2011/03/30

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ウラジーミル・ナボコフ(富士川義之訳/講談社文芸文庫)






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[これはあくまでも私の感想であり私がそう感じたということであって、
  解説や他の博識な方々の意見とは違っているところがあるかも知れません。
  予めご了承ください]

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最初の50ページくらいは翻訳になれず、少し読みにくかった。
それから先は読むのに違和感がなくなり、
100ページを過ぎたあたりからは面白くなってあっという間に読んでしまった。


物語の内容(概要)はあまり触れないでおこうと思う。
内容を知らずに読んだほうがきっと興味深く読めると思うから。

私にはこの本はナボコフの小説論に思えた。

こんな文章がある。
<その男は死んだのだ。もはや何も分からない。彼岸に咲くという不死の花(アスフォデル)は相変わらず疑わしい。ぼくたちの手元には死者の書が残されている。それとも、まさか取り違えたのではあるまいな? セバスチャンのこの傑作のページを操ってみるとき、「唯一絶対の解明法」が、あまりにもせっかちに読みとばした一節のどこかに隠れ潜んでいるのではあるまいか、それとも、その外見がいかにもありふれたものだったので、ぼくの目を欺いてしまった別の言葉のなかにそれとなく織り込まれているのではあるまいか、ということをぼくはときどきふっと感じるのである。このような特別の感じを与えてくれる本をぼくは他には知らない。おそらく、このような感じを与えることが作者の特別の意図であったのだろう。>


これはナボコフが自分の小説について語っているように思える。
そうありたいと、そう読んで欲しいと、そう言っているように思える。
アナグラムが好きな、作品中に色々な仕掛けをするのが好きな作者であるから。


又、腹違いの弟が、小説家である兄の生涯を語るという物語の中に含まれている、この小説の主題となる形而上的命題『万物の同一性』に関わる文章が度々現れる。

これに関する引用もいくらでも抜き出すことができる(が、他にも言いたいことがあるし、そんなことをしたら小説まるごと書き写すみたいになるので、端的に表面化されて文章になっている部分をひとつだけ引用する)。

<いかなる物質であれ、物質の同一性というものが存在するのだ。唯一の真実の数は一であり、残りの数は単に一の繰り返しにすぎない>

その命題に由って人物構成や出来事が成り立っているのだから、すべての文章に意味がありどれもこれもが繋がりを持っている。その命題は自然に生死にも繋がっていく。
そして物語の最後の一文に繋がるという仕組み。なんという構成!なんと素晴しい小説!




私にはナボコフの文章は私の考える絵画のように思える。

私の考える絵画というのはつまり、


『あるものを表現するために必要なものを用いて描いたり、何かを身代わりとして描いたりするものである。』


私は絵画とはそのようなものだと思っている。

ナボコフの文章はそういう意味で絵画のように思える。

たとえば、セバスチャンが亡くなる時にみた語り手の夢の描写はこうである。

<夢のなかでぼくは大きな薄暗い部屋に腰をかけていた。その部屋のなかには何となく見覚えのあるいろんな家から寄せ集められた半端な家具がにわかづくりに備え付けてあった。しかし、例えば、棚が同時に埃っぽい道路であるというように、本物の家具とはほど遠いものであったり、奇妙な代用品で置き換えられていた。(中略)待っている間、ぼくたちは落着かず、虫の知らせをかすかに感じて不安だった。他の三人のほうがぼくより余計に知っているような、そんな感じがした。だが、洋服簞笥のなかに詰め込まれまいとして頑張っている泥だらけの自転車のことを、なぜ母がそんなに気にしているのか、それを訊ねるのがぼくには恐ろしかった。その簞笥の扉は開きっぱなしであった。汽船の絵が壁にかかっていたが、その絵のなかの波が芋虫の行進のように動き、汽船は左右に揺れていて、それがぼくを悩ませた>


