2010/10/30

尾崎一雄、シェイクスピア



『昔日の客』の中に、尾崎一雄氏の名前が頻繁に出てくる。
そういえば実家で並んでいるのを見かけたなと思い、今回実家に帰ったので聞いてみた。
すると
「俺じゃないよ」と父。
「私も見た」と妹。
「俺じゃない」とさらに父。
「でも、見た」と妹と私。
結局、祖父のところだったので今回は尾崎一雄はやめにした。
代わりにシェークスピアを借りて来た。
父の本だからかなり色も変色している。開くと古本ならではの匂いがする。
新潮社のシェイクスピア全集、福田恆存訳、昭和35年発行で定価の「価」の字は「價」になっているくらい古い。
借りて来たはいいけど、追々になってしまいそうな気がする。

ドレスの試着

来年妹が結婚式を挙げる。
ドレスの試着に付き合った。

2010/10/26

書道



私は賞状技法士の免許を取るために通信教育で書道を習っているが、叔母も書道を習っている。
その叔母の通う教室の書道展が28(木)〜31(日)日の会期で麻布十番で開催される。
叔母から書道を習っているとは聞いていたけど、書道展を開くような類の書道だとは思っていなかったからDMが届いた時はちょっと驚いた。

私の方は11/21日に1級の試験があって受けるかどうか悩んでいたのだけど、やっぱり今年は見送ることにした。課題提出だけでも結構手一杯なのに、仕事が入っちゃったからちょっと無理かなぁ、と。
来年1級試験用の講座を取って、それで受ける。今やっている講座はこのままいけば3級はたぶん取得できるし。
というわけで今も提出課題と格闘中。

studio issai http://www.tanakaissai.com/school/

2010/10/23

『昔日の客』関口良雄(夏葉社)


東京大森の古本屋「山王書房」店主、関口良雄氏の随筆集。

天気の良い初秋の穏やかな日のような、木漏れ日がつくった日溜まりのような、そんな本だった。長閑なほっこりとしたあたたかさが包み込んでくれる。
いい本だなぁと思う。

日溜まりの温かさのような本であると同時に、ここには沢山の死が在る。その死が関口氏の語りによって何とも言いがたく心にぐっと染みる。

最後のあとがきは息子さんが書いてらっしゃるのだが、これがとにかく泣けた。
読んできた最後にやってくる話として最高の話だと思う。
これまであとがきを読んで泣いたことなんてない。本当に号泣した。後から後から涙がぽろぽろとこぼれて来た。

本当にいい本だなぁとしみじみ思う。買って読んでよかった。

2010/10/22

親知らずを抜いて来た


2時間ほど前に親知らずを抜いて来た。
今は麻酔が切れて顔の左全体が痛くなってきてる。頭まで痛い。
抜いた時は全然痛くなかった。麻酔の注射もそんなに痛くなかったし。抜く行為自体ものの3分ほどで終わっちゃって拍子抜けしたくらい。歯ってこんなに簡単に抜けちゃうんだ、ってちょっとびっくり。
で、私の親知らずを見て、先生が「かわいいね〜」って。何ですかそれ。歯にかわいいとかあるんですか!
で、記念に持って帰る?と言われたので、「ハイ」と私。
写真はかわいいと言われた私の親知らずちゃん。上の方は茶色いしひどい虫歯になってるただ汚い歯なのになー。

2010/10/20

『エクスタシーの湖』スティーヴ・エリクソン(筑摩書房/越川芳明訳)


読了。これもすごく面白かった。
この本は『真夜中に海がやってきた』に続く形をとるので、先ず『真夜中〜』を読むことをおススメしたい。
主人公も同じだし、前作の終わりからの続きの物語だし、他の登場人物や過去もそのまま投影されているから。

それからこの本の面白いところは、文章のレイアウトにもある。
段落、標準体と斜体、ページの使い方、文字組み、言葉の見せ方にすべてこだわっている。そうして全体で物語をつくり上げているところがとても興味深い。

水から掬い取った言葉を、










というように、まるで泡のように表現したりする。



この本は、女性の方が興味深く読めるような気がする。
<産道うんが>というキーワードがあり、カオスというキーワードがあり、
前者の指す命の連鎖と後者の指す命の喪失と、人間と世界と自然を渾然一体となした物語を、子供を護る母親を主人公にして描いているから。
生命の源は女性の子宮。赤い血、赤い狂気。喪失する青。

