2010/11/16

『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー(早川書房/村上春樹訳)


絵と小説は似ている。どちらも純粋に直感的に好き嫌いが出る。しかし、生み出した人物の像、意図、時代背景、生きた土地、そういうものを知るとまた違って見えてくることもある。

レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』、ティム・オブライエンの『世界のすべての七月』は村上春樹氏のあとがきを読んで、より理解を深めるところの多い作品だった。

主人公であり物語の目となるフィリップ・マーロウ。私は読み初めからこのマーロウに違和感があり、どうにも居心地が悪かった。それは私が普通の人物としてマーロウを捉えようとしていたからである。普通に読むように、知らず知らず主人公マーロウの人柄や考え方に共感したり思いを寄せる何かを見つけ出そうとする読み方をしていたから、マーロウという人物が掴めないというのは些か心地が良くなかったのだ。

マーロウは主人公であり語り手である。しかしマーロウは
実在していないし、実在できない。彼はひとつの行動の人格化で、ひとつの可能性の誇張である。
あくまでも「視点」であり、生身の人間というよりはむしろ純粋仮説として、あるいは純粋仮説の受け皿として設定されている。(あとがきより引用)
 このようなあとがきを読んで(本当はあとがきを全部抜粋しないと分かりにくいかもしれないのだが)それですっかり納得し、さらには興味深い良い作品だという感想になった。


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それから、あとがきで村上氏も作品の中の寄り道の文章、細部の文章が好きだと仰っているが、私も同意見である。村上氏はその例えとして金髪女の描写について挙げているが、私は鳥の出てくる部分の描写が気に入っている。
スタンドを消し、窓際に腰を下ろした。茂みの中で一羽のモノマネドリが何度かトリルのおさらいをし、その見事さに自分でもうっとりしてから夜の闇に身を落ち着けた。(p99)
というような文章がふんだんに盛り込まれている。きっとこういう寄り道の文章がなければただのミステリ小説になってしまうんだと思う。