2013/12/26
随筆集『四季』串田孫一(文京書房・1979年)
四季というタイトル通り、春夏秋冬の順で綴られている四季が3つ。
春夏秋冬が3回。
私は変な気分になった。体の中を猛スピードで過ぎてゆく季節に気分が悪くなったのだ。
しかしそれだけ串田さんの文章が瑞々しいということなのだろう。
四季の姿があまりに鮮明に美しく書かれていて、数日で春夏秋冬を3回も巡って混乱したのだ。
* * *
今こうして書き忘れていた読書感想を書こうとして、私は内容をまったく覚えていないことに驚く。
串田さんの知人友人が出て来たし、山登りのこともあったし、串田さんの日々があり心があったことは覚えているが、どんなエピソードだったかはまるで思い出せない。
読み終えてしまうとそれは串田さんの一日でなく私の日々の一日でもあるような気さえして来る。
日本の四季、それは串田さんにも私にも同じように訪れる。
串田さんの『四季』を読んで、改めて四季の美しさと日々の素晴しさを感じた。
2013/12/25
『飛魂』多和田葉子(講談社)
多和田葉子さん、やっぱりいい。以前に読んだ『雪の練習生』も良かったけど、それとは全くテイストが違って、さらに良かった。
でもやっぱり装丁が勿体無いなぁと思う。作品はすごくいいのに、本の見た目ではその良さが想像できない。
さて、どんな内容なのかというと説明するのが難しい。
言葉と虎、という冒頭のキーワードで中島敦の『山月記』を思い出したが、しかしまるで違った。
人里離れた場所にある書を学ぶための学舎でたくさんの女たちと暮らす梨水という女性の話。
その学舎は亀鏡というカリスマ的な女性によって存在している。
その学舎は亀鏡というカリスマ的な女性によって存在している。
ここでは言葉から虎や鯉が出現し、女たちは言葉を操る。
梨水から発せられる声には不思議な力があり、彼女は思考がいつも十転する「飛魂」の心の持ち主でもある。
梨水、亀鏡、煙花、紅石、指姫、朝鈴、どう読んでいいのか分からない彼女たちの名前。
意味にとらわれないで受け止める言葉というものの力。
読みながら本の中の世界にふわふわと漂っているような心地になった。頭で物語を読むのではなく、ただ感じる。だから読んでいるという感じがしなかった。かといって映像的というのでもない。
理屈がなく言葉や文章が体の中を通り抜けていく感じ。
こういう本はなかなか無い。気持ちの良い本だった。
2013/12/18
カイユボット展 @京橋・ブリヂストン美術館
カイユボット展図録 |
パリのオルセーで見たのではなかったような気もするが、どこかでカイユボットの「床を削る人々」を見て、それがとても気に入って、カイユボットが好きになった。
だから他の作品も見たいと思っていた。
まとめてこれだけ見れたら大満足である。やっぱりいい。好き。
どこが好きかというと、全体的に淋しい感じなのがいい。
人物は肖像画を除いてほとんどの人がこちらを見ていない。どこか憂い淋しげで、それが静かな空気感を生み出している。
マルシャル・カイユボット夫人の肖像
第3回印象派展
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印象派の時代であり、印象派の仲間といた(支援もしていた)せいか、カイユボットは印象派のくくりにされているけれど、色彩がまるで印象派とは違う。
寂しい色彩が多く、それが私は好きなのだ。
ユトリロに似ているものもある。自分の絵のタイプに似ているとも思う(もちろん月とスッポンくらいの差はあるけれど、大きく分類するとという意味で)。
どの作品も良かったのだけど、特に印象に残ったものをいくつか挙げておこうと思う。
肖像画の中ではこの『マルシャル・カイユボット夫人の肖像』がいい。
肌の滑らかな描写に立ちすくんでしまった。
セーヌ川に係留されたボート |
年配の女性の皮膚の皮っぽい感じの表現も素晴しいが、よぼよぼにせず女性として美しく描かれていることも素敵だと思った。
喪服の黒、肌の白、椅子とカーテンの赤、バランスが良くて落ちつく。
『セーヌ川に係留されたボート』は、印象派らしい作品。
風景の中の音が聞こえてきそうだ。
空が水面に映って同じ色をしていて、その色が私の好きな感じである。
カイユボットの絵は印象派を通り越して現代に近いと思う。
シルクハットの漕手 |
その理由は構図にある。
構図が現代のイラストレーションやデザインになっている。
今回の展覧会でそれに気付いた。
このボートの絵も前方から後方へ続くボートとマストの配置はよく考えられているし、デザイン性が高い。
カイユボットの作品はこのようにデザインされた絵がほとんどである。 一見普通の印象派の絵に見えるものでも、構図が新しいと思う。 |
ペリソワール
第4回印象派展
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ご存知の通り、カイユボットの弟マルシャルは写真家であり、そのせいかカイユボット自身斬新な構図に挑んでいる。
当時こういう大胆な構図はなかったのではないかと思う。
同じボートでもうひとつ。
こちらの『ペリソワール』は、ハッとする色の鮮やかさに見入ってしまった。
ある意味こちらも色のデザイン。色彩での構成。
たとえばモンドリアンのような抽象画に通ずるものがある。
それから、他の作品でも思ったのだが、カイユボットは前面の人をぼかしているのに背景はしっかり描く。それが不思議な感覚をもたらしている。
目で見た印象、ということなのだろう。見たいものに焦点を当てる。カメラと同じである。
サン=クレールからエトルタへの道を行く
マグロワール親父
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しかし私はやっぱり構図に凝っているよなぁ、いいなぁと思ってしまう。
私の好きな作品ランキング上位に入る作品。
白い道、白い家、アッシュグレーとアッシュパープルの木陰、木陰と似た色の空、両脇の緑、緑と一体化したようなエメラルドグリーンの海、そしてブルーの作業着の親父。
全体のバランスの作り方が巧い。
