2014/02/07

『四季 Ⅱ』串田孫一(文京書房)


『四季Ⅰ』に比べると、こちらの方がつれづれなる随筆に感じる。
はじめに樹について、おわりに動物と自然についての項があり、あいだに春夏秋冬がある。

おわりの部分は、何となくいつもの串田さんより作り過ぎている感があった。
ずいぶんと飛躍しているような、そこまで考えるのはやりすぎているような、ちょっと胃もたれする感がある。

楽しく読んできたはずだが、私はちびちびと読むのでおわりが悪いと印象が悪くなってしまう。

そう思っていたら、あとがきに串田さん自身が、山歩きをしなくなってから日常の事象で同じように書く努力をしている、と書かれていて、なるほどそうかと気付いた。

これまで読んだ随筆の中心には山があり時たま日常が入る、という形だったのが、山の圧倒的な大自然による力がなくなったことで考え込まれた文章の感じになってしまったのだ。
山の自然を書いている串田さんの選ぶ言葉は本当にすごい。私の眼の前にもその自然を現してくれていた。
大自然から感じたものを書くのと、日常で感じる自然を書くのとは、多分だいぶ違う。

なんだかあまり良くないみたいな書き方をしてしまったけど、読んでいる時私は串田さんの目はすごいといつもいつも思っている。羨ましいと思う。
串田さんの文章を読むと、あぁきちんとものを見なくてはいけないと思う。


2014/01/31

『ぬいぐるみの鼠』中村昌義(河出書房新社)

「あぁ」と、声にならない声が体に満ち、吹きさらしの荒野にひとり取り残されたような気分になった。

死を目前にした作家の文章はおだやかでやさしい。
そしてそのおだやかさややさしさは哀しみを誘う。
どの随筆も静かで真っ直ぐで哀しい。

すべて死に関係していたり連想させるような文章で、その中にはいつか消えてしまう儚さを持つやわらかなあたたかさがある。

ふわふわと天から舞い落ちる雪のような、またその溶け始めた輝く結晶のような、
愛おしい子供の小さな手の温もりのような、
そういう印象が残った。

本当にいい本だった。かなり好き。大事にしようと思う。

中村さんの単行本は『ぬいぐるみの鼠』と『静かな日』と『陸橋からの眺め』の3冊しかない。
他2冊も読み、日記に感想を書いているはずだが内容はあまり覚えていない。
他2冊のことを覚えていないけれど、この『ぬいぐるみの鼠』が中村さんの本の中で一番良かったように思う。
久しぶりにいいなぁと思う心に沁みる本だった。
他2冊ももう一度読み直してみたくなった。

2014/01/10

『読書画録』安野光雅(講談社)


読んだ本のイメージを絵にしているのではなく、作品もしくは作家に関係ある場所の現在の風景をスケッチしている。
たとえば、樋口一葉の『たけくらべ』には「旧吉原大門あと松葉屋の脇をながめたところ」、
表紙の絵は梶井基次郎の『檸檬』に添えられた絵で、
「京都三条と麩屋町の交わったところ、絵の左手前の方角にもと丸善があった。『檸檬』の余韻を求めてここまでやって来た人は、さぞ多かったことだろうと思う。」とある。

出不精の私は作品に登場する場所へわざわざ行きたいと思うことは滅多にない(浅草にはちょっと興味があるけど)。
だから読書感想に添える絵として場所のスケッチという発想が出てこなかった。
添えるとしたら、装丁にあるような「内容のイメージ」を描くというのしかなかった。
でも、安野さんのスケッチを見ると、こういうのもいいなと思った(まぁそれは安野さんのスケッチだからいいのだとも思うけど...)。


自分の尊敬する人の読書感想、とくに安野さんのように素晴しい画家さんの読書感想は興味がある。
どんな本を読んでどんなことを感じたのか。
期待が高かった分、この本はちょっとだけ拍子抜けした。
作品の説明で大半を占めているものが少なくない。そしてすべて3ページで収めているからさっぱりし過ぎて物足りなさを感じた。
さすがに『檸檬』は画家としての安野さんの心持ちが書かれていたけど、他は概要のような紹介のような印象がした。

