読み始めるときっと重く感じてつまらないと思ってしまうんじゃないかと思う。
それに、歴史をある程度知っていないとこの本がやりたいことが理解できないと思う。
噛み合ないことの滑稽さがおもしろいというように何かに書いてあったような気がするのだけど、私はそうは思わなかった。
この本に滑稽さなんて私はちっとも感じなかった。
『帰ってきたヒトラー』の「おもしろさ」が何なのか考えてみると、強い意志を持ったブレないヒトラーがこの現代に生き返るという設定そのものがおもしろいのだと思う。
それから、現代人への皮肉。
ヒトラーの目線で現代を見る。
現代は便利になって幸せになったのか。
政治は本当に国民のためを思って行なわれているのか。
そんな現代に対してヒトラーは「今のこの世の中を救うために生き返ったのだ!」と使命感に燃える。(←もうこれだけでおもしろいとも言える)
本の中のヒトラーにはとても好感が持ててしまう。しかもいい人でみんなから愛されるキャラクター。
だからこの本は「おもしろい」。
ヒトラーは残虐且つ非道な行ないをしたけれど人を惹き付ける魅力的な人間でなければ総統になんてなれなかったはずだ、という書き方をしている(もちろんその通りだと思う)。
ヒトラーは、ただただ国を良くしようと国民を守ろうと情熱を持って頑張る。
きっとこんな感じだったんだろうな、と思う。そう思うことが「おもしろい」のだと思う。
2014/04/26
『女のいない男たち』村上春樹(文藝春秋)
信濃八太郎さんの装画が素敵。こういう質感、好き。どうやって描いているんだろう。
村上春樹さんの本を読むと、いつも、忘れそうになっていた心持ちや存在が濃く甦ってくる。
そうして、苦しくなって、せつなくなる。
Amazonのレビューでは、かなり辛口な評価もあったし、それに賛同する人もいたけれど、私はやっぱり村上さんは好き。
確かに、昔に作品と較べると、なんていうか、弱くなったような気はする。それでもやっぱり村上さんにしか書けない世界があると思うし、村上さんらしさは健在であるとも思う。
村上春樹さんの言葉は、普通に暮らすのが困難だったり、大切な人を突然失ったり、誰にも言えない心の瑕を持っていたりする孤独な人に沁み入るのではないかと思う。
そういう人が村上さんの言葉に触れると、「あぁ、わかるなあぁ」としみじみ感じ、救われるのだと思う。
つまり、ハマる人にはハマり、ダメな人にはダメという感じがする。
私はいつも村上さんの言葉に強く揺さぶられる。
心臓と胃がぎゅうーっと締め付けられる。
今回のお話も私は共感するところが多かった。
愛した人に裏切られて拒食症になり死んで行く男の気持ちも、電話で愛した人の死を聞く気持ちも、
すごく、わかる。
大切な人が突然いなくなるということ、それによる孤独、そういう心の表現が村上さんは本当にうまい。
村上さんが言葉にしてくれてはじめて自分の心の気持ちを言葉にするとそういうことなんだと気付くことができる。
たとえば、私なんかはそういう様々な感情は絵でしか表現できない。うまい言葉が見つけられない。うまい比喩も分からない。でも村上さんは言葉でそれを表現する。そして絵よりも言葉の方が誰にでも伝えられて、わかりやすい。
これほど上手に心を文章にできる人はいないと私は思う。
そしてそれが村上ワールドなのだと思う。
だから、昔より劣ったとか変わったとかいう人がいても、私はさほどそうは思わなかった。
一冊の中にひとつでも「あぁ、そのとおり」と思えるところがあれば、それはすごいことだと思う。
私が一番印象に残ったのは、愛する人を突然失った孤独はあなたの身体に深く染み込んでいく。それはまるで淡い色の絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように、というようなくだり。その染みは時間とともに多少は薄くなっても自分が死んでしまうまで消えることはないという話。
とても、とても、よくわかる。
終えてしまうのがもったいなくて、ちびちびと読んだ。
2014/04/23
『さようなら、オレンジ』岩城けい(筑摩書房)
第29回太宰治賞受賞作。
岩城けいさん、初めて読んだ。
文章がどうこうよりも、内容が面白かった。すごくいい構成だと思った。
ずんずん読めて、あっという間に読めてしまう。
サリマ、オリーブ、ハリネズミ。
人の名前のネーミングのセンスがいい。私はキャッチコピーのセンスのないから羨ましい。
サリマはアフリカ出身、オリーブはイタリア出身、ハリネズミは日本。
サリマとハリネズミが主人公で、場所は英語圏の海沿いの小さな町。
様々な人種の人間の内面や風景景色を丁寧にしっかり描いていて、気持ちよく読めた。
2014/04/22
『瀬戸内海のスケッチ』黒島伝治作品集(山本善行 選 / サウダージ・ブックス)
この装丁を見ると現代の作家さんの本のようにみえるが、黒島伝治さんは1898年から1933年に生きた人である。
