2013/03/29

『零から數えて』堀田善衛(文藝春秋社 / 1960)


 おもしろかった。おもしろくて貪るように読んでしまった。

 戦争を体験して、その後の激変する社会で生きたら、きっと自分の存在というものに、生きるということや死というものに、今よりずっと重きが置かれて当然だと思う。
 みんながみんな、それぞれがそれぞれの、内にしっくりこないものを抱いているのが当たり前だったと思う。

 現実社会の日常生活というものがとても危ういもので、それらのことにふと疑問の目を向けてしまったらそれまでの現実というのはぐらぐらとして、ヘタをしたら壊れてしまう。
 そういうのは今も同じかもしれないが、今より多くの人がそういう状態が身近だったと思う。
 みんな苦しかったと思う。
 忘却の本能をフル稼働して、眼の前の日常生活に没頭して、考えないように考えないようにしなければ生きていけなかったと思う。

 生とか死とか存在とかを考え始めたら自分の足下なんて薄氷になってしまう。
 現代の世の中だって、なるべくあまり考えないようにして生きるより仕方がない。だって、そうでなければ生きていけない。

 私にはすごく共感できたし、理解できるものが多かった。
 喋り言葉とか、気になるところもなくはなかったけれど、大事なところはしっかりとしていて、結果細かい事はどうでもよくなった。


*  *  **  *  *  *  *  **  *  *  *  *  **  *  *  *  *

5、4、3、2、1・・・・0───と逆に數えていって、0(ジロ)をひょんな機會に踏み越してしまった人の眼で見たら、これらのすべてはどんなに見えるのであろう。(p130)

「わたしはわたしを、どうしたら、よいのでしょうか」
 (中略)
「しかし、デーヴィッドさん、あなたが何の、どんな行爲(おこない)をしたのか知りませんし、それに、わたしはなんだか厭で、それを聞きたくもありません。が、それは餘程わるいことだったのでしょう。しかし、それを話すあなたの口調には、怖れがありません。怖れがないならば、どんな永生も決して罰にもならず、責任をどうとかすることにもならないでしょう・・・・」(p187)

「あの自殺をした先生という人ね、あれはやっぱり、計量器(カンカン)にかけてみるというと、生の側の方が零になっちまったんだね。きっと、死ぬことだけが絕對になっちまったんだろう、しかしいまとなってみるてえと、あの先生って人が、ばかにがっちり存在してるみたいじゃないかよ」(p235)