それでも、読んだことのない本ばかりが紹介されていて読んでみたいと思った。

2014/01/09

読書感想:夏目漱石、太宰治、芥川龍之介


最近ipadで本を読むことが多い。
ibookの無料本で夏目漱石を数冊読んだあと太宰治と芥川龍之介を読んだ。

私は高校生の頃、太宰治の『斜陽』を読んで太宰ファンになったのだが、今読んでみるとそんなにいいと思わなかった。
今回さくっと読んだのは『富嶽百景』『恥』『グッド・バイ』『火の鳥』で、
『富嶽百景』以外はどうも気障で自己愛の塊みたいで好きどころかちょっと嫌悪感さえ感じた。高校生の頃は良かったと思っていたのに不思議なものだ。
太宰はきっと世の中や家族の血のつながりが嫌で死にたい死にたいと思っている少年少女にとってはバイブルのように思え、そういうことを通り越して生き残った大人にとってはどうも愚痴っぽくて嫌な気分になる。

対して芥川龍之介は今の方が良く感じた。
大学の卒論で宇治拾遺との絡みで『地獄変』を使ったがそれ以外の作品の記憶はあまりなかった。
適当にピックアップして『影』『おしの』『或阿呆の一生』『蜜柑』『歯車』『お富の貞操』『奉教人の死』を読んでみたのだが、どれも良かった。
『蜜柑』はおそらく高校大学あたりに読んでいたらこの良さが分からなかったんじゃないかな。ガツンとくる良さではなく、じわじわくる良さというのは大人になってからの方が分かる。
似ているタイトルで太宰の『桜桃』や梶井基次郎の『檸檬』があるが、私は当時は『檸檬』が好きだった。精神を病んでいる絵かきの男というのに自分を重ねたのだ。しかし今読んでみると断然芥川の『蜜柑』がいい。すごく短い作品だけど完成度が高いと思う。
芥川は文章がうまくて頭がいいんだなぁと気付いた。それに大人な感じがする(苦笑)。太宰は子供。
『影』も良かった。斬新なミステリーホラー。びっくりするくらいすごいなぁと感心してしまう。なんかどこかで同じようなものを読んだか見たかしたような気がするが、気のせいかもしれない。

夏目漱石は『こころ』(←これは前に感想を書いた)『三四郎』『それから』『夢十夜』を読んだ。何度も言うが、本当に夏目漱石はすごい。天才だと思う。
堅苦しくなく、生き生きとして、目の前に漱石の書くその世界があるように感じる。
人も町も今なお生きている。全然古い感じがしない。
状景描写が多いという感じがないのに、町の喧噪が聞こえ、色は鮮やかに、匂いまで香ってくる瑞々しさがある。映画を見ているような感じがある。
私はとくに『こころ』と『夢十夜』が良かった印象。今読んでいる『硝子戸の中』もいい。

2013/12/26

随筆集『四季』串田孫一(文京書房・1979年)


四季というタイトル通り、春夏秋冬の順で綴られている四季が3つ。
春夏秋冬が3回。
私は変な気分になった。体の中を猛スピードで過ぎてゆく季節に気分が悪くなったのだ。

しかしそれだけ串田さんの文章が瑞々しいということなのだろう。
四季の姿があまりに鮮明に美しく書かれていて、数日で春夏秋冬を3回も巡って混乱したのだ。

* * *

今こうして書き忘れていた読書感想を書こうとして、私は内容をまったく覚えていないことに驚く。
串田さんの知人友人が出て来たし、山登りのこともあったし、串田さんの日々があり心があったことは覚えているが、どんなエピソードだったかはまるで思い出せない。
読み終えてしまうとそれは串田さんの一日でなく私の日々の一日でもあるような気さえして来る。

日本の四季、それは串田さんにも私にも同じように訪れる。
串田さんの『四季』を読んで、改めて四季の美しさと日々の素晴しさを感じた。

2013/12/25

『飛魂』多和田葉子(講談社)


