2011/09/30

丸谷才一『樹影譚』(文藝春秋)





わざと「云ふ」とか「しませう」とかいう旧仮名遣いにしているのが雰囲気を出していると思った。
それが無いときっと、アレ?と思ってしまうような気がする。
丸谷さんのつくり出したい世界は現代言葉ではちぐはぐになってしまう。

旧仮名遣いの言葉たちはレトロな雰囲気を醸し出して、さながら竹久夢二の絵のようだと思った。大正ロマン。
だから、登場する男の子も女の子も私の頭の中では夢二の絵のような顔と服装で、色彩も夢二の絵になっていた。

小説をつくるのがうまいなぁと思う。
『樹影譚』の終わりの2ページは、どうしてだかゾゾゾと鳥肌が立った。じわーっと怖い。闇が迫ってくる感じ。
『夢を買ひます』は、「ね、聞いて聞いて聞いて。」と女の子が喋る書き出しで、その女の子がずっと語っていく形をとるのだけど、話している部分と物語の部分の組み合わせの匙加減がうまい。
始終、うまいなぁ、というのに尽きた。

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【 初出一覧 】
鈍感な青年   文學界1986年 1月号
樹影譚     群像 1987年 4月号
夢を買ひます  新潮 1987年12月号
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2011/09/29

庄野潤三『プールサイド小景・静物』(新潮文庫)




村上春樹さんの『若い読者のための短編小説案内』という本に庄野潤三さんがあったので読んでみたいと思っていた。
そろそろ読む本が少なくなって来たなと思って(野見山暁治さんの『四百字のデッサン』と『うつろうかたち』はもったいないからまだ読まない)、近所の古本屋 " 赤い鰊 " に行ってみたら『プールサイド小景・静物』の文庫本があったので買った。
同じく『若い読者のための——』で取り上げられていた丸谷才一さんの『樹影譚』の単行本もあったので買った。


私は『舞踏』と『プールサイド小景』が良かった。
初めて庄野潤三さんを読んだのだけれど、60年前の川上弘美さん男バージョンだなぁと思った。

短編とかすごく短い文章を書くのがうまいところとか、
何でもない日常と何でもなくない出来事のバランスとか、
小物の出し方とか、
物語の終わり方(ついついもう少し書いてしまいたくなりそうなのにスパッと終わらせてしまうところ。「え? 先はないの?」と目をぱちくりしてしまう終わり方なところ)とか、
全体的に文章の作り方とか描写の仕方が似ているように感じた。

とはいえ、似ているのに心に届く感じは全然違う。それは現代のものと昔のものとの違い。
私は古い作品の方がしっくりくる。いいなぁと思うし好きなものが多い。

どうしてそうなのかは正確には分からないけど、古い作品の方が風景が美しく感じる。瑞々しい。空気も澄んでいてゆるりと柔らかい。静謐な美しさ。いい絵画みたいな雰囲気があると思う。
でも現代の作品は違う。どんな作品であれ空気に光化学スモッグが混じっているような感じがする。カサカサしたものを感じる。いいなと思ってもそれは映画だったりデザインの雰囲気になる。
私はそんな風に感じる(あくまでも私の感じ方として)。


2011/09/27

川上弘美『これでよろしくて?』『パスタマシーンの幽霊』





『これでよろしくて?』は婦人公論に掲載されていたらしい。
なるほど婦人公論的な、それ用の作品という感じ。ざーっとさらーっと読めてしまう。
妹が結婚を控えていて、色々と大変だったり不安だったりしているので、この本を貸してあげた。
たぶん今の妹には心強い一冊になるような気がする。妹は私と違ってちゃんと社会で生きていける堅実で頑張り屋な人だからこういう婦人公論的な作品は合うんじゃないかと姉が勝手に思っているだけだけど。

『パスタマシーンの幽霊』はクネルに掲載されていたらしい。
で、こちらもなるほどクウネル的な感じがする。
そして以前私が似ているようなと書いた『おめでとう』と『ざらざら』にも登場していた女性がまた出てくる。その子の話は2話あって前回からの続きになっている。
そういうところはおもしろいなと思う。それぞれのお話がそれぞれの人物の一部を切りとったものですよ、というアピールになる。そういうことで川上さんの文章の中の人間が生きてくる。それにやっぱり川上さんは短篇の方がいい。
とはいえ、これは少し物足りない感じがする(しかし逆にそれを軽い感じ、クウネル的と言ってしまえばそれまでなのだが)。初期作品の方が私はいいなと思う。

