2013/10/17

『カラマゾフの兄弟』フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(中山省三郎 訳/iBooks)


電子書籍で読んだ。
iPadは灯り要らずだから就寝時に読むのにいい。

有名なのに読んでいない(もしくは読んだかどうか忘れた)作品で、無料だったり安かったりするものを電子書籍で読んでいこうと思っている。

物語とは関係ないことだけれど、ある文字(「扉」や「拳」他いくつか)が特大になっているのは電子書籍だからなのだろうか?
とくにその文字を大きくする必要はないと思う場面でもその文字が大きくなっているので、作者の意図とは思えない。それに珍しい字というわけでもない。
どうしてなのだろう、と、ちょっと気になった。

さて、読んだ感想は、日本語訳に違和感があった、というのがいちばんの感想。
若者が「〜かえ?」なんて言わないよ、とか、意味合いの違和感だったり、なんか言葉使いがいちいち引っ掛かって読みにくかった。誤字も割と多かったし。

ながーーい台詞のなかの支離滅裂感も読みにくくさせる。
もちろんそのながーーい台詞の中には非常におもしろいものもあるのだが、読む気がなくなるものもある。

私はゾシマ長老の話や、次男イワンの宗教論が良かった。作者が言いたい本質がわかりやすく提示されている。
父親フョードルと長男ドミトリイの台詞は読みにくかった。

おもしろかったという部分が2/3、入って来ない部分が1/3、という感じだった。


共感した部分を抜粋引用。

首をふらふらと左右に振るようなあんばいに掌へ片頬を載せたまま、歌でもうたうように女は言った。その口調がまるで愚痴をこぼしているようであった。民衆のあいだには無言の、どこまでもしんぼう強い悲しみがある。それは自己の内部に潜んで、じっと黙っている悲しみである。しかし、また張ち切れてしまった悲しみがある。それはいったん涙と共に流れ出すと、その瞬間から愚痴っぽくなるものである。それはまことに女に多い。(p137-138)

「(前略)その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もうどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風邪を引いていて、ひっきりなしに鼻汁(はな)をかむからといって憎らしがる。つまりわたしは、他人がちょっとでも自分に触れると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり、個々の人間に対する憎悪が深くなるに従って、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる』と、こういう話なのじゃ」(p168-169 ゾシマ長老の話より)

自由とパンとはいかなる人間にとっても、両立しがたいことを、彼らはみずから悟るだろう。(p831 イワンがアリョーシャへ語る物語より)

もう十五世紀も過ぎたのだから、よく人間を観察するがよい。あんなやつらをおまえは自分と同じ高さまで引き上げたのだ。わしは誓って言うが、人間はおまえの考えたより、はるかに弱くて卑劣なものなのだ!いったいおまえのしたことと同じことが人間にできると思うのか?あんなに人間を尊敬したためにかえっておまえの行為は彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。それはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したからである。これが人間を自分の身より以上に、愛した、おまえのなすべきことといえるだろうか?もしおまえがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。(p839-840 イワンがアリョーシャへ語る物語、老審問官がキリストへ語る場面より: この、イワンの語る部分が、いちばんおもしろかったという印象)