多和田葉子さん、やっぱりいい。以前に読んだ『雪の練習生』も良かったけど、それとは全くテイストが違って、さらに良かった。

でもやっぱり装丁が勿体無いなぁと思う。作品はすごくいいのに、本の見た目ではその良さが想像できない。


さて、どんな内容なのかというと説明するのが難しい。
言葉と虎、という冒頭のキーワードで中島敦の『山月記』を思い出したが、しかしまるで違った。

人里離れた場所にある書を学ぶための学舎でたくさんの女たちと暮らす梨水という女性の話。
その学舎は亀鏡というカリスマ的な女性によって存在している。
ここでは言葉から虎や鯉が出現し、女たちは言葉を操る。

梨水から発せられる声には不思議な力があり、彼女は思考がいつも十転する「飛魂」の心の持ち主でもある。
梨水、亀鏡、煙花、紅石、指姫、朝鈴、どう読んでいいのか分からない彼女たちの名前。
意味にとらわれないで受け止める言葉というものの力。


読みながら本の中の世界にふわふわと漂っているような心地になった。頭で物語を読むのではなく、ただ感じる。だから読んでいるという感じがしなかった。かといって映像的というのでもない。
理屈がなく言葉や文章が体の中を通り抜けていく感じ。
こういう本はなかなか無い。気持ちの良い本だった。

2013/12/18

カイユボット展 @京橋・ブリヂストン美術館


カイユボット展図録


パリのオルセーで見たのではなかったような気もするが、どこかでカイユボットの「床を削る人々」を見て、それがとても気に入って、カイユボットが好きになった。
だから他の作品も見たいと思っていた。

まとめてこれだけ見れたら大満足である。やっぱりいい。好き。

どこが好きかというと、全体的に淋しい感じなのがいい。
人物は肖像画を除いてほとんどの人がこちらを見ていない。どこか憂い淋しげで、それが静かな空気感を生み出している。




マルシャル・カイユボット夫人の肖像
第3回印象派展
印象派の時代であり、印象派の仲間といた(支援もしていた)せいか、カイユボットは印象派のくくりにされているけれど、色彩がまるで印象派とは違う。
寂しい色彩が多く、それが私は好きなのだ。
ユトリロに似ているものもある。自分の絵のタイプに似ているとも思う(もちろん月とスッポンくらいの差はあるけれど、大きく分類するとという意味で)。


どの作品も良かったのだけど、特に印象に残ったものをいくつか挙げておこうと思う。


肖像画の中ではこの『マルシャル・カイユボット夫人の肖像』がいい。
肌の滑らかな描写に立ちすくんでしまった。
セーヌ川に係留されたボート
年配の女性の皮膚の皮っぽい感じの表現も素晴しいが、よぼよぼにせず女性として美しく描かれていることも素敵だと思った。
喪服の黒、肌の白、椅子とカーテンの赤、バランスが良くて落ちつく。






『セーヌ川に係留されたボート』は、印象派らしい作品。
風景の中の音が聞こえてきそうだ。

空が水面に映って同じ色をしていて、その色が私の好きな感じである。


カイユボットの絵は印象派を通り越して現代に近いと思う。
シルクハットの漕手
その理由は構図にある。
構図が現代のイラストレーションやデザインになっている。
今回の展覧会でそれに気付いた。

このボートの絵も前方から後方へ続くボートとマストの配置はよく考えられているし、デザイン性が高い。

カイユボットの作品はこのようにデザインされた絵がほとんどである。 一見普通の印象派の絵に見えるものでも、構図が新しいと思う。



ペリソワール
第4回印象派展
『シルクハットの漕手』という作品も、斬新だなぁと唸ってしまう。
ご存知の通り、カイユボットの弟マルシャルは写真家であり、そのせいかカイユボット自身斬新な構図に挑んでいる。
当時こういう大胆な構図はなかったのではないかと思う。


同じボートでもうひとつ。
こちらの『ペリソワール』は、ハッとする色の鮮やかさに見入ってしまった。

鮮やかな黄色のオールと帽子、緑の水面というシンプルな色みが、素晴しいと思う。
ある意味こちらも色のデザイン。色彩での構成。

たとえばモンドリアンのような抽象画に通ずるものがある。


それから、他の作品でも思ったのだが、カイユボットは前面の人をぼかしているのに背景はしっかり描く。それが不思議な感覚をもたらしている。
目で見た印象、ということなのだろう。見たいものに焦点を当てる。カメラと同じである。