この文章は終盤にあり、終盤の文章のほとんどすべてが、私をわくわくさせ想像力を大いに活発化させた。
すべての文章や言葉が何かを意味していて、何かに関連しているように感じた。

固有の物自体の固定概念を覆す描写は、作品がいわんとしていることに繋がるように思えるし、
詰め込まれまいと頑張っているという描写は、死んでいこうとしているセバスチャンの生の足掻きに思えるし、
他の三人の方が知っているようなというのは、語り手がセバスチャンの生涯を本にしようとしてセバスチャンについてあれこれと調べているがしかしそれはごくわずかに過ぎない(もしくはそれが真実かさえ疑わしい)ということを示唆しているように思えるし、


等々、すべてを取り上げていたら切りがなくなってしまう。



もちろん文字(文字の持っているニュアンスによる感情のようなもの)から、私は映像的な印象的なものを汲み取りやすいということもある。


けれど、個人的な問題を抜きにしても、
表現したいものをそのまま言葉や形にするのではなく、別のものを用いて形にするという表現方法の方が伝えたいことが伝わるというケースがある。


この表現方法は本作全体に見られることである。


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ナボコフの小説は、フィクションとノンフィクションの境目が極めて曖昧だと思う。


架空の人物であり虚構である出来事がまるで現実のように感じられる。
私はそのことに本当に心から感嘆してしまう。

他のどの有能で有名な作家であっても作品はあくまで作品であり、作家と作品には距離がある。
しかし、ナボコフの(『ロリータ』とこの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』しかまだ読んでいはいないけれど)小説は、作者の存在が作品とぴたりと寄り添っているような感じがする。
語り手が本当にその文章を書いているように思えてしまう。

そういう作家は他にはなかなかいないのではないかと思う。

2011/03/29

今日はどうしてだか調子が悪い。



朝にも書いたけれど今日は心の調子が良くない。少しだけよくなったりはするもののそれでも鳩尾のぐっと重い塊は取りきれない。
胸騒ぎのような、漠然とした不安。
こんなにいいお天気なのに、心はちっとも晴れない。


急に思い立ってネット上にあった過去の日記をテキストとしてROMに保存した。
過去の自分。過去の出来事。
私にとって過去は後ろでもないし、思い出でもない。
過去は記憶。今の私をつくっているもの。
私は未来より過去に向かって生きているような気がする。
未来なんて見えないし、未来にあまり関心がない。


発狂しそうだ。危ないから薬を飲もう。



悪玉をぱくりと食べたみたいに。


本を読んでいる時や絵を描いている時や仕事をしている時、空中に浮遊している悪玉をパクリと食べてしまったみたいに唐突にどうしようもない感情に襲われる。その塊はスポッと鳩尾の辺りに入って来て、私の行動は停止して頭が空っぽになる。そして悲しくて恋しくて仕方がなくなってしまう。

以前から何度も同じような事を書いてきた。突然やって来る悲しさと恋しさ。
無性に悲しくなって、心がひりひりするくらい恋しくなって、涙が勝手に出て来る。
苦しくて苦しくてどうしていいのかわからなくなる。

恋しいのなら誰かに会って話でもすればいいと言うかも知れない。でも私はそれがうまくできなくて、ついつい独りでぐっと堪(こら)えたりじっと堪(た)えたりしてしまう。本当は抱きしめて欲しいのに抱きしめて欲しい人が傍にいないから尚更悲しくて恋しくなってしまう。私は単純な人間だからそれさえあればすっかり元気にすっかり幸せになれるのに。

こういうのがずっと続くと(続いていることに因るのではなく有ること自体に因るのだが)生きていくことを諦めてしまいそうになる。
気持ちが擦り減って疲れて、もう無理だと思ってしまう。
でも、死ねないし死にたくもない。
どんなに悲しくて恋しくて苦しくても『無』になる恐怖よりはずっとマシだと思うから死にたくない。
死ぬのはイヤで怖くて生きたいと思うのに、もういいやと諦めてしまいたくなる。
わんわん泣いて二つの気持ちの間で葛藤する。