作品の左にカラーで割ったものを載せてみた。単純化された色彩による構図というのが分かりやすくなり、デザインとしても優れていることが分かると思う。
キンレンカ |
そして最後に載せる作品は、『キンレンカ』
これはもう本当にデザイン性が高い。
こういう感じのもののは自分でもよく描く。これも大好き。ピンクの色も好き。
最後に補足として、今回の展覧会の代表作となっている『ヨーロッパ橋』(図録表紙の絵)の歩いている男女をカップルと思っている人が多いようです(会場でそう話している人にも出会った)が、あれは見知らぬ男女で、後ろから来た男性が歩いている女性をナンパしている姿です。
2013/12/17
ターナー展 @上野・東京都美術館
ターナー展図録 |
若い頃はターナーに興味がなかった。
20代前半、ロンドンのテートギャラリーでたくさん見たはずだけど、その時の印象は「地味な風景画の人」というくらいのものだったと思う。
海を描いたものはいいなと思ったが、特に好きというのにはならなかった。
年々好きな絵が増える。印象派もそうだ。若い頃は大嫌いだった。
長閑な風景に明るい色彩、白い肌に赤みを刺した頬、そういうのは反吐が出るくらい苦手だった。
それが今では印象派を美しいと思うのだから不思議だ。
絵を描く側から言うと、絵には人生が出ると思う。
そしてそれを受け止める側の人生によっても見え方は異なるものだと思う。
10代の頃の私は自然の美というものに目を向ける余裕が全くなかった。10代というのは大体そういうものだと思う。
それは決して悪いことではない。若い頃は若い頃の大人になったら失ってしまう色々なものを持っている。
10代の頃のあの感性を懐かしく、さらには取り戻したいと思うこともある。
しかし時間は過ぎ私の人生には様々なことが起こり、社会や人間に対する尖った感情よりも自然の美しさから得る感情や本質的な愛というものの方が私の心を占めるようになってしまった。まぁそれはそれで成長した証でもあり、悪くないとも思う。
『レグルス』
※掲載写真は図録のものです。
私が見た印象に近づけるために色補正しています。
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私が最も見たかったのは、『レグルス』と『戦争、流刑者とカサ貝』『平和 ─ 水葬』である。
実際に見て、両方ともとても素晴しかった。色使いの素晴しさと色の美しさに感動した。
『レグルス』は構図もいい。
左手前面の船のシルエットが効いている。
ターナーはピクチャレスクに倣っていたせいか、物語性のある構図が巧いように思う。
残念ながらこの図録はかなり色が悪い。全体的に浅く、深みがない。これではターナーの良さが伝わらない。いや、会場が暗いせいで私の見たものの方が嘘なのかもしれない。
私は会場で作品を見ながらメモを取る。見た時の印象や色彩の配置など色々を書き留める。
帰宅してこれを書くためにそのメモを見ながら図録を見返してみたのだが、図録を見ると何故メモではそんなに感動しているのだろうと思ってしまう。
だから図録で『レグルス』を見てもちっとも感動しないし、却って本物の感動が薄れてしまうようで実に残念に思う。
今、ふと思い出したのだが、プラド美術館でも『レグルス』のような作品を見たような気がする。その前で立ち止まった記憶がある。誰の作品だったのかはさっぱり分からないし、気のせいかもしれない。しかしつまり私はそういう劇的な光と海を描いた作品というのが好きなのだと思う。
ターナーは印象派に先駆けた人と言われるが、ターナーの強烈な光は印象派とはまるで違うことを今回まざまざと感じた。
私の勝手な印象として、ターナーの光には悲しみがある。
印象派の光は自然そのものなのに対し、ターナーの光は自然のものでありながら人の人生を感じる。
私はやはり、ターナーの海がいい。
山の景色のターナーより私は断然海や水面の景色のターナーの方が好きだ。
海の、波の描き方はターナーが一番優れているように思う。
画面を削ったり筆痕を生かしたり、もちろん色彩においてもターナーの海はやっぱりすごいと思う。
スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船 |
『スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船』という大きな作品では、船の緻密な細い線とダイナミックな波の絵の具の動きの対比による美しさと、穏やかな空と荒々しい海の対比による美しさを感じた。
海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画) |
ターナーの描き出す、光にきらめく水面の美しさに私は何度もうっとりとした。
『海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画)』は、白い月明かりが細かな波の陰影によって冷たく煌めいてとても美しかった。
『戦争、流刑者とカサ貝』の赤とクロームイエローに反射する水面、『平和 ─ 水葬』のアッシュグレーの夜の水面に映る船の黒と炎のイエローが生み出す静けさ、どちらも心の痛くなるような悲しみを感じる美しさがある。
『戦争、流刑者とカサ貝』『平和―水葬』 |
2013/12/14
愛猫の死顔
今日愛猫コテツと最後のお別れをしてきた。
死顔は目を閉じているものだと勝手に思い込んでいたから、うっすらと目を開けている姿を見てびっくりした。
死亡推定時刻は両親が寝てから起きるまでの2時〜6時頃。
朝起きて触ってみたら冷たくなっていて、その時にはもう目蓋を閉じることができなかったらしい。
目を開けているからちっとも死んでいるようには見えなくて、ただ横になっているみたいで、
呼べば起きてくるように思えて、
冷たい体は温めれば温かくなるように感じてずっと手を当ててさすっていると温かくなってきたように思えて、
そんな状態で火葬場に連れて行くのが嫌だった。
だって2日経っているのにちっとも臭わないし、毛並みもつるつるで、本当に死んでいるようには思えなかった。
ほら、写真を見てください! 全然死んでいるようには見えないでしょ?!
