2013/06/26

姪っ子ちーちゃん

指しゃぶりをするようになった。
自分の家にいる時は親指、実家で大勢いる時は親指以外をしゃぶってた。何か違いの理由がありそう。
指を入れ過ぎてえづいてたのには笑っちゃった



「きゃはは」というこの感じは女の子らしい。最近男の子に間違われるって妹が言っていた。



寝ながらよく笑っている。何なんだろう?






相変わらずカメラを向けると目を大きく開いてカメラ目線&止まってポーズをするちーちゃん。
かわいいー♡



お風呂に入ると必ず大泣きするらしいのだけど、今日は私がいたから泣かなかった。
お風呂上がりに歌を歌いながらあんよ体操をしたらご機嫌になって、声をたてて笑ってくれた。

2013/06/21

『渋谷道玄坂』壷井栄(新日本文学会 / 1948年)


壷井榮さんといえば『二十四の瞳』で、私はそれしか知らないし、しかも読んだのは小学生の時だ。
戦争の頃の小さな村の小学校の先生と生徒の話、というくらいしか覚えていないくせに、なんとなく壷井さんは照れ臭いような、今さら読むのは気が引けるような気がして、ずっと読まなかった。

この『渋谷道玄坂』には6篇の作品が収められている。最初の5つは短篇で最後の『暦』は中編である。
すべて読んでみて、壷井榮さんはいいなと思った。『二十四の瞳』を今読んだらちゃんと作品の良さが分かっただろうことも感じられた。

庶民の慎ましやかな日常、労働と生活。そういうベースがきちっとできているからこそ作品が生きてくるのだと思う。生活を描くことでその人物をいきいきと描き出している。
壷井さんの作品の中の人たちはみな素朴で愛おしい。貧しさが今の世の貧しさやとは違う。貧しさは惨めさではない。
ただただ人間を愛するという姿や、生きることをひたすらに全うしている姿が、作品のそこここに見え、心があたたかくなった。
いい本だった。

2013/06/15

『隅田川小景』増田みず子(日本文芸社)


男性が書くものはロマンチックでセンチメンタルで未練がましい。
女性が書くものは現実的でドライできっぱりと潔い。
と、思う。
どうして女性作家さんの話はみんな簡単に離婚するんだろう。男が何を考えているかわからないと言い、男に愛想を尽かし、自分の足で立つことを求める女たち。
そういうところばかり目立つから女性作家はあまり好きになれない。

しかも、男性が書くものは大抵主人公と相手と両方に同じような目線を投げているのに対し、
女性が書くものは大抵主人公にしか目線を投げない。だからつまらないのだと思う。主人公の考えしか出てこないから自分勝手で自己中心的な感じになる。
もちろんどちらの場合にも例外はあるけど。


とくに何も感じなかった。心にぐっとこなかった。汚れた隅田川と心や生活をリンクさせて話を進めるというのはよくできているし、おもしろいとは思うけど、全体として軽かった。
わざと故意に軽くしているのは分かるけど、「書かないけど底にあることが分かる」という書き方と「軽くして書く」というのはちょっと違う。

この中だったら最後の『赤い月』がいちばん良かった。含みを持たせていて状況だけを描きながら心を描くという書き方で、おもしろかった。

2013/06/14

新潮現代文学14 高見順『死の淵より』


食道ガンに冒された作者の、生と死の詩。

癌と診断されてからわずか3年で亡くなった高見さん。ほんとうに死がやってくるということを感じていたのだとわかるような詩ばかりだった。
けれど、それだからこそ、生の強さや日常の風景の愛おしさを感じた。

高見さんの詩は詩というより短い小説のような印象。イメージも伝わりやすくわかりやすかった。


『赤い実』という詩にざくろが出てきて、ざくろを描きたくなった。





『夜の水』という詩からインスピレーションを受けて描いた水彩画

2013/06/11

Switch Art





私がタトゥステッカーをデザインさせてもらっている mix-style の新商品のご紹介。

『Switch Art』という壁に貼るアニマルモチーフのステッカー。
何度もやり直しがきいたり水洗いもできるらしいです。

タトゥステッカー同様こちらの商品もヴィレッジヴァンガードオンラインから購入できます。



2013/06/09

新潮現代文学14 高見順『いやな感じ』

装飾:朝井閑右衛門



読み始めの第一章その一、その二、あたりまでは隠語の乱用とアナーキストというものにちょっと失敗だったかなと思ったのだが、意外なことに途中からすごく心にぐっときてしまった。
体調が悪くて動けなかったせいもあって朝から夕方まで一気に読み耽ってしまった。