と、こうして胸のうちを書いていると(いつもは公にしたりはせず日記帳に書いている)徐々に普通に戻って、本を読もうと思ったり仕事に戻ったり出かけようと思ったりとにかく何かできる状態になる。また次の悪玉を食べてしまうまでの間だけど。

2011/03/23

『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ(若島正訳/新潮文庫)





有名なのに読んでいなかった。
デュラスの『愛人』同様、読んでみると自分の思い描いていたものとは全く違った。
想像していたよりもずっと良かった。いや、良かったというか凄かった。

なんと言えばいいのだろう。複雑な心持ちになった。
小説(作品)としての客観的な感想が言えない。
私が読んだ感想としては(読んだ時の心の状態に由るのかも知れないが)、
様々な感情の大きな波に飲み込まれたかのようになった。

流れるような言葉。表現。
様々な言語の音の響き
(特に所々に現れるフランス語がこの物語のアクセントになっているように私は感じた)。


状況や説明としての言葉ではなく、それ自体が魂のような言葉の連なりが、
小説というものを通り越して、感情という目に見えないものそのものになっているような感じ。
いかにも現実風であるのに小説という空想の世界であるというそのバランス。

異常な愛情であるはずなのに、始めから終わりまでその愛情が穢れのない誠実で清純で正常なものに思えた。
ニンフェットという幼い少女にしか美しさを感じない語り手ハンバートの世界にあっという間に嵌ってしまった。

私は苦しくて苦しくて仕方がなかった。
鳩尾が抉られるような気分がした。
切なく遣る瀬なくなった。

真っ当な人間が登場しないからかも知れない。
全員が歪んでいて、歪んでいるのに歪んだまま世界を成している。
それは暗鬱な世界なのに、まるで暗い洞窟の中でちらちらと光る岩肌のように、魅惑的で美しい。




これから読んでみようかという人のために、そしてこの本の説明として、
訳者のあとがきを(私が同感する部分を)引用しておこうと思う。

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『ロリータ』は読者ひとりひとりによって姿を変える小説である。(中略) 
さまざまな文学的言及や語りの技巧に満ちた、ポストモダン小説の先駆けとして読む人もいるだろう。話の内容はさておき、絢爛たる言語遊戯こそがこの小説のおもしろさだと考える読者もいるだろう。あるいはとんでもない大爆笑のコミック.ノヴェルとして読む人もいるだろう。アメリカを壮大なパノラマとして描いたロード・ノヴェルだと読む人もいるかもしれない。(中略) 
しかし、ここであえて言うなら、『ロリータ』の本当に凄いところは、そうしたすべての要素を含んでひとつの小説にまとめあげている点にある。そして、物語の筋書きを追って楽しむ読者にも、顕微鏡で見るように細部を点検して楽しむ読者にも『ロリータ』が提供してくれる喜びはかぎりがない。

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2011/03/14

『絵のなかの散歩』洲之内徹(新潮文庫)



とても良かった。
私は明治、大正、昭和初期の日本人画家についてそれほど知識が無い。名前だってそんなに知らない。
だからこの本を読んでまず沢山の知らない画家の名前を知れたことが良かった。
それぞれの画家の私生活や性格まで分かって、当時の(洲之内さんが画商であった昭和36年〜)の日本のことも分かる。

何と言うのか、すごく新鮮な目線で画家を知ることができたように思う。
たとえば、美術館での解説と洲之内さんの書いている内容が同じであったとしても、洲之内さんの方は『絵好き』としてその絵に対峙しているからまるで違う内容のように感じる。
洲之内さんは画家とも友人関係にあったりするのでさらに画家に興味を持つことができる話が沢山あった。

ただ、残念なことに、私が読んでいた本は古本で、口絵がいくつか剥がされて無かった。
靉光の『鳥』とか、鳥海青児の『うずら』とかがあったはずなんだけど無かったのがちょっと残念。