こんな可愛らしい姿を火葬なんて、悲しくて辛いにきまってる。
もちろんこのまま家に置いておけないことは分かっていても、やっぱり火葬してしまうというのは辛い。
火葬場で重さを計ったら1.7kgで、(実際に抱くともっとずっと軽く感じるのだけど)40分もかからずにコテツは骨になってしまった。
骨は細くて小さくて、それがコテツだったと言われても全然ぴんと来なかった。
だから今でもちょっと実家に帰ればコテツがいるように思える。
2013/12/13
愛猫の死
実家で暮らしていた愛猫のコテツが12/12未明に死んだ。
もとよりあまり丈夫でなかったこともあって、ここ何年かは具合の悪いことの方が多かった。だから今回も案外と快方に向かうのではないかと期待していた。幾日かすればまたごはんを食べるようになるんじゃないかと甘い考えでいた。
ところが今回はついに水さえ飲めなくなってしまった。最後の最後にはトイレにも行けなかった。
私が最後にコテツに会ったのは12/8。
抱っこしたら発泡スチロールを抱いているみたいで驚愕した。
それは子猫の軽さとはまるで違って、死に向かっている軽さだった。軽さに音があるならば、カラカラという感じだった。
棒のような手足はすぐに折れそうで、コテツを胸に抱えながら涙が出そうになった。
母からコテツが亡くなったというメールをもらって、それからしばらくぼんやりした。
混乱していつもの世界がうまく廻らなくなって、私はぎこちなくなった。
コテツを思うとすぐに涙が出て、いくらでも泣けてしまう。
私は離れて暮らしていたけれど、それでも悲しい。大好きだったから悲しい。
こんなに悲しくて涙が出るとは思っていなかった。
明日、14日はお葬式。実家へ帰る。最後のお別れを言いに行く。
もとよりあまり丈夫でなかったこともあって、ここ何年かは具合の悪いことの方が多かった。だから今回も案外と快方に向かうのではないかと期待していた。幾日かすればまたごはんを食べるようになるんじゃないかと甘い考えでいた。
ところが今回はついに水さえ飲めなくなってしまった。最後の最後にはトイレにも行けなかった。
私が最後にコテツに会ったのは12/8。
抱っこしたら発泡スチロールを抱いているみたいで驚愕した。
それは子猫の軽さとはまるで違って、死に向かっている軽さだった。軽さに音があるならば、カラカラという感じだった。
棒のような手足はすぐに折れそうで、コテツを胸に抱えながら涙が出そうになった。
母からコテツが亡くなったというメールをもらって、それからしばらくぼんやりした。
混乱していつもの世界がうまく廻らなくなって、私はぎこちなくなった。
コテツを思うとすぐに涙が出て、いくらでも泣けてしまう。
私は離れて暮らしていたけれど、それでも悲しい。大好きだったから悲しい。
こんなに悲しくて涙が出るとは思っていなかった。
明日、14日はお葬式。実家へ帰る。最後のお別れを言いに行く。
2013/11/25
In CUBA - Maori 6th Exhibition -
古くも生き続ける町並に
絶えず鳴り響くラテンのリズム。
文化や言葉を越え 感じた
知らないはずの 懐かしさと温かさ。
そんな
どこか やわらかな風が吹く場所 キューバ。
今年も撮り下ろし写真とアクセサリーでの展示を開催致し
「 In CUBA - Maori 6th Exhibition - 」
Maoriの目に映ったキューバ、
ぜひ見にいらしてください。
Maori
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
【 In CUBA - MAORI 6th EXHIBITION - 】
Date:
2013. 12 / 6 (Fri) - 12 / 10 (Tue.) - 5 days -
Time:
13:00 - 20:00 ( 最終日12/10(火)は19:00まで )
Place:
さくらギャラリー
〒153-0061
東京都目黒区中目黒1-8-12 さくらハウスB1F
03 - 5725 - 1088
www.sakura-gallery.com
@Sakura Gallery
Sakura House B1F
1-8-12 Nakameguro, Meguro, Tokyo
Zip153-0061
Phone: 03-5725-1088
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2013/11/22
第7回 studio issai 書道展
伯母が通っている書道教室の展示会。