サン=クレールからエトルタへの道を行く
マグロワール親父
『サン=クレールからエトルタへの道を行くマグロワール親父』は、一見正統派のように見えるし印象派らしくも見える。
しかし私はやっぱり構図に凝っているよなぁ、いいなぁと思ってしまう。
私の好きな作品ランキング上位に入る作品。

白い道、白い家、アッシュグレーとアッシュパープルの木陰、木陰と似た色の空、両脇の緑、緑と一体化したようなエメラルドグリーンの海、そしてブルーの作業着の親父。
全体のバランスの作り方が巧い。

作品の左にカラーで割ったものを載せてみた。単純化された色彩による構図というのが分かりやすくなり、デザインとしても優れていることが分かると思う。
キンレンカ


そして最後に載せる作品は、『キンレンカ』
これはもう本当にデザイン性が高い。
こういう感じのもののは自分でもよく描く。これも大好き。ピンクの色も好き。



最後に補足として、今回の展覧会の代表作となっている『ヨーロッパ橋』(図録表紙の絵)の歩いている男女をカップルと思っている人が多いようです(会場でそう話している人にも出会った)が、あれは見知らぬ男女で、後ろから来た男性が歩いている女性をナンパしている姿です。

2013/12/17

ターナー展 @上野・東京都美術館

ターナー展図録

若い頃はターナーに興味がなかった。
20代前半、ロンドンのテートギャラリーでたくさん見たはずだけど、その時の印象は「地味な風景画の人」というくらいのものだったと思う。
海を描いたものはいいなと思ったが、特に好きというのにはならなかった。

年々好きな絵が増える。印象派もそうだ。若い頃は大嫌いだった。
長閑な風景に明るい色彩、白い肌に赤みを刺した頬、そういうのは反吐が出るくらい苦手だった。
それが今では印象派を美しいと思うのだから不思議だ。

絵を描く側から言うと、絵には人生が出ると思う。
そしてそれを受け止める側の人生によっても見え方は異なるものだと思う。

10代の頃の私は自然の美というものに目を向ける余裕が全くなかった。10代というのは大体そういうものだと思う。
それは決して悪いことではない。若い頃は若い頃の大人になったら失ってしまう色々なものを持っている。
10代の頃のあの感性を懐かしく、さらには取り戻したいと思うこともある。
しかし時間は過ぎ私の人生には様々なことが起こり、社会や人間に対する尖った感情よりも自然の美しさから得る感情や本質的な愛というものの方が私の心を占めるようになってしまった。まぁそれはそれで成長した証でもあり、悪くないとも思う。


最近になってターナーの絵に美しさを感じるようになっていたので、若かりし日にロンドンで見過ごしたターナーの大回顧展に行きたいと思った。

『レグルス』
※掲載写真は図録のものです。
私が見た印象に近づけるために色補正しています。

 私が最も見たかったのは、『レグルス』と『戦争、流刑者とカサ貝』『平和 ─ 水葬』である。
実際に見て、両方ともとても素晴しかった。色使いの素晴しさと色の美しさに感動した。

『レグルス』は構図もいい。
左手前面の船のシルエットが効いている。
ターナーはピクチャレスクに倣っていたせいか、物語性のある構図が巧いように思う。

レグルスの物語、瞼を切り取られ暗闇から外に連れ出されたレグルスが失明する最後に見た光景という物語がまさにこの画面にある。


残念ながらこの図録はかなり色が悪い。全体的に浅く、深みがない。これではターナーの良さが伝わらない。いや、会場が暗いせいで私の見たものの方が嘘なのかもしれない。

私は会場で作品を見ながらメモを取る。見た時の印象や色彩の配置など色々を書き留める。
帰宅してこれを書くためにそのメモを見ながら図録を見返してみたのだが、図録を見ると何故メモではそんなに感動しているのだろうと思ってしまう。
だから図録で『レグルス』を見てもちっとも感動しないし、却って本物の感動が薄れてしまうようで実に残念に思う。

今、ふと思い出したのだが、プラド美術館でも『レグルス』のような作品を見たような気がする。その前で立ち止まった記憶がある。誰の作品だったのかはさっぱり分からないし、気のせいかもしれない。しかしつまり私はそういう劇的な光と海を描いた作品というのが好きなのだと思う。


