洲之内徹が主に絵画で、青柳瑞穂は主に骨董焼物という違いはあれど、美に対する真摯かつ真っ直ぐな向き合い方がふたりは似ている。そしてふたりとも目利きである。
戦時中、洲之内徹は海老原喜之助の描いた「ポアソニエール」を見つづけ、青柳瑞穂は陶器を見つづけた。
何度か品物を見かけていて気になってどうしても欲しくなって、なんていうくだりなどふたりともそっくりなのだけれど、私は焼物はよく分からないから、やっぱり洲之内徹の方に愛着を感じてしまう(もちろん、洲之内さんだって焼物や漆塗を持っていたし、青柳さんだって絵画も持っていたけれど)。
どうにも私は焼物がよくわからない。絵の場合は見れば好き嫌いをはっきり認識できるし、世間での価値と自分の出した評価が違っても気にしないし、自分の目に自信も持てる。
けれども、骨董の焼物の場合、絵のように見れない。土の持っている美しさというものに自信がない。絵のように直感的に自信を持って意見を言えない。
美しいか否かということより先に骨董か否か、高いものはよくて安いものは良くない、というような先入観に侵されてしまっているような気もする。
しかし、釉薬の美しさとか、形の美しさとか、装飾の美しさとか、そういうものは絵と同じように見れる。
だから、ルーシー・リーの作品を見た時は冷水を頭からかぶったみたな衝撃を受けた。
美しい色に心臓がドキドキしてぞわぞわと身震いした。影響も受けた。理屈抜きで美しいと思ったし素晴しいと思った。
それから蒔絵が施されたものも結構好きだ。蒔絵は淋派の絵画と同じ感じがする。
蒔絵と聞くとまず私の頭の中には尾形光琳の「燕子花図屏風」と、酒井抱一の「夏秋草図屏風」が浮かび、それから本来の蒔絵(私は漆塗りの箱がいちばん好きだから、その漆の艶やかさとか、箱の美しい丸みとか、そこに施された黒に映える金の美しさと可憐なモチーフを描き出す繊細な仕事っぷり)を思い浮かべる。
そういえば、知らなかったのだが『ささやかな日本発掘』に光琳が弟の乾山と焼物をやっていたということが書いてあった。あの頃は芸術は一括りで境界線などなかったのかも知れない。
青柳さんのこの本を読んで、美しさというのは自然の中にあるのだという考えを心に留めて忘れないようにしなければと思った。
芸術を前にした時にこうあるべきだという的確な文章があったので引用。
”私たち素人は、感動を失ったら、あとは何ものも残らない。感動のみ知ることが出来るのだ。もちろん、仏の奥には感覚を超えた、もっと深いもの、もっと神秘なものがひそんでいる筈だし、そして、すぐれた芸術は、それなしには存在しない筈だが、それとても感覚の電波による以外は探り得られるものではあるまい。”