どこかでふらーっと行こう。
2013年 12月 14日(土)〜 18日(水)
10:00 〜 18:30(最終日は15:00まで)
O美術館
141-0032 品川区大崎1-6-2 大崎ニューシティ・2号館2F
JR線・りんかい線大崎駅(北改札口・東口)下車徒歩1分
2013/11/13
2013/10/22
『こころ』夏目漱石(iBooks)
夏目漱石もほとんど読んでいなかったから無料のiBooksで読むことにする。
そういう話だったのか、夏目漱石ってやっぱり読みやすいしおもしろいな、と思った。
若い頃の私は夏目漱石は健全な感じがして敬遠して、ちょっと暗い感じの太宰や三島の方に傾倒していた。
夏目漱石はあたたかな太陽のような、日だまりの若草の匂いのするような作品というイメージをもっていた。私は太陽よりは月を、若草よりは枯葉を好いていたからこれまでずっと読む機会がなかった。
今回読んでみて思っていたのとはちょっと違った。
まず文章表現がいいなと思った。穏やかできれいだと思った。
それに、若草の匂いはあるもののそこには漆黒の空に浮かぶ月のようにひっそりとした冷たい輝きもあった。
人のこころの深いところをじとっとした暗さを持たせずに描いているところが本当に素晴しいと思った。
親族や友人や異性という他の人と関わるということで生まれる苦しみや煩悶、他人と関わることで己が見え、その自分自身を見詰めて生きてゆくこと、そういうことをどんよりとした印象で描かない夏目漱石というのは天才だと思う。
作品の構成も今読んでも秀逸だし、内容も今読んでも共感できる。若年から中年まで読める作品だと思う。
「先生」という登場人物の名前の付け方にもセンスを感じる。
終り方も、もっと読みたいという、どうなるんだろうとまだ先を期待する読者を裏切るように終るところにもセンスを感じる。
色々なところで本当にうまいなぁと思った。
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。(p57より)
私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。(p151より)
2013/10/20
『随筆集 光と翳の領域』串田孫一(講談社文庫 1973)
この本を私はとても気に入っている。
再読もしたし、植物のリストも作ってその姿を写真でチェックもした。他にも色々たくさん書き出したし、付箋も貼った。それでもまだこの本に対して納得がいっていなくて読書感想として日記にあげていなかった。
3回目を読んでもっときちんとした感想をまとめてから日記を書こうと思っていたのだが、とりあえず一度読んだ本ということで載せることにした。
串田さんの本をいくらも読んでいない私だけれども、私はこの本がいちばん好きだし、いい、と思った。
また読みたい(読まなくてはいけない)とも思っている。
何がそんなにいいのかというのをざっくり大きくひと言で言うと、この『光と翳の領域』に収められた文章は美しい。自然の姿をまさにその通りだと思う表現で言い表わしているし、串田さん的な哲学的なニュアンスも混ざり合って本当に素晴しくて美しい文章になっている。
言葉も文章も生き物みたいに本から浮き出して、色や自然になって消えてゆく感じなのだ。
こういう風にものを見れたらいいなぁ、こういう絵が描けたらいいなぁ、と憧れる。
ただ、集中して読まないと、文章が美しいがために何も入って来ずにするすると流れてしまう。一度目に読んだ時は何度となく「いかん、集中しなくては」と思ったり、何度となくページを戻ったりした。
難しいといえば難しい文章でもある。私は、多分きっと、串田さんの真意は読み取れていないだろうなとも思う。
じっくりと心で噛み締めるように読みたい1冊。
3回目を読んでもっときちんとした感想をまとめてから日記を書こうと思っていたのだが、とりあえず一度読んだ本ということで載せることにした。
串田さんの本をいくらも読んでいない私だけれども、私はこの本がいちばん好きだし、いい、と思った。
また読みたい(読まなくてはいけない)とも思っている。
何がそんなにいいのかというのをざっくり大きくひと言で言うと、この『光と翳の領域』に収められた文章は美しい。自然の姿をまさにその通りだと思う表現で言い表わしているし、串田さん的な哲学的なニュアンスも混ざり合って本当に素晴しくて美しい文章になっている。
言葉も文章も生き物みたいに本から浮き出して、色や自然になって消えてゆく感じなのだ。
こういう風にものを見れたらいいなぁ、こういう絵が描けたらいいなぁ、と憧れる。