それから、文中にいくつも絵が載っているのだけど、それが白黒じゃなくてカラーだったらいいのにと思った。(まぁそうなると画集になって高額になってしまうのかも知れないけど。)

とても良かったので洲之内さんの他の作品も読んでみたいと思っている。

地震

昨日ひとりで家で地震を体験した。
新しい家はデザインマンションだから、ガラス張りで柱も極細。
家に固定電話はなく携帯電話しかないから誰とも連絡が取れなかった。
それゆえ、旦那さんは業務に切りが付くと急いで会社から歩いて帰って来てくれた。
旦那さんは関西出身だから、阪神淡路大震災も体験している。
同僚は家族と連絡が取れているけどうちは連絡が取れないんだから帰ると言って、ひとり黙々と急ぎ帰宅してくれた。
玄関の扉が開いて旦那さんが帰って来てくれた時は本当に嬉しかった。
どんなプレゼントよりもサプライズよりも嬉しかった。

以前住んでいたマンションは、1階に大家さんが住んでいて仲良しだったから(それにご近所のお店の人とも顔馴染みだったから)災害があってもそんなに不安じゃなかった。大家さーんと泣きつけば一緒に過ごしてくれるような間柄だったから。
でも今回は本当にひとりっきりで、すごく心細かった。
災害時、一人きりの心細さが一番こたえるんじゃないかと思う。

昨晩、駒沢通りを歩く大勢の人がいた。
公園に休憩しに来た若者の集団に、ご近所のおじさんが「うちで暖まっていきなさい」と声をかけていた。
それを見て、そういうのっていいよなと思った。
人の優しさってすごく大事。
それから人のマナーもすごく大事。

2011/03/11

地震

すごい地震。
私は無事です。
家もちょっと物が落ちたりはしましたが、ほぼ問題ないです。
水道、ガス、電気も大丈夫です。

携帯電話が通じないので、ここで取り急ぎご報告まで。

2011/03/10

絵画制作

不意に突然に、実家の愛猫を描きたくなった。それも1枚でなくいくつも。そのシリーズとなるような。

真っ先にイメージしたのは、長野の別荘の庭先で初めて見る雪に興味津々だった姿。興味はあるのにその冷たさに幾度も足に付いた雪を振り払って歩く姿。冬の雪の白さとくぐもった色調と黒い木々。そこに小さく愛猫の歩く姿と足跡。これは大きなカンバスがいい。

それから次にイメージしたのは金柑の実に顔を近付ける姿。実家の日の光が大量に差し込む暖かなリビング。明るく暖かな空気を感じるような色調で、橙色の金柑と並ぶ愛猫。表情も毛並みもきちんと描いて。これは少し小さめのカンバスがいい。

それから、遊ぶ姿。夢中になっている姿。
あくびもいいな。大きく開けた口にはそうかこの子は猫なんだよなと思い出させる尖った歯が見える。小さな細長いピンクの舌。

どうして急に愛猫を描きたいと思ったんだろう。
つい最近、腎臓を患って高額な治療を経て一応は回復したという知らせを受けたからかも知れない。それに『葬送』を読んで創作意欲が湧いているからかもしれない。しかも今は洲之内徹の『絵のなかの散歩』を読み始めたからかもしれない。

愛猫に会いに実家に帰りたい。可愛くて可愛くて仕方がない我が家のコテツ。愛らしくてどうしてだか思い出すだけで涙ぐむ。ふわふわのあの子をぎゅっとしたい。
でも、体調は相変わらず悪く、少し歩いただけで動悸と息切れで熱も出る。でも、やっぱり今は無性にコテツを描きたい。思い立ったらすぐに描かなくちゃ。とりあえずイメージだけで描こう。

2011/03/09

『葬送』平野啓一郎(新潮文庫)


[ (注) 思ったこと感じたことをそのまま勢いで書いているので読みにくく、まとまりがないかもしれません。ご勘弁を。]