創作意欲が沸き立たされて、生死のしんのところに引寄せられて、様々な思いがわんさかと頭の中に充満した。

それは私にとってほんとうに意外な感じだった。
まさかこんな気持ちになるとは予想できなかった。

テロリストのアナーキストの主人公の話。同志、女、家族、昭和初期の社会。
自分の内の現代社会への思いや自分自身の思想や信念、そして生きるというそのものがぐちゃぐちゃになって私の外へ吹き出してきて、様々な絵のイメージが浮かんできた。

昔の話なはずなのに、ちっとも今の自分と切り離せなくて、ただただ今と同じ「人間というもの」がこの本にはある。
「人間というもの」という大きなものがのっしりと覆い被さってきて私を圧倒した。

こういうのを読んでしまうと、先の福永さんなんかはちょっと軽い感じになってしまう。キレイなドラマ仕立ての作り物という感じが強くなってしまう。

上海へ渡ってからの物語はタイトル通りまさにいやな感じで、途中で感じたものが若干失せて代わりに胃袋に重い塊が居坐って、気分が悪くなった。
しかし、それでもやはり、この本は私にとっては衝撃的な本だった。こういうのは読んだことがなかった。すごい本だと思う。単なるアナーキズム、ニヒリズムの話ではない。単なる思想小説、社会小説ではなく、そこから浮かび上がる「人間というもの」の話だと思う。

誰に何と言われようとも自分の思いを込めた作品をやらなくては、そうでなければ意味がない、と思った。



 ずいぶん昔のことだが、何しろすさまじい異常な思い出だ。思い出にしたって、俺の心を混乱させるのに充分な異常さだ。と言うより、この思い出の場合は、むしろ思い出の方が、なまなましい現実感を持っている。異常のなかに実際に身を置いたときよりも、それを思い出している今のほうが、ずっとすさまじい現実感が俺に迫ってくる。
 言いかえると、思い出の中に現実がある。そのほうに、そのほうだけに現実がある。
 すさまじい現実のなかにいながら、昔の俺は、それをすさまじい現実と感じなかった。現実のなかに現実を感じなかった。(p304-305)

作者の高見さん自身がこの作品について、「私は私のいきてきた昭和時代といふものを書きたかつたのであり、書きたいのである。」と言っているが、上記引用部は激動の時代に生きた人のすべてに当て嵌まるだろうと思う。というか激動の時代でなくとも人間というのはそういうものだと思う。



 三・一五、四・一六と毎年つづいて、大量検挙のあったその翌年のメーデーは葬式行列と嘲笑されるほどのみじめさだった。メーデー参加の一万五千の労働者に対して一万二千の警官が動員された。こんな状態では、労働者を組織して革命をおこすなどということは、夢みたいな話だった。
 しかもブルジョア政治じゃ腐敗をきわめていた。疑獄事件が続出し、政党は党利をはかることに忙しく、ただただ政争にあけくれている。選挙と言えば、財閥からの献金を公認候補に八千円の五千円のと軍資金に分配して、買収が公然と行なわれ、代議士はもはや国民の代表ではなく財閥の代弁者に過ぎない。しかも当選した代議士はその日から利権漁りという始末で、こうした議会政治に民衆はあいそをつかしていた。革命を望む声がー声にならない声が、巷にみちていた。(p88-89)

こういう文章を読んで、今だってそう変わらないじゃないか、と思ってしまう。
この本の中では革命やテロリストという言葉が出てくるのだが、アメリカの9・11に始まるテロや、アラブの春や、日本の政治では自民敗退から民主敗退という現代だから革命やテロという言葉は古い遠いものではなく身近なものに感じる。
今も昔もそんなに変わっていないし、そもそも人間の本質は同じだというのをこの本でまざまざと感じた。