ただ、集中して読まないと、文章が美しいがために何も入って来ずにするすると流れてしまう。一度目に読んだ時は何度となく「いかん、集中しなくては」と思ったり、何度となくページを戻ったりした。
難しいといえば難しい文章でもある。私は、多分きっと、串田さんの真意は読み取れていないだろうなとも思う。
じっくりと心で噛み締めるように読みたい1冊。
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ノートに書き写していた、とても共感したいくつかの文章を載せておく。
ノートに書き写していた、とても共感したいくつかの文章を載せておく。
風景を色彩によって描くのなら、それによって共感を起こすような色をまぜてはならない。赤がAを感じさせるのは赤が単純でないからだ。(「牧歌」より)
一切の動物と、殆どすべての植物とが仮死の冬眠についているこの森は、そういう深い眠りの世界を胎内に孕んで、人間の知らない厳しさを見せ、雪の古びた匂いを交えた、ただ深海のような圧力を持った匂いを嗅がせ、更にその静寂のうちにも亦た古風な階音を聴かせた。四季を通じて、雪の森は、その巨体を一番あからさまに見せつけ、太い骨と強靭な筋肉だけになって踞っていた。(「森の絵」より)
最初は一番展望のきく河原へ画架を立ててみたが、森と向かい合っていた時のような落ちつきもなかなか得られなかった。どんなに工夫をしてみても、賑やかな風物の微動と、絶え間のない川音の中では、腰を下ろしていることさえむずかしかった。(中略)最初のころは、それがひどく気まずいようで、さっさと小屋へ戻って、ただ訳もなくぐったりと疲れた体をやすませていた。(中略)川が異様な刺戟を与えたことも事実だった。(「川」より)
二三羽の小鳥が枝から枝へと、何かの続け文字でも書いて行くように渡って行った。そして最後には、いつでも決まって、悦びとも悲しみともつかない啼声を残して飛び立って行く。小鳥はいつも同じように歌っているものなら、きっと私の方に、悦びとも悲しみともつかない気持ちがあったのだろう。(「黒い牝牛」より)
寒気は、何回かの予告のあとの、鋭利な刃物のように天上から斜めに下った。雪は谷を埋めはじめた。そして豊かさを誇り、白さを誇るように、小さな凹地を埋め、そこここになめらかな斜面を作り、巧みに襀(ひだ)を描いた。滝は、孤独な死のように静かに凍結し、光と水のもつれたそこも、そそぎ込む雪にさからう努力もなく、結氷した。流れる姿は消え去った。その時になって、この谷を訪れる光が、太陽の忠実な使者であり、たくらみのない素朴な想いに似たものであることが分かった。(中略)雪の下に滝は凍って、冬の間、青味を帯びた別の静かなおののきがあるのかも知れない。眠りにも死にも似てはいるが、絶えず水をうけ、氷に蔽われている岩の内部の犇めくような力の意味を知らないものにとっては、それは語られない神話である。(「光と水の戯れ」より)
ところで、寂しさが誘い出されるというのは、この単調な風景の一体何のせいなのだろう。晴れ渡って、空に一つの雲もないせいなのか、それとも、あまり遠くひろがる海と空との接触が、信じられないほど穏やかであったからなのか。いずれにしても、この寂しさが、私の感情にからまったものでないことだけは、まず間違いないとしたら、それを振り棄てることは出来ないし、と言って、その奇妙な寂しさに気が付いてしまった以上は、今度はそれが恐怖を誘い出すかも知れないと思われて来るのだった。(「波」より)
訴えることがなければ、他人からあれこれと指摘される筈もないその息苦しさは、生涯のある時期にはやや激しくなって、そのあとは徐々に薄れていくものかとも思っていたが、彷徨する魂がいつまでも行く先を見定めることが出来なければ、消えて行くどころか、長い歩みのために却って重く苦しく、時には、そこから逸脱してしまう卑怯な手段を夢見るようにさえなるのが分かっていた。(「晩夏の丘」より)
2013/10/17
『カラマゾフの兄弟』フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(中山省三郎 訳/iBooks)
電子書籍で読んだ。
iPadは灯り要らずだから就寝時に読むのにいい。
有名なのに読んでいない(もしくは読んだかどうか忘れた)作品で、無料だったり安かったりするものを電子書籍で読んでいこうと思っている。
物語とは関係ないことだけれど、ある文字(「扉」や「拳」他いくつか)が特大になっているのは電子書籍だからなのだろうか?