とりあえずここで川上さんは一段落。軽くて楽だったなぁ。
これに慣れると次からの読書がしんどうそう。



家族旅行 IN 箱根






2011/09/22

中村昌義さんの本のこと


中村昌義さんの本の感想を書いてから、そういえば中村さんの本を読んでみたいと思ったきっかけは山田稔さんの『別れの手続き』だったと思い出して、もういちど『別れの手続き』を読んでみた。

『別れの手続き』という表題にもなっているエッセイ ( ? ) は中村昌義さんのことについて書かれている。
中村さんの『静かな日』に出てくる妹 "しの" のモデルとなった中村さんの実の妹さんに会いに行く話である。
山田さんは中村さんのことをとても買っている。素晴しい作家と評している。
引用されている『静かな日』の中の文章を読みながら私はもういちど考えてみる。中村さんの小説について。

やっぱり、中村さんの作品は良い。流れる空気感がいい。
にせものっぽくなくて、景色も人も生きていて、いい油絵のような存在感があって、いい。

それなのに私はあまり芳しくない感想文を書いてしまった。
それはあの2冊が続いているからだと思う。
『静かな日』も『陸橋からの眺め』もどちらもすごく良くて、どちらも私は好きなのだけれど、続けて読んだのが私にはよくなかった。内容を忘れた頃に読めばよかったのだと思う。
そうすれば、繰り返される家族の説明に他が色褪せるなんてことはなかったのだと思う。

牛が咀嚼するように、私も内容のことや文章のことを頭の中に戻してみる。
やっぱり、中村昌義さんの作品は良い。

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川上弘美『どこから行っても遠い町』(新潮社)読了。めずらしくメッセージ性のあるものだった。
町の様々な人が繋がっている仕立てで、次、次、と、ぐんぐん読んでしまった。
筋立てがよく出来ているなぁと思った。




2011/09/21

川上弘美『風花』(集英社文庫)






イライラした。
ちょうど台風15号が関東を通過するとかで、風はごおぉぉっと鳴り、雨は激しい音でアスファルトを打ち鳴らしている時だったから精神的にいつもと違ったのかもしれない。でも、主人公がたまらなく苦手だった。話の筋もあまり好きじゃなかった。
『椰子・椰子』はすごくいい感じなのになぁ。『おめでとう』も『ざらざら』も良かったのに。

長編(と言ってもそう長くはない)になると私は川上作品が好きではなくなってしまうように思う。
主人公とか登場人物とかすべて嘘くさくなって鬱陶しくなる。
長編は普通に現実の設定なのに、どうしてかそう感じる。
突拍子もない有り得ない不思議な話ばかりの短篇の方がずっと現実らしく感じる。

解説では小池真理子さんが「俗世と日常がよく書けている」というようなことを言っていたけれど、私には主人公は非俗で非現実的に思えてしまう。私には「こんな人いるか?」と思えてしまうのだけれど、世の中の女子はこんな感じなのだろうか?


川上弘美『パレード』『おめでとう』『椰子・椰子』『ざらざら』










体調が良くなくてソファで横になってばかりいたので、さらりと読める川上弘美を読もうと思って本棚から『パレード』を引き抜いた。

ページを開いて「あぁ、今の時代の本はデザインなんだなぁ」と思った。
この前に中村昌義さんを読んでいて、川上弘美さんの文章(出だしの1行)を見たら中村さんの方は絵画なんだと気付いた。中村さんの小説は絵画のうちでも佐藤哲三の絵のようだと感じた。

あっという間に『パレード』を読み終えて、それから『おめでとう』と『椰子・椰子』と『ざらざら』も読んだ。

読み続けていると「川上弘美は働く女子のための、妻子持ちと恋をしている女子のための、本だなぁ」と思う。
だいたいが女性が主人公だし、女の人が書く小説って感じがする。
女子ってこういうセンチメンタルなデザインが好きなのだ。
『パレード』や『おめでとう』や『ざらざら』は、どこがどうだとは言えないけれど、決定的に女子の小説だと思う。

