2012/01/10

ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(上・下)(藤村昌昭訳/文藝春秋)





エーコらしい、遠回しで、ねちっこくて、くどくどした小説。

面白いかどうかという前に、最初から最後まで気になったことを言っておこう。
とにかく日本語訳がどうにもしっくりこなかった。気持ち悪いくらいに合っていないと私は思う。あまりにも古くさい言い回しの日本語が多い。

例えば、「ユダヤの顔も二度三度、と言ってるかと思ったら、すぐにアバタもエクボ」(下・282p)
こう言われると意味がわかりにくくなる。もっと他の適切な文章があると思う。

他にも「恐れ入谷の鬼子母神、さあ、殺したけりゃ殺すがいい」(下・538p)
って、ヨーロッパでイタリア人が主人公という小説に相応しい台詞とは思えない。

こういうのが多過ぎて何となく残念だった。


さて、本題。感想。

これぞ想像力!と言わんばかりの内容で、本当にスゴイ。
でも、スゴイけれどつまらなかった。上下巻にしなくてもいい。言いたいことはもっと短くても成り立つ。
まぁ、その無駄と思える部分がエーコらしさ(良さ)ってことなんだけど。

それで、読み終える頃にはくだらない、つまらない、と思っていたのに、深く胸の内に何かがひっかかって残る。
だからエーコはスゴイのだ。
9/10がつまらないように思っても1/10で逆転させられてしまう。

ひっかかる何かというのは、哲学的で論理的なものかもしれないし、物理や科学かもしれない、一生をかけて研究をするようなことの断片。その欠片。

キラリと見えた部分を掘っていけば、磨いていけば、その全貌が見える。掘ることはそれは出家や修行かもしれないし、磨くことは研究かもしれない。

とにかく、今ここで私が簡単に言葉にできるはずのない事柄の欠片を感じるのである。

歴史とは如何なるものか、真実とは、秘密とは。
発見、発明、証明、すべての知について。
社会、世界。 人生、生命。


この小説の概要に相応しいと思う(私が勝手にそう思うのだが)箇所を引用しておく。

このことは、東日本大震災後にそれに関することで様々に意見をしている人々の多くに当て嵌まるところがあるように私は思う。

正義のように見える責任の擦り付けばかりの現代の日本は、まさにこの小説のようだと思う。

何も信じないから何でも信じてしまう、知らないということを知らない人間にはならないようにしたい。

 毎日の生活にしたって然り。大恐慌やブラックマンデーの群衆心理がその典型。一人一人が誤った判断で行動するから起こるので、それぞれの誤った行動が一つにまとまって全体をパニック状態に陥れるのだ。それから意志薄弱な人間が怪しむ。いったい誰がこの陰謀を企んだのか、誰が得をするのか? そして最後に、陰謀を企んだ奴を見つけなかったら承知しないぞ、と脅す。それをお前は自分の責任だとでも言うのか。それとも責任を感じているから、お前が陰謀をでっちあげるのか。それも一つじゃなくていくつも。しかし、その陰謀を叩き潰すために、今度は自分の陰謀を企てなければならなくなる。それにお前が自分の理解のなさを正当化するために、他人の陰謀を知恵を絞って考えれば考えるだけ、その陰謀の俘虜(とりこ)になり、結局は連中と同じ土俵で相撲をとることになってしまう。それだったら、あのイエズス会やベーコン派やパウロ派や新テンプル派のあいだで、誰もが皆『計画』の責任を相手に擦りつけたのとどこが違うのだ。(下・506pより)