とくにその文字を大きくする必要はないと思う場面でもその文字が大きくなっているので、作者の意図とは思えない。それに珍しい字というわけでもない。
どうしてなのだろう、と、ちょっと気になった。
さて、読んだ感想は、日本語訳に違和感があった、というのがいちばんの感想。
若者が「〜かえ?」なんて言わないよ、とか、意味合いの違和感だったり、なんか言葉使いがいちいち引っ掛かって読みにくかった。誤字も割と多かったし。
ながーーい台詞のなかの支離滅裂感も読みにくくさせる。
もちろんそのながーーい台詞の中には非常におもしろいものもあるのだが、読む気がなくなるものもある。
私はゾシマ長老の話や、次男イワンの宗教論が良かった。作者が言いたい本質がわかりやすく提示されている。
父親フョードルと長男ドミトリイの台詞は読みにくかった。
おもしろかったという部分が2/3、入って来ない部分が1/3、という感じだった。
共感した部分を抜粋引用。
首をふらふらと左右に振るようなあんばいに掌へ片頬を載せたまま、歌でもうたうように女は言った。その口調がまるで愚痴をこぼしているようであった。民衆のあいだには無言の、どこまでもしんぼう強い悲しみがある。それは自己の内部に潜んで、じっと黙っている悲しみである。しかし、また張ち切れてしまった悲しみがある。それはいったん涙と共に流れ出すと、その瞬間から愚痴っぽくなるものである。それはまことに女に多い。(p137-138)
「(前略)その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もうどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風邪を引いていて、ひっきりなしに鼻汁(はな)をかむからといって憎らしがる。つまりわたしは、他人がちょっとでも自分に触れると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり、個々の人間に対する憎悪が深くなるに従って、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる』と、こういう話なのじゃ」(p168-169 ゾシマ長老の話より)
自由とパンとはいかなる人間にとっても、両立しがたいことを、彼らはみずから悟るだろう。(p831 イワンがアリョーシャへ語る物語より)
もう十五世紀も過ぎたのだから、よく人間を観察するがよい。あんなやつらをおまえは自分と同じ高さまで引き上げたのだ。わしは誓って言うが、人間はおまえの考えたより、はるかに弱くて卑劣なものなのだ!いったいおまえのしたことと同じことが人間にできると思うのか?あんなに人間を尊敬したためにかえっておまえの行為は彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。それはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したからである。これが人間を自分の身より以上に、愛した、おまえのなすべきことといえるだろうか?もしおまえがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。(p839-840 イワンがアリョーシャへ語る物語、老審問官がキリストへ語る場面より: この、イワンの語る部分が、いちばんおもしろかったという印象)
2013/10/14
Romeo & Juliet
2013/10/11
『ホテルローヤル』桜木紫乃(集英社)
『氷平線』が良かったので、直木賞をとった『ホテルローヤル』を読んでみた。
眠るために読み始めたのだが、結局眠りにつく前に読み終えてしまった。
おもしろかったけど私は『氷平線』の方が好きだ。
題名の通り『氷平線』の方は氷のように冷たく、『ホテルローヤル』はラブホテルらしく生きている熱がある。
熱があるとはいえ『氷平線』を書く桜木さんらしく、「負」や「腐」と呼ばれるような冷ややかなものも織り込まれている。
ホテルローヤルをめぐる7つの短篇。
廃墟となったホテルローヤルから開業前のホテルローヤルへと遡ってゆく作りはおもしろい。
それぞれの話が最後の話につながっていたり、所々でそれぞれの人間の生が重なるようにしているのもいい。
そしてどの話もよくできていてどれもおもしろい。
<輝く未来を夢見る男、これから建てるホテルローヤル、出産祈願にみかんを与える>という最終話と、<挫折という言葉ばかりを発する男、廃墟となったホテルローヤル、ヌードを撮るために食を絶たせる>という最初の話、というように尾頭を対極させるという形が非常に効いている。
廃墟から竣工前というとどんどんと明るくなっていくように思われるが、私は却ってそれが虚しさを際立たせているように感じた。
未来を夢見ている男が哀れに思え、明るい将来を期待する姿が滑稽にさえ思える。
人間の一生などというものは所詮そんなものだと思い出させる。
それでも人は一生懸命自分の人生を生き、夢を見る。
いつかは朽ち果ててしまうということ、人は老いてゆくということ、そしてかならず死ぬということ、そういうことが露にされているように感じた。
そして、物が朽ち人は死んでも時間は流れ続けていくということも。
『平家物語』の冒頭や『方丈記』の冒頭を思い出す。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
この本のことを後々考えているとどうしても古の日本の侘び寂びや無常観を思ってしまう。
生まれること、生きること(生活と労働)、男と女のこと、家族、親子、そして死。
全てのことがこの1冊に詰め込まれている。
本当によく出来た本だと思う。
2013/10/09
2013/10/08
2013/10/03
姪のちーちゃんは生後6ヶ月になりました
寝返りもうつし、離乳食も始める頃だし、動きが大きくなってきました。
直にハイハイをするようになったり歯が生えて来たりしそうな感じがします。事実私の指をはみはみすると歯茎の奥に歯があるのが分かり、かゆいのかも知れないなと思ったりしました。