『椰子・椰子』は、女子とか男性とかいうのはなく、どちらかといえば、他の川上作品が好きな女子は苦手なんじゃないかと思う。内田百閒風だから(解説で南伸坊さんもそう言っている)ちょっと毛色が違う。
私はその非現実的な夢のようなお話の中にも現実の色々な考えや捉え方が垣間見えて(つまり有り得ないお話自体が比喩という形になって成り立っているように感じるところが多々あって)、こういう川上さんの方が好きだしすごいなぁと思う。

『おめでとう』と『ざらざら』は短い話がいくつも入っている。本当にいろんな女子が出てくる。様々な年齢の様々な境遇の(とはいえ実はどの人も同じ人みたいにみんな感覚や感情や思考は似ているなのだけど)女子がいる。
だから女性ならたぶんなんとなく誰でも共感するように思える。色々な主人公がいるから、その誰かには読んでいる自分と似ている人を探せるような気がする。
たとえば、私なんかは、『おめでとう』に出てきた(この人は『ざらざら』にも出てくる)、時々少しお金になるイラストを描いて、時々全くお金にならない油を描く女の人に近しいものを感じた。それにまた、好きな人に会いたい会いたいと強く思うところとか、友達がおかまとか、そういうのも似ていると思う。

いっぺんに読んだら、大好きだった人をものすごく恋しくなった。
でも叶わないから、胸の奥がぐっと苦しくなって、悲しくなった。(川上風に書いてみた)

2011/09/20

『静かな日』中村昌義(河出書房新社)




先に読んだ『陸橋からの眺め』は少年時代の話だったけど、そちらの方が後に書かれたものだった。
最後のページに載っているその記述を見て私は「へぇ〜」と驚いてしまった。
『静かな日』は『陸橋からの眺め』と同じ主人公の30代から40代にかけての話だったから、すっかり『静かな日』の方が後なのかと思ってしまった。私は最も最初の作品となる「うずくまる闇」がいちばん好きだ。

『静かな日』収録3編
  静かな日    昭和51年8月号「文藝」
  うずくまる闇  昭和43年10月号「文藝」
  走る日     昭和50年4月号「文藝」

『陸橋からの眺め』収録3編
  出立の冬    昭和52年7月号「文藝」
  淵の声     昭和53年7月号「文藝」
  陸橋からの眺め 昭和54年3月号「文藝」

同じ主人公の話だなんて知らなかったから、続けざまに読むとかなりしんどかった。しつこいなぁと思ってしまった。
父が高級官吏で巣鴨プリズンに居て母が美しく(そしてマザコン気味で)5人兄弟で等々、同じ話しが何度も何度も出てくると、他の、小さな美しいものたちが私の内から消えてしまう。だから良かったのかそうでもなかったのかも分からなくなってしまう。
なんとなくこの人の作品は男の人向きな気がする。

2011/09/15

『陸橋からの眺め』中村昌義(河出書房新社)





数ヶ月間、洲之内徹の『気まぐれ美術館』に浸かっていたので(途中、長谷川四郎さんも読んだけれど気持ちは絵画モードのままだったので)、本を開いて冒頭を読み始めたとき「あぁ、小説だ」と当たり前のことなんだけれどそんなことにハッと気が付いて、とても変な感じがした。でも、それだからすごく新鮮に感じてぐんぐんとあっという間に読み切ってしまった。

気まぐれ美術館を読んでいる時は、書かれている言葉を心に落として、それをじっくりと噛み締めるように自分自身と対話しながら読んでいて、どちらかといえば心の疲労を伴う読み方をしていたから、小説というのに戸惑ってしまった。それに、小説を読んでいる時、気まぐれ美術館を読んでいた時と違って全く何も考えていないことにちょっと驚いた。

この小説は3つの続きの短篇で成った主人公の男性の成長を書いたもので、それぞれにそれぞれの女性が登場している。
主人公やその家族や恋人たちの感情は私の内にはさっぱりと入ってこなかった。戦後の日常があり、揺れ動く心情があり、成長があり、人間のことがよく描かれているなぁとは思うのに、感動はしなかった。小説に馴染めていないせいかもしれない。