まず装丁。
大抵は単行本の方が良いのだけど『葬送』は文庫の装丁の方がいい。
たぶん単行本の方はショパンのイメージなんだろうと思う。軽やかで繊細で華やかで。
それに替わって文庫本の方はドラクロワのイメージ。
単行本の装丁の色みより文庫本の色みの方が内容に合っていると私は思う。



ドラクロワの描いた有名なショパンの肖像画


ドラクロワの自画像
下部には薄らと『サルダナパールの死』

ドラクロワが描いたジョルジュ・サンド。
本来ショパンの肖像画と同じカンバスにあって
ショパンの隣に描かれていた

ドラクロワ作『サルダナパールの死』


私は元々平野啓一郎氏の作品が好きなのだけれど、この『葬送』は本当に良かった。
私の好きな本ベスト3に入るかも知れない。そのくらい良かった。


解説に作者のことばとして
「ある真理を明示的に分割してひとつひとつの要素で描き、それらが読者の心の中であわさった時、直接的には表現しにくい複雑な真理がいきいきと理解されるように試みた」とある。

なるほど、丹念な状景描写や心理描写は総合的に相まって、読者(私)が抱えている言い表せない心情を言い表してくれているように感じる。
私は物語というよりは自分が言わんとしていることを的確に言い表している文章を綴る作家が好きである。
私がイメージとしてしか包有出来ないものを言葉として文章として掲示してくれるというのは、私には感動的なことである。
たとえば、ドラクロワの創作に対するやる気と倦怠について思い悩む場面。
<病は気持ちのせいなのか? ただ怠けているだけなのでは? 描くことから逃げているだけなのでは?>と自問自答し続ける。その部分で結論は出ない。しかしそれに関連するような別の事柄があり前問いを思い出させたりする。そして読み進めて行くうちに最後の最後にそれに繋がる結論のような描写が出てくる。(勿論「結論のような」であって、結論として描かれているわけではない)

前述があり後述があり、そしてそれが心の中であわさっていく。すべてがそのようにして書かれている。
たぶんこれ以上露骨になると厭味でこれ以下だと分かり難過ぎるんだと思う。私には丁度いい塩梅だった。


天才音楽家ショパン。生きたいと願いつつも病に冒されてゆく「生」。
ショパンの友人であった天才画家ドラクロワ。老いを感じいつか訪れる死を感じながら生きる「生」。

この本はショパンやドラクロワの生きた1800年代においても2000年を過ぎた現代においても共通する主題で描かれている。それは「生と死」についてであり、芸術論であり、人間関係である。

ショパンという偉大な天才もドラクロワという偉大な天才もひとりの人間として描かれている。
当時彼らは200年先の現在においてこれほど有名であるとは知らず、いち音楽家としていち画家としてその天才に翻弄されながら現代と同じように凡人と同じように人間関係に悩みながら生きている。

ショパンとドラクロワふたりの天才を中心に、ショパンの恋人である小説家であり革命家であるジョルジュ・サンドやその娘、ふたりの友人たちが登場する群像劇でもある。

多くの登場人物がいることで、口では語らず胸中で語るそれぞれの人の思いの交錯の描写が実に興味をそそられる。
現代(いま)も同じである。相手を思い、心中を察し、言葉を選ぶ。
また逆に相手の言葉から相手の本質や心中を垣間見たり詮索したりする。
そして自分の発した言葉や示した態度に嫌悪したり後悔したりもする。

この作品は、様々な人間の様々な性格、様々な考え方というものがいつの世も変わらないのだと知らしてくれる。
生と死というモチーフはいつの時代でも変わらず、天才であろうが凡人であろうが変わらず、芸術家の作品に対する思いもやはりいつの時代でも変わらない。
人間関係の煩わしさとそれによる幸福もいつの時代もどんな人間でも変わらない。