小豆島の生まれで、この作品集の中にも島の農民たちの生活を描いた作品が収められている。
壷井榮の夫、壷井繁治と同村である。
黒島伝治さんの作品は主に「農民もの」と「シベリアもの」に分けられるらしい。
この作品集には「シベリアもの」はひとつしか入っていない。
黒島さんの「シベリアもの」をこの本でもう少し読みたかった。
この本に出会うまで、私は黒島伝治という作家さんを知らなかった。この装丁は私に何となく俳句や詩の人を思い浮かばせたから、片山廣子さんのような感じかと勝手に想像していた。
しかし読んでみると全然違った。こういう作家さんをこれまで読んだことがなかったようにも思った。
自然主義らしくありのままを描いた作品で、何というか、作り物でないリアルな現実がそこにあった。
リアルな現実というのは、いじめられっこが救われたり、貧乏で醜い人間こそが善人だったり、優しさに満ち溢れていたり、しないということ。
いじめられっこはずっといじめられるし、貧乏で醜い人間こそ卑しくしたたかでいやらしい性格だったり、善人が馬鹿を見る結果になったり、貧乏人は貧乏人のままなのである。それがリアルな現実なのだ。
だから、読んでいると変な気分になる。本なのに救われず、ずっしりと現実というものがのしかかってくるのに、黒島さんの文章は重くなく、暗過ぎず、まさに装丁のごとく瀬戸内海の美しさがあるから不思議な気持ちになる。
貧しい暮らしが、報われない善人が、愛おしく感じる。
自分に嘘をつかず、見栄を張らず、自分らしく、自分に見合った場所で生きる。それが幸せというものなのだと教えてくれる。
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カバー裏の絵
装丁画:nakaban
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2014/04/01
『ビアズリー伝』S・ワイントラウブ(高儀 進 訳 / 中公文庫)
オーブリー・ビアズリーについて私は全くと言っていいほど何も知らなかったのでとても興味深く読んだ。
以前、フロベールの『サランボオ』の感想に『サロメ』と似ていると書いたが、この本を読んでフロベールはオスカー・ワイルドやその他にも多くの作家に影響を与えていることを知った。フロベール的というものがあることも。
オーブリーがバーン・ジョーンズやホイッスラーに影響を受けていたことも(そして知り合いだったことも)初めて知った。
私にはちっとも作風が似ていると思えないけど、初期のオーブリーは「バーン・ジョーンズ的」らしい。
それに私はオーブリーが当時世間からそんなに悪評を得ていたことも知らなかった。グロテスクで悪趣味なものと言われていたなんて。
今でこそ素晴しい才能だと誰しもが認めるところであるが、1890年代ということを考えると認めるのは難しかったのかもしれない。しかしそういう時代に新しい藝術を生み出したオーブリー・ビアズリーの才能には本当に舌を巻いてしまう。
とてもおもしろかった。
2014/03/27
太宰治の読書感想
いくつかの太宰治を読んで、少し前の日記に「今読んでみると太宰は、云々」と書いたことがまるで違うように感じられてきた。
おかしなことだけれど、太宰はちっとも暗くない。全くまるでわかっていなかったことを恥じるばかりで、益々考えを公にするのが怖くなってしまう。
今のところ読んだのは、
『風の便り』『千代女』『女の決闘』『冬の花火』『皮膚と心』『正義と微笑』『愛と美について』『如是我聞』『東京八景』『駆込み訴へ』『ダス・ゲマイネ』『お伽草紙』『女生徒』『パンドラの匣』
とくに太宰への考えが変わるに至ったのは『風の便り』『正義と微笑』『パンドラの匣』。
手紙や日記という独り語り形式で、とてもおもしろかった。
『風の便り』は作家ふたりの手紙という形の小説でとても共感するところが多かった。
太宰自身の2つの面を現しているように思えた。
60ページの引用など、実に巧いと思う。ありきたりのよく言われる事でもちょっとした言い方次第で新しくなったり親しみを感じたりする。
太宰は新しい文學に取り組もうとしていたというのが今回読んでみてよく分かった。
新しいスタイル、新しい文章、新しい題目、様々の新しいことをやってのけている。
そしてこういう人から見たら、これまでの純文学というのは何とも歯がゆいものに思えたであろうことも推察できる。
『風の便り』は、古い作家と若い作家との手紙のやりとりで、そのどちらの言い分も太宰は持ち合わせていたのだろうと思う(もちろん私たち読者にもふたりのどちらも分かる)。
矛盾する気持ちを書こうと思うところがすごい。そして様々な考え方があるという形式の小説であることもすごい。
本当に何から何まで現在にしてもなお新しく、おもしろい。
『正義と微笑』『パンドラの匣』はふたつとも若い少年が語り手で、前者が日記、後者が手紙の形の小説。