エリクソンの小説は、いつも私の創作意欲を駆り立たせる。またあとで読み直したい。


文中の引用メモはこちら→http://yomuxmemo.com/user/2389

2010/10/19

久しぶりに倒れた

昨日、朝から立つのがやっとというくらい体調が悪かった。
でも、歯医者の予約(親知らずを抜くという治療)が入っていたから歯医者に行った。
歯医者に着くともうぐったりして吐き気までして、自分の身体を支えられなくなった。
当然親知らずの治療は延期になり、クリーニングだけして歯医者を出て帰ることに。

歯医者を出て、家に向かおうと歩を進めてみたら、左足が思うように動かない。左の子宮が久しぶりに主張して左足を麻痺させているみたいだった。手足の先に感覚がなく、油断するとうっかりそこで倒れてしまいそうなくらい意識が朦朧とした。

途中でもう諦めて倒れてしまおうかと、膝と手を地面に付いて壁に寄りかかったりしたから、普段なら10分で行ける歯医者までの距離が45分もかかってしまった。途中で救急車を呼んでしまおうかとも思った。
でも、なんとか踏ん張って家へ帰った。玄関を開けてそのまま倒れて気を失った。

今日は、さっき買い物へ行こうと少し歩いてみたら、子宮全体がひどく痛んだ。天気が悪いせいか頭もひどく痛い。

心や身体の調子が悪いと、私の創作意欲はどうしてだか活発になる。
昨日は横になりながら何枚も頭に浮かぶイメージをスケッチした。
後から後からイメージが湧いて、絵を描きたくて仕方がなくなる。

2010/10/15

『エクスタシーの湖』スティーヴ・エリクソン(筑摩書房/越川芳明訳)


今、佐藤泰志とエリクソンを読んでいる。
佐藤泰志の方が一区切りついたので(海炭市叙景、移動動物園、きみの鳥はうたえる、黄金の服、鬼ガ島、そこのみにて光輝く、大きなハードルと小さなハードル、納屋のように広い心、を読み、何作かの詩とエッセイを読んだところ)基本的にはエリクソンをメインで読んでいる。

エクスタシーの湖という小説には「ヴィジョン」という言葉が出てくる。
それは文字通りであり、夢でありパラレルワールドであり、過去であり未来であり、意思であり記憶である。
とある場面、"十五分と経たない前に起こった出来事が「現在」に引き返してきた" りする。


自分の10代までを思い出す。
10代までの(実家住まいだった時までの)私は不吉なことだけに関する予知とヴィジョンを抱えていた。
音もなく玄関から入ってくる男性や、後部座席に座っている女の子や、夜ごとベッドの足元に現れる老婆や、寝ている私の身体の上で飛び跳ねる子供や、死んだはずの飼い猫とか、私の見る夢は現実よりもリアルだったから、それが夢なのか現実なのか分からなかった。
自分のいる世界は他のみんなと同じ世界であるはずなのに、私には他のみんなが見えるもの以外が見えたから時々自分の世界が分からなくなった。

ヴィジョン。エリクソンの小説を10代の頃に読んでいたら私はどう感じただろう。

実家を出てから私はヴィジョンを見なくなった。
夢と現実がごちゃ混ぜになることもなくなった。
見たいヴィジョンさえ見れなくなった。
原因不明の病や慢性的な頭痛がなくなり肉体的に健やかになった。

今思い出してみると、あの頃の自分は自分ですらないように思える。どこか別の世界にいる私のヴィジョンとしてのもうひとりの私。私であって私でない私。

何かを失ったのか、余計な何かが削ぎ落とされたのか、どちらにせよ10代の頃の自分を懐かしく思い出した。




2010/10/13

昨日のブログ

昨日ブログに書いたことを反省している。
読んでしまった人はどうぞ忘れてください。

クリムトの模写の絵

友達が買ってくれて送ったその後、その友達から飾ってある写真が届いた。
ちゃんと額縁に入れてもらって、壁に飾ってもらって、なんだか幸せそうに見えた。
一緒に送ったブックカバーも使ってくれているみたいで嬉しい。
また、布製のブックカバー作ろう。

先週、歯が痛くて歯医者に行ったら、親知らずの虫歯だった。簡易的な治療はしてもらったけどまた痛くなってきた。次の治療までだいぶ日があるから困った。
虫歯の親知らずは抜いても抜かなくてもどちらでもいいらしいが、やっぱり抜いてもらおう。
歯を抜くなんて20年ぶりくらいだからちょっとコワいけど。

2010/10/07

タイトルなし

動悸が早くなる。冷や汗が出る。呼吸が荒くなる。自分がいま、現実の社会に存在しているという実感が薄れていく。ねっとりと溶けた飴のように纏わり付く空気。私のまわりに透明なガラスが存在するかのように現実は音を失っていく。
何も考えていなくて、同時にひっきりなしに何かを考えている。

