この本の中で長谷川四郎さんを取り上げていたので、それを読みたかった。
大好きな村上さんが長谷川四郎さんを好きというのは嬉しく思ったけれど、どんな風に書かれているのか、私とはまるで違う感想だったらどうしようか、と、ちょっとヒヤヒヤドキドキもした。もちろん、村上さんがどんな作家が好きなのかも知りたかった。
小島信夫も安岡章太郎も庄野潤三も丸谷才一も、よく知っている名前だけど読んだことはない。
安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、が「第三の新人」というカテゴリーでくくられていることも知らなかった。私は画家についても作家についてもあまり知識がない。いつの時代の人かというのもよくわかっていなかったりもする。バックグラウンドをしっかり押さえてから作品を見たほうがいいのは分かるが、どうにも興味を持てず、ただ作品だけを見てしまう。
安岡章太郎と丸谷才一はあまりに有名だから読んだことがなく、小島信夫と庄野潤三は本棚に並んだ本の背表紙にその名前が在るというイメージでよく知っているつもりになっている。どんな作風なのかは全く知らなかった。
他にあと二人、吉行淳之介と長谷川四郎が取り上げられている。
読み始める前は、私の専らの興味は長谷川四郎にあったのだけれど、読み始めるとすっかり村上ワールドに惹き込まれてしまった。これ自体がひとつの作品としてよく出来ていると思う。読んだことのなかった人たちを読んでみたくなった。
どんな本を読むか、どんな本を読めばいいか、というのはなかなか難しい。文芸雑誌をよく読む人ならそんなことはないだろうが、読まない私なんかは、自分にとっての新しい作家の発掘というのは本当に困ってしまう。
ただ、読んでいて連鎖的に次、次、となる場合もある。たとえば、村上春樹が好きでレイモンド・カーヴァーを読み、カーヴァーの作品の中にブコウスキーが出てきたり、ボルヘスなんかは他の様々な作品の中に名前が挙がるし、『昔日の客』のような本の中にはそれこそたくさんの作家の名前が出てくる。
きちんと作家について調べる人であれば(それくらいはやってしかるべきなのであろうが、、、)年代や作家同士の繋がりからどんどんと広がっていく。
きちんと作家について調べる人であれば(それくらいはやってしかるべきなのであろうが、、、)年代や作家同士の繋がりからどんどんと広がっていく。
好きな作家が好きだという作家は手に取りやすい。
この本はさらに作家のひとつの作品を取り上げて、その作品について考察しているので、数ある作品の中からどう読むかというのも示唆してくれていていいと思う。
たとえば、安岡章太郎では処女作の『ガラスの靴』を取り上げているが、そのあと『悪い仲間』『陰気な愉しみ』と続き、『海辺の光景』でここにあるひとつの流れが終結する、というように。
村上さんは書き手として作品を読む。どうしてこういう書き方をしたのかとか作者の意図とかそういう目線で読む。だからこの本を読んでいて私は、本というのはこう読むものなのかと少し恥ずかしくなった。自分はまるでちゃんと読めていないじゃないか、ダメだなぁ 、と思った。
私の場合、本を読むのも絵を鑑賞するのも、割と感覚で捉えて済ませてしまう。あまり深く読み解かない。ただ、美しいなぁとか好きだなぁとかで終わってしまう。それも頭でというより心で感じるというのがほとんどである。だからうまく言葉ではそれを伝えることができない。
でも、まぁ、そうはいっても、文学部卒だし実家で国語の先生をしていたし国語科の教員免許も持っているということもあってか、ある程度はその作品のメッセージは自然と読める。それでも、この本の中で村上さんが展開するようなものには程遠く及ばない。それにやっぱり、私の感覚とはちょっと違うなぁと気付かされる。国語科の教師としての部分もあることにはあるけれど、絵を描く部分の方が強いのだと思う。
私が好きな作品というのは、私の中にある " 描く部分 " が、びりびりする作品だ。