ふたつ共に成長してゆく少年の清く澄んだ姿にハッとさせられる。
『パンドラの匣』では、
こんなものを書いていたなんて本当に驚いた。ダメな男ばかり書いているのかと思っていたら、蕾のような少年も書いていたなんて。そしてこっちの太宰はとてもいい。
30代後半の私には、10代の生に満ちた、春のような少年の姿がとても気持ちよく映った。終ってしまうのが惜しいくらいだった。
どれも興味深かった。全部の感想を書くとおそろしく長い日記になってしまうので、いくつかだけちょこっと言うと、
『お伽草紙』は、瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀、という昔話に太宰風物語を加えたもの。とってもおもしろかった。中でも浦島さんとカチカチ山がよかった。
カチカチ山の狸と兎が醜男とアルテミス型の少女という解釈で、醜男がアルテミス型少女に惚れたという解釈は実におもしろかった。
『女の決闘』は、森鴎外の翻訳『女の決闘』を膨らましたもので、試みがおもしろい。
『如是我聞』は、年配作家への悪口。調べたら「死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発行されたものらしい。こういうのを出すというのがすごい。
どれもこれも発想が素晴しい。拘って読み物を作っているというのが分かる。随所に小説とは、藝術とは、というようなものも出て来るし、私小説でないにしろすべての作品に太宰治という人間がある。
どれもよかったけど、やっぱり『パンドラの匣』がなんだか爽やかで良かったなぁ。
おかしなことだけれど、太宰はちっとも暗くない。全くまるでわかっていなかったことを恥じるばかりで、益々考えを公にするのが怖くなってしまう。
今のところ読んだのは、
『風の便り』『千代女』『女の決闘』『冬の花火』『皮膚と心』『正義と微笑』『愛と美について』『如是我聞』『東京八景』『駆込み訴へ』『ダス・ゲマイネ』『お伽草紙』『女生徒』『パンドラの匣』
とくに太宰への考えが変わるに至ったのは『風の便り』『正義と微笑』『パンドラの匣』。
手紙や日記という独り語り形式で、とてもおもしろかった。
『風の便り』は作家ふたりの手紙という形の小説でとても共感するところが多かった。
太宰自身の2つの面を現しているように思えた。
生きる事は、芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。(中略) 創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、「正確を期する事」であります。その他には何もありません。(p21-22)
あなたに限らず、あなたの時代の人たちに於いては、思惟とその表示とが、ほとんど間髪を入れず同時に展開するので、私たちは呆然とするばかりです。(中略) あなた達は、言葉だけで思想して来たのではないでしょうか。思想の訓練と言葉の訓練とぴったり並走させて勉強して来たのではないでしょうか。口下手の、あるいは悪文の、どもる奴には、思想が無いという事になっていたのではないでしょうか。だからあなた達は、なんでもはっきり言い切って、そうして少しも言い残して居りません。子供っぽい、わかり切った事でも、得意になって言っています。それがまた、私たちにとっては非常な魅力なものですから、困ります。私たちは何と言ってよいのか、「思想を感覚する」とでも言ったらいいのだろうか、思惟が言葉を置き去りにして走ります。そうして言葉は、いつでも戸惑いをして居ります。わかっているのです。言葉が、うるさくってたまりません。(中略) 思惟と言葉との間に、小さい歯車が、三つも四つもあるのです。けれどもこの歯車は微妙で正確な事も信じて下さい。(p39-41)
いかに努めても、決して及ばないものがある。猪と熊とが、まるっきり違った動物であるように、人間同士でも、まるっきり違った生き物である場合がたいへん多いと思います。猪が、熊の毛の黒さにあこがれて、どんなにじたばたしたって、決して熊にはなれません。(p60)
60ページの引用など、実に巧いと思う。ありきたりのよく言われる事でもちょっとした言い方次第で新しくなったり親しみを感じたりする。
太宰は新しい文學に取り組もうとしていたというのが今回読んでみてよく分かった。
新しいスタイル、新しい文章、新しい題目、様々の新しいことをやってのけている。
そしてこういう人から見たら、これまでの純文学というのは何とも歯がゆいものに思えたであろうことも推察できる。
『風の便り』は、古い作家と若い作家との手紙のやりとりで、そのどちらの言い分も太宰は持ち合わせていたのだろうと思う(もちろん私たち読者にもふたりのどちらも分かる)。
矛盾する気持ちを書こうと思うところがすごい。そして様々な考え方があるという形式の小説であることもすごい。
本当に何から何まで現在にしてもなお新しく、おもしろい。