2013/06/08

新潮現代文学31 福永武彦『忘却の河』『海市』

装画:岡田謙三


『忘却の河』を読んだあとに別の本を色々読んでしまったので、ちょっと忘れかけている。でも、良かったということは覚えている。

福永さん、良かった。私は結構好き。
『海市』の最初は『忘却の河』の方が良かったなと思いながら読んでいたのだが、途中から甲乙つけ難い、、、と思った。
どちらも手法を凝らし、それがいい作用を生み、結果おもしろくさせている。

解説で加賀乙彦氏がこう書いている。
彼は意識を交錯させ、視点を変え、一人称を三人称にずらしていく。この場合、重要なのは一つの章、または節が、モンタージュのやりかたで、接合されていることだ。これは映画ではおなじみの手法だが、映像をつかわない小説においては、接合部分が不分明になり、読者の興味をつなげないために、むしろ避けようとする小説家が多い。モンタージュよりも、フラッシュ・バックやカット・バックの手法によって、過去の時間を何とか地の文に融かしこみ、そうすることによって文章を読み進んでいく読者の目をそらさないように配慮するのが、小説家の智恵である。
ところが、福永武彦は、何の説明もなしに、いきなり異質な文章を並べるのだ。(中略)明快な文章をモンタージュ方式で並べていくという福永の小説作法(後略)

私はいつも、この「モンタージュ方式」のことをうまく言えないでいたから、これを読んで、なるほどそうか、映像で考えてモンタージュと言えばいいのかと納得した。
そして本当にまさに福永さんの小説はこの方法によっておもしろくなっている。

どちらの作品も女性は愛のために命を抛ってしまうのに、主人公の中年男性は過去を抱えていて愛から逃げる卑怯者というのがなんかいい。
暗くてぐずぐずうじうじしている。変わろうとしているようで変われない(変わらない)。いかにも人間らしい。そういうのが良かった。
こういうのは男性じゃないとうまく書けないような気がする。

2013/06/06

『オディロン・ルドン ー夢の起源ー』 損保ジャパン東郷青児美術館





銅版画家の駒井哲郎さんの本『白と黒の造形』にルドンの作品のことが出てくる。しかしそれに作品の写真は載っていない。だからちょっと読み難かった。なにしろ私はルドンの作品を殆ど知らなかったから、文章が自分の中に入って来なかったのだ。

その本には他にもクレーやミロやドガなんかも出て来る。彼らはルドンに比べればイメージがしっかりとある画家たちだからルドンのところ意外は引っ掛からなかった。
しかしそれがあって、私はいつかまとまってルドンが見たいと思うようになった。

そんなルドンの展覧会ということで、私は久しぶりに積極的に美術館へ行った。

実際にルドンの作品を見て、「あぁ、駒井さんが尊敬するのもわかる、素晴しい!」と思った。
私は駒井さんの本からリストアップしたルドンの作品名を書き出したメモ帳と、駒井さんの本と、出品作品一覧と鉛筆を持って展示を観て回った。
本で説明している作品の前ではもういちど駒井さんの文章を読み、作品を観た。ソファが置かれていればそこに座って本を読み、遠くから作品を観た。

実を言うと最初の石版画集『夢の中で』は特に何とも思わなかった。ヘタウマみたいにも思えた。でも次の石版画集『エドガー・ポーに』の「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」(図1) の、構図と発想にちょっと惹き付けられ、石版画集『起源』の「おそらく花の中に最初の視覚があったのだろう」(図2) の植物の線が人間の皺に見え始め、そう見え始めてしまうともう線の一本一本に生命力があるように見えて来て、作品の中でそれらがごく僅かにごく静かに動いているんじゃないかと思うほど生々しく迫って来るようになった。


次の石版画集『ゴヤ領』の「沼の花、悲しそうな人間の顔」(図3) の顔から放たれる光の様、その光が映る水面のきらめき、その表現の美しさに目をみはってしまった。
白い細く細かい線がほとんど黒の画面に幻想的な世界を創り出している。

石版画集『夜』では明暗の使い方がさらに美しくなってくる。
「読書をする人」(図4) はレンブラントの絵画のごとく白と黒の世界で光を見事に使いこなしていた。
石版画集『聖アントワーヌの誘惑』第三集ではより柔らかさと滑らかさが増してくる。