作者が言いたいことを作品として読みやすく分かりやすくするためには、ショパンとドラクロワというふたりの天才、そしてその時代が必要だったのかもしれない。


とにかく素晴しい!のひと言に尽きる作品である。
私はとにかく感動しまくりだった。感動と興奮と感激とでどうにかなってしまいそうなくらいだった。

中でもやはり、ドラクロワの絵画に対する思いと絵画についての記述、議会図書館天井画の解説ともとれる記述、ショパンの演奏会の記述は本当に感動的な素晴しさである。興奮して体が熱くなった。

私は音楽も絵画も言葉にならないものを表現するものだと思っている。
言葉ではなく心で感じるものだと思う。
だから平野氏が音楽や絵画についての感じるという形のないものを、正確に的確に言葉にしてしまうことが衝撃的だった。
まるでそこに音が流れているような、まるでそこに絵があるかのような、いや、それ以上に音楽を聴いて絵画を見て『感じた心』を心以上に言葉で具現化してしまう。
本当に、平野啓一郎氏の天才ぶりに敬服するばかりである。


私にとってドラクロワもショパンもあまりにも偉大過ぎて存在自体に同じ人間として生きていたという実感が持てない人物だった。まるで神のような存在だった。
それを、この本は、私と同じ人間として描いている。
フィクションとノンフィクションの境目がない。知っている限りの史実が正しく書かれていると、知らないこともすべて本当のことに思えてしまう。会話だって心中だって本当にそんなことを語ったり思ったりしていたのかも、と思ってしまう。
それが私を感動と感激と興奮の感情に引きずり込むのである。

2011/03/04

3月3日のひな祭り



昨日、ひな祭りだからと言って、旦那さんがケーキを買って来てくれた。
中目黒の駅前にある ECOLE CRIOLLO (エコール・クリオロ)の中目黒店限定のチョコレートケーキ。
もちろん夕飯はちらし寿司。

ECOLE CRIOLLO:http://ecolecriollo.com/

2011/03/03

「2monochrome」@縁縁



samanちゃんとshuちゃんの作品を見に縁縁へ行って来た。
ふたりとも縁縁のスタッフでもある絵描きさん。

shuちゃんの『idomu』というタイトルの雌ライオンが良かった。
毛の下の、肉の下の、しなやかな筋肉の表現。佇まい、目つき。本当に素晴しかった。
上記の写真より、本物はもっと良かった。

デューラーの『野兎』を思い出した。
それに匹敵するというのは言い過ぎかもしれないけれど、でも私にはそれに匹敵するくらいの良さがあった。
本人も今まででいちばん好きな作品だと言っていた。
あの作品は欲しい。

スタッフでもありregaというバンドで活躍もしているアキラくんがいたのでアキラくんと色々とお喋りをして、振り返ったらオーナーの竜さんがいたので竜さんとも色々お喋りをして、長いこと寛いで来てしまった。
勢いはしゃいでしまったので、帰りの電車ではやっぱり具合が悪くなってしまった。

久しぶりにお店に行って自分の絵を見たら、そろそろ替えたくなった。
近いうちに別の絵にしようと思う。
あ、そうそう、saman×shu の次の企画展は公募展の「うさぎ」。
これに私も参加します。作品は年賀状で描いたイラストの『Bunny』。
展示期間は3/7〜3/27です。お近くにお越しの際は是非。


enyen: http://enyen.jp/

saman: http://www.irodorichameleon.com/
shu: http://sunie.cj3.jp/

rega: http://www.rega.jp/

2011/03/01

メモ:美術館

ブリヂストン美術館『コレクション展示ーなぜ、これが傑作なの?』
1月4日(火)〜4月16日(土)


出光美術館『琳派芸術ー光悦・宗達から江戸琳派』
2月11日〜3月21日(月)

東京都現代美術館『田窪恭治展 風景芸術』
2月26日(土)〜5月8日(日)


国立西洋美術館『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』
3月12日(土)〜6月12日(日)

Bunkamuraザ・ミュージアム『フェルメール<地理学者>とオランダ・フランドル絵画展』
3月3日(木)〜5月22日(日)