2011/08/27

『セザンヌの塗り残し/気まぐれ美術館』洲之内徹(新潮社)





今回は読むのにだいぶ時間がかかってしまったせいか良かったという印象が薄い。
それに実際にシリーズの最初の時と比べると作者が老いと死に敏感になっていることや、自身のことを書き尽くした感もあるかもしれない。前にも書いたが、というようなことも多くなっている。
もちろん、それでも8割は面白いのだけれど、どうも最後の方に読んだおいらん丸についての3作がしんどかったのがきいてしまっている。

::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: 

【手甲をする裸婦(加藤丈策さんの話)】より

 加藤さんは、写生はしないのだという。特定の人物の顔をそのとおりに描くだけの腕は自分にはないし(と、加藤さんがご自身でそう仰有る)、それに、写生しているうちに、感動が消えてしまう。勿論はじめに特定の感動を受けるが、その顔をはっきりとは思い出せなくなり、忘れた頃になって描く。顔の絵のどの顔も、そうやって描いたのだそうである。
 話を聞いて、私はまたびっくりしたが、いい話を聞いたと思った。写生と写実はそこがちがう。写実の基底には感動がある。感動がなければ写実はないのだ。

::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: 

【眼の中の河(寺田政明さんの話)】より

 寺田さんのアトリエは寒い。しかし、ときにはわざと足袋を穿かずにいるというようなことがある。そうやって自分の寂寥感と対い合う。「何かひとつ耐えて行こうとするかたち」で、つまり仕事のための発条(ばね)なのだ。絵を描くためにはそれが要る。「それが詩ですよ」とも寺田さんは言う。

::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: 

【無学のすすめ(長谷川潾二郎さんの話)】より

 棚によせ掛けて、床の上にじかに置いてある六号くらいの、横長の海の絵が目にとまって、手にとってみた。おそらくは戦時中、ひょっとするともっと前の古いものだが、どうしていま頃、この絵がこんなところに出してあるのだろう。
「これ戴けませんか」
「いいですよ、お気に入ったら持っていらっしゃい」
 定規を当てて引いた細い鉛筆の線で、画面に碁盤の目が入っている。これがあるので売り物にならないと思っていた、と長谷川さんは言うのだ。別の、もっと大きなカンバスにこの絵を移そうと思って、二度やりかけてみたが、二度とも失敗した。もう諦めたから、私さえよければ持って行ってくれ、というのである。
 その絵はある日伊豆の海岸で、砂の色があまりにいいので、その砂と海と空とをその場で描き、貝殻だの海藻だの、流木などはあとから順々に書き入れて行ったのだそうである。ところが、別のカンバスに描き直そうとすると絵にならない。
「でしょうねえ、この絵ではそれは無理かもしれませんねえ」
 この頃、私は考えていることがある。絵というものの原則は単純で簡単なものである。描く人の心が絵の中に入っているかどうかだ。絵が絵であるかどうかはそれで決まる。しかし、簡単な原則を実現することは簡単ではない。長谷川潾二郎ほどの人でもそうらしい。

::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: ::: ::::: ::::: ::: :: :: :::