そして、私はここから先の版画集『悪の華』と石版画集『夢想』がとくに気に入った。やわらかい鉛筆のような線が美しい。
『夢の中で』などの最初の方では硬い線での表現だったのが、この『悪の華』や『夢想』では柔らかい線も取り入れるようになる。
線が硬いと光も硬くなる。光が反射してキラキラと輝く水面は硬い線が適していたが、柔らかい線になったことで今度は全体を包み込む光を表現するようになる。
柔らかい光は同時に空気をも表現する。画面全体をやわらかな幻想的な空気が包み込んでいる。
白と黒の世界でありながらどことなく光の中に色彩を感じる。少し離れたところに座って眺めているとそれがよく分かる。

気に入った作品のひとつ『夢想』「昼の光」(図5) について駒井さんが言っていることに私も強く同感する。
窓を透して差しこむ薄い昼の日ざし。窓外の一本の立木のしなやかさ。全体的に幾何学的な構図でありながら、この立木のかろやかな木の葉の描写によって一つの音楽を奏でているようにみえる。(中略)五十歳を過ぎたルドンの幻想は怪奇なものを追い求めることからは遠ざかり、もっと幅の広い深い静謐さが全体を領しているようだ。


その後の色彩作品も素晴しかった。「アポロンの戦車」の、赤褐色と碧がかった水色が美しかった。パステルがいいアクセントになっているようで、私もパステルを使ってみようと思った。
「ヴェネツィア風景 あるいは ヴェネツィアの漁師地区」「編み物をする娘」も好き。

ポストカードやポスターや図録で見る作品は実物とはまるで違ってしまっている。実物を観た後に印刷物を見ると「全然違う!本物は素晴しいのに!」と思う。
色彩作品に限って言えばどことなくシャガールに似ていると感じた。
シャガールも印刷物になるとかなり色が違う。マドリッドの美術館でいくつもポスターを観たけれど、忠実に再現できているものはひとつもなかった。ルドンの作品もシャガールと同じで再現し難いのだろう。










今回の図録。白い紙ケースに入っている。
文字の部分が切り取られて図録の表紙の花の絵の色が見える。
凝った仕様で素敵。

ケースを取るとこんな感じ ↓

2013/06/05

『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』辻征夫(新潮社)


『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』に続けて、『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』を読んだ。
こちらも良かった。こちらの方がより小説になっている。
『遠ざかる島』は短篇、『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』は連作小説、『黒い塀』はエッセイのように見えるごく短い話の集まり。

『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』はおとぎばなし風だったが、『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』は下町の子供たちの暮らしが書かれている。
子供の目線ということもおもしろいが、構成や時間の流れや主人公(語り手)の入れ替わりなど、ありそうでない書き方がほんとうにおもしろかった。

少年少女の、純粋で素朴な姿の描写は、生きている感じが伝わって来た。戦後間もない下町の風景が目の前に広がっていた。
本から顔を上げるとすぐそこに物語中の子供たちが走り回っているのではないかと錯覚するくらい、辻さんの文章には生命感と空気感が溢れていた。

映画を見ているようだった。

2013/06/04

『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』辻征夫(書肆山田)


辻さんは詩人だが、私は詩が苦手なので辻さんの詩も読んだことがない。
だから詩の辻さんのことは分からないが、小説の辻さんは良かった。好きになった。

この本は詩集のように、天地に余白がたっぷりあり、文字も大きく、ひとつひとつが短い。
絵本のようなおとぎばなしのような、ちょっと不思議な話たちが9篇収められている。

私はその中でもめちゃくちゃ怖い『砂場』が好き(というかいちばん印象に残っている)。
短いから怪談を聞いたような感じになった。
怖いんだけど、なんかちょっと切なくて悲しくて不思議でいい。

でもどれも良かった。
詩人だからか、文章に空気がある。間や空間もある。ふんわりとした感じの柔らかさがある。そういうのがすごく良かった。

2013/06/03

今日のちーちゃん


 あ〜

 ん〜

めっちゃ可愛い〜 ´ `

カメラを向けるとガン見するちーちゃん。「何だこれ?」ってことなんだろうな〜。
2ヶ月経って、うつぶせにすると首を持ち上げるってこともできるようになった。すくすく成長中。