つまらないというのではないし、どうなるんだろうという興味を持たせる書き方に実際止められなくてどんどんと読んでしまったのだけれど、煮え切らないぐじぐじした主人公がそこにいただけで、読み終えて何も残らなかった。
でもそれは私が女だから母親に憧れ母親を求め続ける主人公の気持ちに共感できなかったせいかもしれない。
ぐじぐじしているように見えるのは言い換えれば微妙な心情を細やかに描いているとも言え、そういうのが良さだったりもする。

文章はすごく読みやすくて、わりと好きなんだけどな。

2011/09/14

『彼もまた神の愛でし子か』大原富枝(ウェッジ文庫)




大方が洲之内さんの小説や気まぐれ美術館のエッセイの引用で、それを元にして洲之内徹とはどんな人間であったかということが書かれている。

読んでいる最中からその感想やら思うところやらを色々と書いたのだけど、書いたあと続きを読むと書いたことが違うなと思ったり、読みながらいろいろなことを思っていたので、その思うところが有り過ぎて結局何をどう書いていいのか分からなくなってしまった。
だって、作者の大原さんという人は洲之内さんの古くからの友人だそうで、それならその人が色々と言うことが正しいに決まっていて、私がとやかく言うことなんてなんにもないのだ。

でも、なんとなく、読んでいて気持ちのいい本じゃなかった。
私は洲之内さんにお熱なところがあるから、客観的に遠い存在として見れていないからかもしれない。
勝手に洲之内徹像を作ってしまっているせいかもしれない。
どんな絵にもじっと目を凝らしてじっくりと絵を見るその姿だけで、もうそれだけで私は洲之内さんが好きなのだ。

だから過去とかどんな人間だったかほじくり出されて不快だった。苛々したし、厭な気分にもなったし、男と女についてのこともなんか違うよなぁと思ったり、とにかく全てにおいて私にはしっくりこなかった。

2011/09/13

『さらば気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮社)





気まぐれ美術館シリーズ最後の1冊『さらば気まぐれ美術館』を読んでいるとき、私は悲しかった。

洲之内さんは「雪の降る里」というエッセイの中で、北海道で行なわれた自身のコレクション展を見ながらこう言う。
”私ももう七十四歳だ。ひょっとすると、これきり二度と見れない絵もあるかもしれない”

他にも「<ほっかほっか弁当>他」という中では、島村洋二郎の遺作展をやりたいと島村洋二郎の姪の直子さんという人が画廊へやってくる話のところで、
直子さんが ”いろいろな人が叔父を思い出してくれるとうれしい” と言ったあと
洲之内さんは”そうだといいが、展覧会というものははかないものだ”と言い
”島村さんだけじゃない、人間はみんなそうして消えて行くんですよ、あなたも、この私もね” と締めくくる。
そんなこと言わないでくださいよ、洲之内さん! と、私は泣きたくなってしまう。

そして最後のエッセイ「一之江・申孝園」では、
”ここのところ私は躰全体が痛く、脇腹や胸を押さえながら歩いている始末で(後略)”とある。
藤牧義夫のことは次号もう一回書くと言っているのに、それは収められていない。


少しずつ、数ヶ月をかけて、私は気まぐれ美術館シリーズを読んできた。
もうとっくに洲之内さんは亡くなってると知っているのに、読みながらどうしてだかそういう気がしていなかった。
洲之内さんが気まぐれ美術館を書いている14年間を、私はなんとなく一緒に歩んできたみたいな気持ちになっていた。
だから読みながら私は悲しかった。
私は洲之内さんに恋をしていたような気がする。どんどんと死が近づいてくるのが、まるで恋人に死が迫っているみたいな気分だった。
実際読み終えてしまって私は心にぽっかりと穴があいたような気分でいる。


ひどく悲しい気持ちだけれど、本の内容についても書いておかなくては。

『さらば気まぐれ美術館』は音楽の話が多い。
最初のエッセイが友川かずきさんというフォークシンガー(であり画家でもあるが私は知らない)の話から始まる。
その後に中島みゆきさんが出て来ていくつも歌詞を掲載して「芸術新潮」が著作権使用料で5、6万支払ったりしている。「倍賞千恵子だいすき」というタイトルのものもある。
その他にもジャズのコルトレーンの話やブルースのベッシー・スミスの話なんかも出てくる。もちろんそれ以外にもたくさんのミュージシャンや楽曲や詩が出てくる。
洲之内さんはそれまでそんなに聞くことがなかった音楽をやたらめったら聞くようになる。お酒を飲みながら一日に十何時間も聞くのだそうだ。
そういうこれまでとは違うことにどっぷり浸かるのは私には不吉に思えてこれも悲しくなる要因のひとつになっている。


