2013/12/17

ターナー展 @上野・東京都美術館

ターナー展図録

若い頃はターナーに興味がなかった。
20代前半、ロンドンのテートギャラリーでたくさん見たはずだけど、その時の印象は「地味な風景画の人」というくらいのものだったと思う。
海を描いたものはいいなと思ったが、特に好きというのにはならなかった。

年々好きな絵が増える。印象派もそうだ。若い頃は大嫌いだった。
長閑な風景に明るい色彩、白い肌に赤みを刺した頬、そういうのは反吐が出るくらい苦手だった。
それが今では印象派を美しいと思うのだから不思議だ。

絵を描く側から言うと、絵には人生が出ると思う。
そしてそれを受け止める側の人生によっても見え方は異なるものだと思う。

10代の頃の私は自然の美というものに目を向ける余裕が全くなかった。10代というのは大体そういうものだと思う。
それは決して悪いことではない。若い頃は若い頃の大人になったら失ってしまう色々なものを持っている。
10代の頃のあの感性を懐かしく、さらには取り戻したいと思うこともある。
しかし時間は過ぎ私の人生には様々なことが起こり、社会や人間に対する尖った感情よりも自然の美しさから得る感情や本質的な愛というものの方が私の心を占めるようになってしまった。まぁそれはそれで成長した証でもあり、悪くないとも思う。


最近になってターナーの絵に美しさを感じるようになっていたので、若かりし日にロンドンで見過ごしたターナーの大回顧展に行きたいと思った。

『レグルス』
※掲載写真は図録のものです。
私が見た印象に近づけるために色補正しています。

 私が最も見たかったのは、『レグルス』と『戦争、流刑者とカサ貝』『平和 ─ 水葬』である。
実際に見て、両方ともとても素晴しかった。色使いの素晴しさと色の美しさに感動した。

『レグルス』は構図もいい。
左手前面の船のシルエットが効いている。
ターナーはピクチャレスクに倣っていたせいか、物語性のある構図が巧いように思う。

レグルスの物語、瞼を切り取られ暗闇から外に連れ出されたレグルスが失明する最後に見た光景という物語がまさにこの画面にある。


残念ながらこの図録はかなり色が悪い。全体的に浅く、深みがない。これではターナーの良さが伝わらない。いや、会場が暗いせいで私の見たものの方が嘘なのかもしれない。

私は会場で作品を見ながらメモを取る。見た時の印象や色彩の配置など色々を書き留める。
帰宅してこれを書くためにそのメモを見ながら図録を見返してみたのだが、図録を見ると何故メモではそんなに感動しているのだろうと思ってしまう。
だから図録で『レグルス』を見てもちっとも感動しないし、却って本物の感動が薄れてしまうようで実に残念に思う。

今、ふと思い出したのだが、プラド美術館でも『レグルス』のような作品を見たような気がする。その前で立ち止まった記憶がある。誰の作品だったのかはさっぱり分からないし、気のせいかもしれない。しかしつまり私はそういう劇的な光と海を描いた作品というのが好きなのだと思う。


ターナーは印象派に先駆けた人と言われるが、ターナーの強烈な光は印象派とはまるで違うことを今回まざまざと感じた。
私の勝手な印象として、ターナーの光には悲しみがある。
印象派の光は自然そのものなのに対し、ターナーの光は自然のものでありながら人の人生を感じる。


私はやはり、ターナーの海がいい。
山の景色のターナーより私は断然海や水面の景色のターナーの方が好きだ。
海の、波の描き方はターナーが一番優れているように思う。
画面を削ったり筆痕を生かしたり、もちろん色彩においてもターナーの海はやっぱりすごいと思う。

スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船


『スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船』という大きな作品では、船の緻密な細い線とダイナミックな波の絵の具の動きの対比による美しさと、穏やかな空と荒々しい海の対比による美しさを感じた。

海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画)
ターナーの描き出す、光にきらめく水面の美しさに私は何度もうっとりとした。

『海より望むフォークストン(版画集『海景』のための原画)』は、白い月明かりが細かな波の陰影によって冷たく煌めいてとても美しかった。


『戦争、流刑者とカサ貝』の赤とクロームイエローに反射する水面、『平和 ─ 水葬』のアッシュグレーの夜の水面に映る船の黒と炎のイエローが生み出す静けさ、どちらも心の痛くなるような悲しみを感じる美しさがある。
『戦争、流刑者とカサ貝』『平和―水葬』