2014/03/27

太宰治の読書感想

いくつかの太宰治を読んで、少し前の日記に「今読んでみると太宰は、云々」と書いたことがまるで違うように感じられてきた。
おかしなことだけれど、太宰はちっとも暗くない。全くまるでわかっていなかったことを恥じるばかりで、益々考えを公にするのが怖くなってしまう。

今のところ読んだのは、
『風の便り』『千代女』『女の決闘』『冬の花火』『皮膚と心』『正義と微笑』『愛と美について』『如是我聞』『東京八景』『駆込み訴へ』『ダス・ゲマイネ』『お伽草紙』『女生徒』『パンドラの匣』

とくに太宰への考えが変わるに至ったのは『風の便り』『正義と微笑』『パンドラの匣』。
手紙や日記という独り語り形式で、とてもおもしろかった。

『風の便り』は作家ふたりの手紙という形の小説でとても共感するところが多かった。
太宰自身の2つの面を現しているように思えた。

生きる事は、芸術でありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。(中略) 創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、「正確を期する事」であります。その他には何もありません。(p21-22)

あなたに限らず、あなたの時代の人たちに於いては、思惟とその表示とが、ほとんど間髪を入れず同時に展開するので、私たちは呆然とするばかりです。(中略) あなた達は、言葉だけで思想して来たのではないでしょうか。思想の訓練と言葉の訓練とぴったり並走させて勉強して来たのではないでしょうか。口下手の、あるいは悪文の、どもる奴には、思想が無いという事になっていたのではないでしょうか。だからあなた達は、なんでもはっきり言い切って、そうして少しも言い残して居りません。子供っぽい、わかり切った事でも、得意になって言っています。それがまた、私たちにとっては非常な魅力なものですから、困ります。私たちは何と言ってよいのか、「思想を感覚する」とでも言ったらいいのだろうか、思惟が言葉を置き去りにして走ります。そうして言葉は、いつでも戸惑いをして居ります。わかっているのです。言葉が、うるさくってたまりません。(中略) 思惟と言葉との間に、小さい歯車が、三つも四つもあるのです。けれどもこの歯車は微妙で正確な事も信じて下さい。(p39-41)

いかに努めても、決して及ばないものがある。猪と熊とが、まるっきり違った動物であるように、人間同士でも、まるっきり違った生き物である場合がたいへん多いと思います。猪が、熊の毛の黒さにあこがれて、どんなにじたばたしたって、決して熊にはなれません。(p60)

60ページの引用など、実に巧いと思う。ありきたりのよく言われる事でもちょっとした言い方次第で新しくなったり親しみを感じたりする。

太宰は新しい文學に取り組もうとしていたというのが今回読んでみてよく分かった。
新しいスタイル、新しい文章、新しい題目、様々の新しいことをやってのけている。
そしてこういう人から見たら、これまでの純文学というのは何とも歯がゆいものに思えたであろうことも推察できる。
『風の便り』は、古い作家と若い作家との手紙のやりとりで、そのどちらの言い分も太宰は持ち合わせていたのだろうと思う(もちろん私たち読者にもふたりのどちらも分かる)。
矛盾する気持ちを書こうと思うところがすごい。そして様々な考え方があるという形式の小説であることもすごい。
本当に何から何まで現在にしてもなお新しく、おもしろい。


『正義と微笑』『パンドラの匣』はふたつとも若い少年が語り手で、前者が日記、後者が手紙の形の小説。
ふたつ共に成長してゆく少年の清く澄んだ姿にハッとさせられる。

『パンドラの匣』では、
「君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。」(p11)
と、最初は言っていた少年ひばり(手紙の書き手で語り手)が、結核を治療する施設で日々成長していく。

人は死に依って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きてい動いているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。(中略)
けれども、君、思い違いしてはいけない。僕は死をよいものだと思った、とは言っても、決してひとの命を安く見ていい加減に取扱っているのでも無い(中略)僕たちは、死と紙一枚の隣合せに住んでいるので、もはや死に就いておどろかなくなっているだけだ。(中略)これまでの手紙を見て、君はきっと、(中略)僕の周囲の空気だけが、あまりにのんきで明るすぎる事を、不謹慎のように感じたに違いない。しかし(中略)僕たちの笑いは、あのパンドラの匣の片隅にころがっていた小さな石から発しているのだ。死と隣合せに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。(p60-62)

芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力をして汗を出し切った後に来る一陣の風だ。(中略)君、理屈も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(p214)

こんなものを書いていたなんて本当に驚いた。ダメな男ばかり書いているのかと思っていたら、蕾のような少年も書いていたなんて。そしてこっちの太宰はとてもいい。
30代後半の私には、10代の生に満ちた、春のような少年の姿がとても気持ちよく映った。終ってしまうのが惜しいくらいだった。


どれも興味深かった。全部の感想を書くとおそろしく長い日記になってしまうので、いくつかだけちょこっと言うと、
『お伽草紙』は、瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀、という昔話に太宰風物語を加えたもの。とってもおもしろかった。中でも浦島さんとカチカチ山がよかった。
カチカチ山の狸と兎が醜男とアルテミス型の少女という解釈で、醜男がアルテミス型少女に惚れたという解釈は実におもしろかった。

『女の決闘』は、森鴎外の翻訳『女の決闘』を膨らましたもので、試みがおもしろい。

『如是我聞』は、年配作家への悪口。調べたら「死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発行されたものらしい。こういうのを出すというのがすごい。

どれもこれも発想が素晴しい。拘って読み物を作っているというのが分かる。随所に小説とは、藝術とは、というようなものも出て来るし、私小説でないにしろすべての作品に太宰治という人間がある。
どれもよかったけど、やっぱり『パンドラの匣』がなんだか爽やかで良かったなぁ。