私はずっと以前から音楽と絵は似ていると思っている。
音楽が絵になって見えたり絵が音楽になって聞こえたりというのは洲之内さんが言うより前から私は感じている。
ついでに詩とか文章も同じようなものだと私は思っている。ナボコフの文章なんかは絵になったり音楽が聞こえたりする。

私の場合、音楽が絵になったり絵が音楽になったりしてインスピレーションを受けて創作したくなってそれで終わりなんだけれど、洲之内さんはもう一歩踏み込んできちんと理由を考える。だから洲之内さんの考察を読んでいるとなるほどなぁと感心ばかりしてしまう。
「絵が聞こえる」というエッセイの中にこうある。

 ”ゴッホもモーツァルトも、やっていることは同じなんだな、と私は思った。そこではロマン主義とか印象派とかリアリズムとか、その他何々とかいう言葉はもうあまり意味がない。そこに見えているのは、あるいは聞こえているのは超越的な観念のひとつである。荘厳、と私に見えたのはそれではなかったか。”

ふうむ、なるほどなぁ。説明しようとするとこういうことなんだなぁ。本当に洲之内さんはすごい。
やっぱり大好きだ。



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【トドを殺すな(友川かずき)】より

中原中也が弟と歩いているときに「ああいう風景を見ても、すぐスケッチしたり、言葉にしようと思うな。だまって感じていればいいんだ」と言ったという。友川さんは「その言葉が自分としては最高の教訓だ。いまだに、何歳になっても色褪せない。だいじにしている」と言う。
(中略)何かをどうかしようとするよりも、より深く感じること。感じる力を養うこと。─────私にとっても大切な言葉だ。

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【幸福を描いた絵(パブロ・ピカソ/アンリ・ル・シダネル/海老原喜之助/長谷川潾二郎/松田正平/チャールス・C・ホフマン)】より

何も、幸福というものは念の入ったものである必要はない。他愛はなくても、私が幸福ならそれが幸福だ。というよりも、先程も言ったように、幸福とは単純で、明瞭で、ついでに何か光っているようなものなのだ。

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【モダン・ジャズと犬(佐藤渓)】より

よくも悪くも時代は変る。それをとやかく言ってみてもはじまらない。芸術家は自分のその時代を生きなければならないのだ。むしろ、優れた芸術家は新しい時代を創る。変って行く時代の中で、自らもどう変って行くかが芸術の課題なのだ。その課題とシリアスに取り組んで行くことで、新しい芸術と新しい美が生まれる。(中略)古い美は滅びはしない。しかし新しい美も絶えず生まれてこなければならない。どんな時代にも、その時代ならではの美が生まれるのだ。

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【予告編・軍艦島(雑賀雄二)】より

廃墟となった軍艦島(端島)で私が見たものは風景なのか、歴史なのか、運命なのか、空間なのか、時間なのか。むつかしいことを考えだしたらきりがないが、島へ上がったその日、私はmず、廃墟とは人間の営為にだけあることで、自然には廃墟はないということを感じた。

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【限定放浪(峰村リツ子/登坂一遊)】より

あの手この手を使って人の目を惹こうとするような絵にはない、明るく澄んだ、一種の自足の世界を登坂一遊の絵は持っている。何かにじっと籠っている絵は、いつもこういうふうに美しい。

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【限定放浪(峰村リツ子/登坂一遊)】より

どんなに多くの絵かきになれない絵かきが、その生甲斐という言訳で絵を描いていることか。むしろ生甲斐なんて感じずに絵を描くことができたら、生甲斐を感じて描くよりも、絵かきとしては仕合わせだと私は思うが。

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2011/09/08

『人魚を見た人/気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮社)




以前、もっと早く洲之内徹の『気まぐれ美術館』に出会っていれば良かったと書いた。でも、今は、この年齢になってから出会って良かったと思う。
どうしてそう思うかというと、こういう本を10代や20代で読んだら、自分のことが分からなくなってしまったんじゃないかと思うのだ。
本に登場する画家たちのように生きなくてはいけないと思い、様々な画家のそれぞれの考え方に翻弄されてしまったんじゃないかと思う。