『正義と微笑』『パンドラの匣』はふたつとも若い少年が語り手で、前者が日記、後者が手紙の形の小説。
ふたつ共に成長してゆく少年の清く澄んだ姿にハッとさせられる。
『パンドラの匣』では、
「君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。」(p11)と、最初は言っていた少年ひばり(手紙の書き手で語り手)が、結核を治療する施設で日々成長していく。
人は死に依って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてい動いているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。(中略)
けれども、君、思い違いしてはいけない。僕は死をよいものだと思った、とは言っても、決してひとの命を安く見ていい加減に取扱っているのでも無い(中略)僕たちは、死と紙一枚の隣合せに住んでいるので、もはや死に就いておどろかなくなっているだけだ。(中略)これまでの手紙を見て、君はきっと、(中略)僕の周囲の空気だけが、あまりにのんきで明るすぎる事を、不謹慎のように感じたに違いない。しかし(中略)僕たちの笑いは、あのパンドラの匣の片隅にころがっていた小さな石から発しているのだ。死と隣合せに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。(p60-62)
芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力をして汗を出し切った後に来る一陣の風だ。(中略)君、理屈も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(p214)
こんなものを書いていたなんて本当に驚いた。ダメな男ばかり書いているのかと思っていたら、蕾のような少年も書いていたなんて。そしてこっちの太宰はとてもいい。
30代後半の私には、10代の生に満ちた、春のような少年の姿がとても気持ちよく映った。終ってしまうのが惜しいくらいだった。
どれも興味深かった。全部の感想を書くとおそろしく長い日記になってしまうので、いくつかだけちょこっと言うと、
『お伽草紙』は、瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀、という昔話に太宰風物語を加えたもの。とってもおもしろかった。中でも浦島さんとカチカチ山がよかった。
カチカチ山の狸と兎が醜男とアルテミス型の少女という解釈で、醜男がアルテミス型少女に惚れたという解釈は実におもしろかった。
『女の決闘』は、森鴎外の翻訳『女の決闘』を膨らましたもので、試みがおもしろい。
『如是我聞』は、年配作家への悪口。調べたら「死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発行されたものらしい。こういうのを出すというのがすごい。
どれもこれも発想が素晴しい。拘って読み物を作っているというのが分かる。随所に小説とは、藝術とは、というようなものも出て来るし、私小説でないにしろすべての作品に太宰治という人間がある。
どれもよかったけど、やっぱり『パンドラの匣』がなんだか爽やかで良かったなぁ。
2014/03/04
『サランボオ』フロベール(神部孝 訳 / 角川文庫)
最初少し読み難かったが、気付くとずんずん読めるようになり、すっかり作品に没頭してしまった。
物語がどうこうよりも、文章や言葉が惹き込ませるという感じだった。
有名な作品だけど、有名がゆえに読んでなかった(そういうのものは山のようにある)が、とてもおもしろかった。
第一次ポエニ戦後のカルタゴとカルタゴに反逆する傭兵たち(蠻人たち)との戦いを主に、カルタゴ側の主宰ハミルカル・バルカ(アミルカアル)の娘サランボオと彼女に恋をした蠻人側主宰マトオの物語である。
はるか遠くの古い時代の話なのに、苦もなく映画を観ているような感覚で読めてしまった(旧仮名なのでそれが苦手な人は読めないかもしれないが)。
実際映像にすると残虐的すぎるような場面ばかりだが、その時代の色々なものがとても興味深かった。
読み終えてからも大勢の人々の声や喧噪、戦で上がる砂埃、血の匂い、腐敗臭、マトオの声、サランボオの肌、色々なものが残像として私に張り付いている感じがしている。
途中、ふと『サロメ』を思い出した。当時(といっても『サランボオ』が1862年『サロメ』が1891年で30年ほどの差があるが)は、こういう強裂な愛憎を呈する恋の形が流行ったのだろうか。
挿絵は『サロメ』のビアズリーの方が好きだけど。
ともあれ、なかなか良かった。
最後にミュシャの描いたサランボオを添付。
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