私は苛立ち、凶暴な気持ちになる。破壊的で残酷な衝動に駆られる。
何も考えていなくて常に何かを思い巡らせている脳は過去へ向かう。意識が過去へ向かうと私は増々現実に馴染めなくなる。心と意識と肉体がそれぞれに私から乖離していく。自分がいまどこに居て、現実に存在しているのかはっきりとしなくなる。

次第に私の心は、恋しいという感情で埋め尽くされる。何を誰を恋しいのかはわからない。ただ恋しいという心持ちでいっぱいになる。私は恋しくて恋しくて恋しくてたまらなくなる。心が震える。心が引き千切られそうになる。涙が零れる。誰のためでも何のためでもない意味のない涙は止めどなく溢れ出る。

それまで泣いていたことさえ覚えていないみたいに不意に突然涙は止まる。心がひりひりする。凶暴な気持ちが戻ってくる。凶暴な気持ちは外部には向かわない。私の目に映る外部は私にとって何の意味も持たない。ただのジオラマであり幻影であり過去だ。私にとっての唯一の現実は私のこの意識とこの心とこの不明瞭な肉体でしかない。私の狂気は私へ向かう。私は私を消し去るしかないように思う。私は恋しいという思いから逃れたいと思う。無意味な涙を流したくないと思う。

私は死について考える。考えるのではない、普段は遠いところにある死が、突然目の前に現れて私を凝視し続けるせいで死から目を背けられなくなる。死は何も言わない。何も言わずに私は恐怖のどん底へ陥れる。私は死という恐怖に取り憑かれる。真っ暗闇の中で深いぬかるみに嵌って身動きが取れなくなってしまったみたいに絶望的で圧倒的な恐怖に支配される。じわじわとした陰鬱な心持ちになる。ホラー映画や凶悪犯罪のニュースというのではない、本物の本格的な恐怖として死は私を捕える。

私は私の大切な人々が私よりも先に死んでしまうことを考える。そんなことは私には耐えられないと思う。それを回避するためには自分が先に死んでしまうより他に道はないのだと私は結論する。しかし死の恐怖はその結論を易々と実行させてくれない。私は大切な人を失う恐怖と自分が死を受け入れる恐怖の間で煩悶する。

2010/10/04

『オラクル・ナイト』ポール オースター (新潮社/柴田元幸訳)



恰好の読書ソファを得て、読書のペースが格段に上がってしまった。
最低限のするべきことをする時間以外の時間をソファで過ごしてしまう。
週末前に有隣堂@恵比寿アトレ店で、ポール・オースターの『オラクル・ナイト』を買っていたので、賞状技法士の提出課題を終えるとすぐに本格的に読み始めた。
相変わらずオースターはあっという間に読み終えてしまう。もっともっと楽しい時間の中にいたいのに、読み止めることもできずあれよあれよという間に終わりを迎えてしまう。

今回の作品もオースターのキーワードのようなものである(と、私が思っている)偶然と必然というところから物語が始まる。すべてのことに意味があり、その偶然は必然なのだとストレートに投げつけてくる。

たいていの人間はむしろ過去に行きたがるはずだという確信が募っていった。(中略)『オラクル・ナイト』のレミュエル・フラッグは未来を見て、それによって破滅した。自分がいつ死ぬのか、自分が愛する人にいつ裏切られるか、そんなことを我々は知りたくない。でも死ぬ前の死者のことばはぜひ知りたいと思う。生者としての死者に出会いたいのだ。p119


「言葉は現実なんだ。人間に属するものすべてが現実であって、私たちは時に物事が起きる前からそれがわかっていたりする。かならずしもその自覚がなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間、人の中にあるんだ。書くというのも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こらせることなのかもしれない」p218


物語が終わって、私は自分がニューヨークにいるような錯覚がしたくらい物語に没頭していた。部屋から出て現実の世界が目に入ってきた時ひどく変な心持ちになって、少し混乱して、現実に馴染むまでに時間がかかってしまった。
オースターの小説を読み終えてしばらくしてしまうと、オースター作品は私をこういう心持ちにさせてしまうのだったということを忘れてしまう。そうだ、明るくないんだった、喪失感とかカサカサした切なさが残るんだった、とまた一から思い直すことになる。
でもそれは作品としてちっともマイナスな意味ではない。今回の『オラクル・ナイト』も、とても素晴しかった。オースターの新たな試みによる構成は作品を意味深長にする効果があってよかった。内容も面白かった。