2011/04/05

『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス(清水徹+牛島信明訳/水声社)




あっという間に読めてしまう作品。
つまり、初めから終わりまで興味をそそられる作品。
どういうことなんだろう?と先へ先へ進んでいく作品。SF的推理小説。
本当にとてもおもしろい作品である。

でも私は何か少し物足りなく感じた。
あまりにも簡単に進み過ぎてしまう気がした。
もっと引っ張ってもっと長くしてもいいように思った。

だって本当に構成も題材(内容)もスゴいのだ。

イマージュ、死(不死)、分身、愛情という感情。

提議している内容を普通に語ったらたぶん難しい学術論文になってしまう。
それを小説として形にしているのだからスゴくて当然である。

私はこれを読んでこれまでも考えて続けていることをまたぶり返して考えてしまった。
それは『意識と肉体』について。延いては『死』について。

鏡や写真や映像といった本人を映しているにも関わらず、それは決して本人そのものではないという事実。
写真に映ったその人は写真として存在しているけれど、その人そのものは存在していない。
写真の中のその人は、その人ではあるがその人の実物ではない。

それは、現実に存在するもの(=生きているもの) と 過去に存在したが現在は存在しないもの(=死んでしまったもの) の 対比に似ているように思う。

映ったそれは映されたものの過去の残像であり、過去の記憶の断片でしかない。
どんなに鮮やかに生々しく映っていてもそれは現実に生きているものにはならない。



平野啓一郎の『葬送』にもこれに通ずる似たような描写があった。
ショパンの姉が死んでいこうとしている弟を見て<生きている人間と死んだ人間>について考える場面がある。

現にいるというだけで存在の曖昧さはない。証明も必要ない。

生きている人間の記憶は断片にはならない。

それは生きている人間は未来があり、
その未来にどんな人間にでもなり得る自由があるからである。

要約するとそういうようなことが書かれている。



どんなに生きているような映像であっても未来がなければ生きていることにはならない。

『モレルの発明』という本について感想はあるのだけれど、内容をばらさないように書こうとするとあまりにも複雑すぎてうまく文章にできない。

とにかく面白いからおススメとだけしか言えない。
あとは読んでからのお楽しみ。

どんな人も楽しめる小説だと思う。