2013/01/27

『新潮現代文学 29 堀田善衛』(1950 新潮社)



 『ヨーロッパ・二つの窓』(加藤周一共作)を読んだことで堀田さんを知り、その後スペイン旅行することになったことで、スペインと関わりの深い堀田さんに興味を持った。

 堀田さんの作品『広場の孤独』『橋上幻像』は海外文學っぽいなと感じた。

 『橋上幻像』の序盤はちょっとカルヴィーノの『柔らかい月』に似ていると思った。

性の経験は、あれはね、たしかに生きていることの一回一回の実証ではあるでしょうけでど、あれは一回一回の死の経験なのじゃないか、と、ね。死というのがもし言いすぎなら、死にもっとも接近した経験なのじゃないかと思ったの、(中略)死にもっとも接近した経験でなかったとしたら、人生でこんなにもその一回一回を忘れないで記憶している筈がないと思う。人生での最終的な、最大の経験は、結局、死、でしょう。だから・・・。コイタスの後、人は悲し、って言うでしょう。なぜ悲しいか、意識というものをもたされた人間ってこともあるけれど、なぜ悲しいか、それはね、それ以上のこともそれ以下のこともないからなのよ、死そのもののようにね。(『橋上幻像 第一部 彼らのあいだの屍』より)

 男(四郎)と女(みどり)が屍について語り合うところから私はちょっと現実から離れ始めていた。そして上記のセリフを読んだとき、不意に私のパンドラの箱が開いて、頭の中に様々な色々なことがなだれ込んで来て、活字から離せない眼を無理矢理引き剥がし、慌ただしく日常行動をとって自分を無理矢理現実に引き戻した。
 ほんとうに愛している人とのコイタス(coitus)というのは、悲しさがある、と私も思う。思うというか事実としてそう知っている。私はいつも死んでしまいたいと思った。それは幸福の反動なのかもしれない。けれど、いつも、悲しくなって涙がこぼれて死んでしまいたいと思った。どうしてそうなのか分からなかったのだが、このセリフを読んではっとしたのだ。
 色々なことがぐわっと押し寄せて来て、ちょっとパニックになった。
 怖くて続きが読めなくなった。
 毎日死について考えるような、過去に様々なものを抱えているような人には、四郎とみどりのやりとりはいけない、と思った。
 しかし、この部分を過ぎてからは全く普通に読めて、思ったことをその時にメモしていなかったらそんな気持ちになったことすらすっかり忘れてしまっていたと思う。

 この部分は、たまたま堀田さんの作品にあったというだけで、他のものを読む限りこれが堀田さんの作品の常であり堀田さんの作品を言い表わしているとは思わない。


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 『方丈記私記』もおもしろかった。

 私は大学時代は中世日本文学を専攻していたのだけれど、ほとんど中世日本文学作品を読んでおらず『方丈記』も読まなかった。

 『方丈記』は、誰もが知っているその冒頭

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」

 しか知らず、この冒頭から推察して、無常やあはれについて書かれたものだと思っていた。

 ところが、堀田さんのこの『方丈記私記』を読んで、『方丈記』は思っていたものとはまるで違うものだと知り、『方丈記』を戦中戦後との比較で論じられると、「へぇ〜」と思うことや、「などほど」と思うことだらけで、『方丈記』を分かりやすく且つ興味深く理解できた。

 古都はすでに荒れて、新都はいまだ成らず

 という方丈記の中のことばが何度も取り上げられているが、これは戦前・戦中・戦後の時代を生きた堀田さんにとって実感できることであったのだろう。そして、東日本大震災を体験した今の私たちにとっても『方丈記』は実感できるところが多いにあるのではないかと思う。

 『方丈記私記』は堀田善衛さんの『方丈記』講義を受講しているような気分になった。
 人の心ということにとどまらず、政治や災害ということにまで着目していることと、鴨長明自身について深く読み込んでいるのが興味深かった。



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 『ゴヤ(『黒い絵』について)』は、堀田さんのゴヤについての作品の中のほんの一部で、いつか全4巻を読んでみたいと思った。