ターナーは印象派に先駆けた人と言われるが、ターナーの強烈な光は印象派とはまるで違うことを今回まざまざと感じた。
私の勝手な印象として、ターナーの光には悲しみがある。
印象派の光は自然そのものなのに対し、ターナーの光は自然のものでありながら人の人生を感じる。


私はやはり、ターナーの海がいい。
山の景色のターナーより私は断然海や水面の景色のターナーの方が好きだ。
海の、波の描き方はターナーが一番優れているように思う。
画面を削ったり筆痕を生かしたり、もちろん色彩においてもターナーの海はやっぱりすごいと思う。

スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船


『スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船』という大きな作品では、船の緻密な細い線とダイナミックな波の絵の具の動きの対比による美しさと、穏やかな空と荒々しい海の対比による美しさを感じた。

海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画)
ターナーの描き出す、光にきらめく水面の美しさに私は何度もうっとりとした。

『海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画)』は、白い月明かりが細かな波の陰影によって冷たく煌めいてとても美しかった。


『戦争、流刑者とカサ貝』の赤とクロームイエローに反射する水面、『平和 ─ 水葬』のアッシュグレーの夜の水面に映る船の黒と炎のイエローが生み出す静けさ、どちらも心の痛くなるような悲しみを感じる美しさがある。
『戦争、流刑者とカサ貝』『平和―水葬』



2013/12/14

愛猫の死顔


今日愛猫コテツと最後のお別れをしてきた。


死顔は目を閉じているものだと勝手に思い込んでいたから、うっすらと目を開けている姿を見てびっくりした。
死亡推定時刻は両親が寝てから起きるまでの2時〜6時頃。
朝起きて触ってみたら冷たくなっていて、その時にはもう目蓋を閉じることができなかったらしい。

目を開けているからちっとも死んでいるようには見えなくて、ただ横になっているみたいで、
呼べば起きてくるように思えて、
冷たい体は温めれば温かくなるように感じてずっと手を当ててさすっていると温かくなってきたように思えて、
そんな状態で火葬場に連れて行くのが嫌だった。

だって2日経っているのにちっとも臭わないし、毛並みもつるつるで、本当に死んでいるようには思えなかった。

ほら、写真を見てください! 全然死んでいるようには見えないでしょ?!
こんな可愛らしい姿を火葬なんて、悲しくて辛いにきまってる。

もちろんこのまま家に置いておけないことは分かっていても、やっぱり火葬してしまうというのは辛い。

火葬場で重さを計ったら1.7kgで、(実際に抱くともっとずっと軽く感じるのだけど)40分もかからずにコテツは骨になってしまった。

骨は細くて小さくて、それがコテツだったと言われても全然ぴんと来なかった。
だから今でもちょっと実家に帰ればコテツがいるように思える。




2013/12/13

愛猫の死

実家で暮らしていた愛猫のコテツが12/12未明に死んだ。
もとよりあまり丈夫でなかったこともあって、ここ何年かは具合の悪いことの方が多かった。だから今回も案外と快方に向かうのではないかと期待していた。幾日かすればまたごはんを食べるようになるんじゃないかと甘い考えでいた。
ところが今回はついに水さえ飲めなくなってしまった。最後の最後にはトイレにも行けなかった。

私が最後にコテツに会ったのは12/8。
抱っこしたら発泡スチロールを抱いているみたいで驚愕した。
それは子猫の軽さとはまるで違って、死に向かっている軽さだった。軽さに音があるならば、カラカラという感じだった。
棒のような手足はすぐに折れそうで、コテツを胸に抱えながら涙が出そうになった。

母からコテツが亡くなったというメールをもらって、それからしばらくぼんやりした。
混乱していつもの世界がうまく廻らなくなって、私はぎこちなくなった。
コテツを思うとすぐに涙が出て、いくらでも泣けてしまう。

私は離れて暮らしていたけれど、それでも悲しい。大好きだったから悲しい。
こんなに悲しくて涙が出るとは思っていなかった。


明日、14日はお葬式。実家へ帰る。最後のお別れを言いに行く。