妹の小さい時によく似ている、と思います。
2013/09/25
『蒼白き巣窟』室生犀星(青空文庫)
青空文庫からダウンロードをして、ipadminiで読んだ。
電子書籍では『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるが、普段本で読むような作家の作品を電子書籍で読むと違和感があった。
旧字旧仮名遣いの小説は、やっぱり紙の本がいい。
紙に印刷された文字は味わい深いのに、電子書籍になると味気なくなる。
室生犀星みたいな作家の作品は断然本の方がいい。
有名なベストセラー小説で旧仮名じゃないものとか、海外ものとか、実用書的なものは電子書籍でもいいように思う。
使い分けが必要だと実感した。
こうなってくると、本というのはただ文字を読むのではないと分かる。「本」というひとつの作品なんだと改めて思う。
もちろん小説自体はさすが室生犀星だった。淡々としているのに奥深い。
だらだらと毎日を過ごしている書生は蒼白き巣窟(=浅草十二階下の私娼窟)へ通う。そこで働く娼婦と、公園で客をとろうと声をかけてきた素人女と、2人の女を通して自らの生活を考え読者に生きるための生活を考えさせる話。
娼婦おすゑの人柄が気に入った。これまで読んだ室生犀星にこういう人はいただろうか。
明るく前向きで裏表無く素直で私は好きだ。
電子書籍では『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるが、普段本で読むような作家の作品を電子書籍で読むと違和感があった。
旧字旧仮名遣いの小説は、やっぱり紙の本がいい。
紙に印刷された文字は味わい深いのに、電子書籍になると味気なくなる。
室生犀星みたいな作家の作品は断然本の方がいい。
有名なベストセラー小説で旧仮名じゃないものとか、海外ものとか、実用書的なものは電子書籍でもいいように思う。
使い分けが必要だと実感した。
こうなってくると、本というのはただ文字を読むのではないと分かる。「本」というひとつの作品なんだと改めて思う。
もちろん小説自体はさすが室生犀星だった。淡々としているのに奥深い。
だらだらと毎日を過ごしている書生は蒼白き巣窟(=浅草十二階下の私娼窟)へ通う。そこで働く娼婦と、公園で客をとろうと声をかけてきた素人女と、2人の女を通して自らの生活を考え読者に生きるための生活を考えさせる話。
娼婦おすゑの人柄が気に入った。これまで読んだ室生犀星にこういう人はいただろうか。
明るく前向きで裏表無く素直で私は好きだ。
2013/09/18
『假靣』高見順(⾭龍社 1947年)
ブクログに載せようと思ったのにこの本はなかった。Amazonにもなかったから珍しい本なのかもしれない。
假靣という字も簡単には出てこない。何せ表題が右読みなくらいだから仕方がない。
以前に新潮現代文学で高見順さんの『いやな感じ』と『死の淵より』を読み、とても良かったが、この『假靣』もすごく良かった。やめられなくてずんずん読んでしまった。
どこもかしこも引用に値する。
高見順さんの考え方は私にはとても共感することが多い。人間というもの、生きるということ、そういうなかなかに難しいテーマを読みやすく描き出している。
あとがきで高見さんはこう書いている。
一、終戦後の風俗を背景にしながら、背景はそつちのけで、終戦後の心の風俗に筆が強く傾いてをりますところのこの小説は、読み返してみますと、観念的な感じなのが反省されましたけれど、後からの補筆も、背景の塗り直し書き足しという方には、とんと動かないのでありました。私はかうした観念的な小説を書くことが、そしてこれからもかきつゞけることが、そしてそれを一度通ることが、この私にとつてはどうしても必要なのだと思はれます。
高見さんが自分で言うように、この小説は、背景の描写で読ませるという小説ではなく心の描写で読ませる小説である。そしてその心というのは戦後だろうが現代だろうが同じである。いまの若い子たちだってきっと共感すると思う。誰だって仮面をかぶる。
弱くて、矛盾していて、相反する感情を持ち、卑屈になったり、虚勢をはったりする。
自分を憎むこと、自分を庇い立てすること、仮面をかぶること、そういうことはいつの時代にもあることだ。
人間というのは66年くらいで変わるものではない。
ふたりの女性もいいアクセントになっている。自分しか愛せない女と、自分を愛せない女。
他の登場人物もみなそれぞれの役割を担って描かれている。
すべてにおいて本当に良く出来た、いい小説だと思う。
2013/09/16
『雪の練習生』多和田葉子(新潮社)
おもしろかった。
いしいしんじさんにちょっと近いように感じる。
シロクマが人間のように生活しているというと、かなりのファンタジーなはずなのに、絶妙なバランスで構成されていてファンタジー作品にしていない。ものすごく計算されて考えられて作られていると思う。
多和田葉子さん、読んだことなかったけどすごい作家さんだ。
シロクマ3代の話と言っても、3つの話の書き方(シロクマの在り方)はそれぞれ異なっている。
初代「わたし」は作家として、人間と同じように生活している書き方で、これだけがファンタジーっぽい。
しかし娘「トスカ」と孫「クヌート」はご存知の通り実在のシロクマで事実に沿った物語になっている。サーカスにいた「トスカ」の話は実際トスカとサーカスで一緒だった調教師の女性ウルズラが語る形をとる。『死の接吻』という芸も実際にふたりで行なっている。
「クヌート」の話はシロクマとしてクヌートの目線で描かれている。
クヌートの飼育員だったトーマスさんが2008年に急逝したことでこの話が浮かんだんだろうか?(初出は2010年10月〜12月の「新潮」)クヌートがトーマスさん(作中はマティアスさん)に最大の愛と感謝と尊敬を表している。
実際のトーマスさんとクヌートふたりのあの仲の良い姿を見ていれば、物語はリアルでありながらそうあって欲しいという願いの空想でもある。
トーマスさんがいなくなった淋しさでクヌートは死んでしまったんじゃないかと思えてくる。