事実、10代の頃は絵をやるなら早死にしなくちゃいけないと思っていた。今では不治の病ではないが、結核ですと診断されれば何となくほくそ笑んでしまうような私だった。自殺未遂もしたし、年がら年中死にたいと思っていたし、狂気に駆られていなくてはいけないとも思っていた。幻覚や幻聴にも憧れた。
と、振り返ってみると、かなり病んでいる10代だなぁと思う(というか10代自体がそういうものなのかも知れない)。
それが20代になって、色々な経験をして、絵なんて私には必要ないと思った時期もあって、気付けばもう36歳。美しいと思うものも増えた。
今では早死にしたいなんて思わない。できたら長生きしたい。よぼよぼの婆さんになって絵を描いていたらちょっとカッコイイななんて思う。

人は人、私は私、と思えるようにもなった。本を読んでそこに出てくる沢山の画家の作品をただ素直に素晴しいと思える。自分も頑張ろうと思う。比較はしない。
たぶんそれは自分の目指す絵がある程度確立されてきたからだと思う。人と比較したって意味がない。観て学ぶことは大いにすべきことだけれど、その感動や勉強から先は自分との会話だけしかない。自分自身と対話することで絵が生まれる。才能がなくても私には絵を描きたい。私は私の感じる心を私の方法で表現するだけである。自分の身に起こった様々なことを糧として、自分を削り取っていくように真摯に真面目に取り組むだけである。

なんて、ちょっとカッコつけたこと言ってしまったけれど、
でも、本当に30代半ばになってようやく色々なことが見えてきたなぁと感じるのだ。
そしてそういう自分になったからこそ、洲之内さんの気まぐれ美術館が心にぐっと沁み入る。

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【ひたひたの水(井上員男 いのうえかずお さんの話)】より

折から風薫る五月で、野も山も緑に燃えているが、こういう植物の繁茂のない冬のほうが水が広く見え、葦の線が鋭くはっきり出ていいと井上さんは言う。私は、風に揺れる樹々の梢や、まだ伸びきらない今年の芽の上に突き出た去年の枯葦の穂が、明るい五月の空を背景に一斉に靡くのを見ながら、風景がなぜ景なのかわかったと思う。自然は生きて動いていて、それを動かすのが風なのだ。おまけにその風は、草の匂いや花の香りを運んでくる。水面を波立たせ、それを銀色に光らせたり、鉛色に沈ませたりするのも風ではないか。

井上員男さんの作品を見つけたので載せておきます→ http://www.nihonbijutsu-club.com/k.Inoue/?page=top

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【今年の秋】より

中村彝(なかむらつね)は光の描ける画家なのだ。物に光が当って明るい部分と陰の部分ができるという意味の光ではなく、まんべんなく空間を充たしている光、光があって物は見えるというその光である。
だから、描かれた物に存在感がある。物が存在する。

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【薔薇の手紙】より

私は正平さんと話しながら、絵を見るということの意味を考えた。正平さんの薔薇の絵を見るとき、私は薔薇の見方を教わっているのだ。そうではあるまいか。いい絵は、物の本当の見方を教えてくれる。

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絵のこと

ふと思った。
美術館は絵を見るところではなく勉強するところだよな、と。

美術館みたいに何枚も何十枚も絵が飾られていたら、1枚1枚の絵にきちんと向き合うことなんて出来ない。
でも、絵は、本当はじっくりじっくり向かい合わないとその絵が持っているものは分かってこないんじゃないかと私は思う。
自分が描いた絵もやっぱり、じっくりゆっくりじっと見て欲しいと思うし、そうすることでその絵の心(私というもの)が、じんわり浮かんでくるように思う。
だから絵を見るには「1枚じっくり」がいいと思う。

もちろん、そうは言っても、いい絵は一目でわかる。
美術館のように駆け足でサッサと見て行くような場所であっても、素晴しい絵はパッと見だけでこちらの心を掴まえられる。

私が美術館へ行くのは、直に自分の好きな作品を見ることにある(もちろん見たことがなくて見てみたいと思う場合もある)。
本物が持つ力というものは本物を見ないと分からない。
近寄って見て色やタッチや手法を勉強したりもする。
様々な作品を見ることは勉強になる。技術的な勉強というより、心の在り方の勉強になる。