その感覚は暗闇でしゅるしゅると伸びて来た細い線と線が触れてバチバチッと鮮烈な火花があがるような感じに似ている。
絵を見るように本を読んでいるのかもしれない。文章や言葉は溶けて、イメージとして私の中に入ってくる。
私は絵を見るように本を読むタイプなので、村上さんの見解を読んでいると感心してしまう。
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村上さんの長谷川四郎についての見解について、少し触れておきたいと思う。
この本の中で私が読んだことがあるのは吉行淳之介と長谷川四郎しかいないので他の作品については分からないのだけれど、長谷川四郎さんはつい最近読んだばかりなので村上さんが言うのと私の感じたことの対比がしやすかったので書いておこうと思う。
村上さんは私が読んだ短篇集『鶴』と『シベリヤ物語』を大陸ものとしてひとくくりにし、それ以降(戦後)に書かれた『阿久正の話』を取り上げて、両者の違いから長谷川四郎について解いていく方法をとっている。
だいたいは村上さんの言っていることに賛同するし、共感もするし、納得もする。文体についての賛辞表現はさすが村上さん!とも思う。
長谷川四郎が非日常でしか輝くことのできない長谷川四郎だからこそ大陸ものは素晴しく、それ以降にやってきた日常という世界にはどうしても馴染めなかったという見解は、大陸ものしか読んでいなくても、なるほどそうに違いないだろうと思える。
村上さんは本当にじっくりと深く本を読んでいるのだなぁとつくづく思う。
しかし、村上さんは、大陸ものには狂気のような溢れ出すような感情がないと言っている。文章はとてつもなく素晴しいのだが、切羽詰まった感情が感じられないのが残念だ、と。
私は一度しか読んでいないが第一印象としてそんな風には感じなかった。
淡々とした文章からはひしひしと感情が伝わってきた。
感情がないから感情が伝わる、というと分かりにくかもしれないけれど、「ない」ところに「ある」のだと私は感じる。
作者の感情は確かに感じない。登場人物の感情もないかも知れない。
けれど、私は、作品に感情はあると感じた。しかも、とても強く。
こう言うと烏滸がましいけれど、私は自分が「ない」ところに「ある」ように表現したいと思って絵を描いているからとりわけそのように感じるのかも知れない。
たとえば同じ愛情を表現するにしても楽しいことや幸せなことの中に愛情を描かない。哀しいことや不幸の中にそれを描く。生と死においても、死があるから生が際立ち意味を持つ。そして私は生は描かない。死の影を描く。孤独を描く。
ひっそりと動きのない絵ばかり描いているからといって、そこに感情がないわけじゃない。「ない」ところに私の表現したい感情が「ある」わけなのである。だから私自身は無感情で無表情な絵を描いているつもりは毛頭ない。内から溢れて溢れてどうしようもない感情の波を掬いとっているのに(狂気にような切迫した感情を掬いとっているのに)、描くとそれは落ち着き払った静かな顔になっている。
そんな静かな絵から激しい感情を汲み取って欲しいというのは無理な話なのだろう。でも、いくつもそんな絵が並べば、ずっとそんな絵を描き続けていれば、何かしらは伝わるんじゃないかと私は信じている。
しかし、多くの人が共通して持っている長谷川四郎に対する見方や、長谷川四郎自身の性格やバックグラウンドを知ると、私の当初の感想は幻のような気がしてくる。読んだときは確かにそう感じたのだけれど、今ではそれはすごく不確かで曖昧になってきてしまった。
好奇心旺盛でスパイだったかも知れないと噂が立つような長谷川四郎。非日常におさまってしまえる長谷川四郎。そういう四郎さんのイメージが私の中にしっかりと入って来てしまった。そうなると、私は不器用だからもう最初の時点には戻れない。そっちの四郎さんが勝ってしまって、そっちの四郎さんに引っ張られて読んでしまいそうな気がする。まっさらな状態で読んだときのように読もうと思ってもたぶん出来ない。
でも、というかだからこそ、また今度、もう一度、読んでみなくてはいけないと思っている。