そのことも新聞で知った。マティアスが心臓発作で死んだ。死んだと言うことの意味が初めはぴんと来なかったが、何度も読んでいるうちに、もう絶対に逢えないという岩の塊が脳天に落ちてきた。もちろん、もし生きていても、もう二度と逢えないのかもしれない。でもひょっとしたら逢えたかもしれない。ひょっとしたらと思いながら生きていくことを人間は希望と呼んでいる。その希望が死んだ。(「北極を想う日」p231より)
中のデザインの方が好き。
なんとなく私にはドイツっぽく感じるし、物語にも合う気がする。
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2013/09/14
大切な友人の結婚式
大好きな友人の結婚式に出席してきた。
私はウェルカムボードを作った。
大好きな彼女にウェルカムボードを作って欲しいと依頼をもらって、私が彼女を好きなように彼女も私を好きでいてくれていると勝手に思って嬉しくなって、彼女の心配りに応えるようなものを、私が彼女をどんなに大切に思っているか伝わるようなものを作ろうと思った。
何枚もやってようやく納得いくものが描けた。既存のウェルカムボードのイメージに引っ張られたり、やってみたいことがどんどん湧いてきたりで何枚も描くことになってしまったが、最終的にはよしと思えるものが出来てよかった。
本当の完成品となる花を飾り付けた状態のものを撮り忘れてしまった。花を飾るともっとウェルカムボードらしくなる。
彼女のまわりにはたくさんアーティストさんがいるので、私以外にもたくさんの友人がそれぞれの分野で結婚式に参加していた。
珈琲店の友人は引き出物に珈琲を、その奥様は画家さんなので珈琲の箱にひとつづつ版画を、料理人の友人は帰りに渡すお菓子を、カメラマンさん、フリーアナウンサーさんetc...。
アートで町おこし的な活動をしている彼女の引き出物は地域の色の出たもので、彼女の素晴しさが出ていると思う。
引き出物その1)岐阜県美濃加茂市にあるコクウ珈琲のコーヒー。 箱の内側の絵はコクウ珈琲の奥様オリジナル。シルクスクリーンでひとつひとつ手作り。 |
カラフルでかわいいクッキー |
引き出物その2)郡上マニアと名前のついたギフトセット。 石鹸2個+受け皿とてぬぐい。 |
引き出物その3)こちらも岐阜県のお店。3種類のかりんとう。 |
2013/09/09
『タタド』小池昌代(新潮社)
眠れなくて読み始めて、睡魔が来る間もなく数時間で読み終えてしまった。
淡々としたテンションの低めな感じは桜木紫乃さんと似ているようにも思う。しかしこちらは東京が舞台だから実際は似ているようでまるで似ていない。
『タタド』『波を待って』『45文字』の三編が収められていて、私は三つ目の『45文字』が好き。私はやっぱり主人公は男性の方が読みやすい。
小池さんの物語の設定はどれも変わっていておもしろい。
「あり」そうで「ない」、「なさ」そうで「ある」、そういう感じ。
どれも死の匂いが漂っていて、それは同時に生きるということでもあって、そういうところが「突拍子もない話」にさせないでいるのだと思う。
ありそうでなくてなさそうでありえる現実の側に物語が引き留められている。
2013/09/08
『酔郷譚』倉橋由美子(河出書房新社)
続いて倉橋由美子さん。
私はこれはちょっと微妙だった。
大金持ちの美男子、彗(すい)君が魔酒という酒を飲んで現実の世界と別の世界とを行き来するという話なんだけど、何というか、私はピンと来なかった。
突拍子すぎるというか、その不思議な世界の描写にも良さを感じないというか、とにかく何というか微妙だった。
それでも読んでいくうちに馴染んできて、徐々にスムースに読めるようにはなったけど。
帯に「最後にして最上の作品」とあるけど、私にはそこまでの感激も感動もなかった。
エリクソンみたいにしたかったんだろうな。
言葉でありながら言葉は言葉の形をとらずダイレクトに映像と化す、そういうような世界を描きたかったんだろうと思う。でもそうなりきらなかった感じ。
エリクソンはやっぱりすごいと改めて思う。
2013/09/07
『氷平線』桜木紫乃(文藝春秋)
ここから少し女流作家シリーズが続きます。
堀田善衛さんの『ゴヤ』の感想は追々載せます(今再読中)。
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さて、まず桜木紫乃さん。
私は結構好きな感じのトーンだった。
すべての話が北海道の村が舞台となっていて、そこに暮らす女性の姿が描かれている。
『霧繭』という話は着物の仕立て屋の女性の話で、私もちょうど長襦袢に半襟をつけるという作業が待っていたので印象に残った。
しかし、話として私が気に入ったのは『水の棺』と『氷平線』。
どちらも暗い。いや暗いというと語弊がある。閑寂(しん)として冷たいという方が近いのかも知れない。
北海道という土地の静けさと冷たさと、人間の命を飲み込むほどの厳しく美しい自然、そしてしがらみだらけの田舎で育った人間の特殊な性格が際立っていて、私はその2つの話が良かった。
2013/09/03
ハイ、またまた ちーちゃん です!
またまた姪っ子ちーちゃん登場です。
相変わらず可愛い♡
カメラの紐に手を伸ばしてます。 ぶらさがっている紐とか、かしゃかしゃ音のするものとかに興味津々です。 |
ごっつい笑ってます。 ピースしてイエーイ!って感じ(笑) |
このポーズ、ちょっと女の子っぽいでしょ! |
眠いの〜!でもうまく眠れないの〜! という大泣き。 |
お風呂上がりで上機嫌のちーちゃん。お風呂上がりはいつもご機嫌なんだって。 この日はいつもに増してテンション高めだったらしい(笑) 私といっぱい会話して大笑いして、私が離れると叫んで呼んでくれるの!(そんなことされたらおばちゃんますます可愛がっちゃいます) |
生後5ヶ月で、むっちむちの時期。太腿がこんなに太くなりました! |
2013/08/18
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