2012/03/21

串田孫一自選『山のパンセ』岩波文庫




 《 その頃私は、物そのものよりも、色や光の組み合わせによって風景を見て、またそういう印象を強く残そうとしていたためなのか、西に廻った太陽からのやわらかな橙色の陽光による、あたり一面の、かすかにほてるような、あるいは恥しさのための赤らみのような、その色合いが私に何か物語をきかせているようだった。
  それは改めて私から人に語れるような筋を持ったものではなく、私をその場所で深く包み込んで行くような物語だった。》(「山村の村」より)


 串田孫一さんの文章は気持ちがいい。好き。


 自然は美しい。だから、自然の中に身を置いて語る串田さんの文章も当然美しい。
 自分の前に自然が広がっているような気持ちになる圧倒的な自然の姿がある。


 最近、私は自然の描写が(太陽の光や空や木々などの色彩の描写が)好きなんだと気付いた。
 そういう文章を読んでいると幸福な心持ちになって、生きていく力が湧く。
 生きていく力なんて大袈裟な!と言われるかもしれないが、事実私はほんとうに生きていく力をもらう。


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 後半にいくとちょっと内容が変わる。それまでは実際の山に居る串田さんと眼の前に在る自然の様子が描かれているのに、詩のような擬人化された山の様子を描いた文章になる。
 自然に対して、作者自身の心に対して、随想的な感じになる。
 私は本来そのような文章が好きだからそれはそれでいいのだけれど、山登りをしている日記のような前半が結構気に入っていたので後半の方はちょっと残念な気持ちもした。もちろん慣れてくればそういう文章はそういう文章でいいのだけど。


 作者の串田さんのプロフィールには詩人、哲学者とある。
 後半は、私がイメージする詩人や哲学者というものにぴったりと合う文章。
 たとえば、
 《 岩は、人間の測定の能力からも想像からも遥かに超えた力の死骸である。宇宙を駆けめぐっていた一つの力は分裂し、呼び合ったりはじき返されたりしていたが、いつしか消え落ちる火花のように、他の一層強烈な力に組み伏せられて失神し、そのまま動きを止め、次々に重なり合った、そういう力の死骸である。「岩の沈黙」より)
 これなんかは哲学的だし、


 《 電灯を消して、寝床に入ると、外で蛙が鳴いていた。激しい鳴き方ではなく、途切れ途切れに絶望的な、溜息のような声だった。どうしてまたこの一匹だけが、それも狂ったように鳴くならばとも角、まるでこの世界の空しさを、こぼれるように嘆く声が私には変に気になった。(「堆積」より)
 こちらはちょっと詩的。


 《 岩山ま少しずつ崩れ、春の雪崩とともに、表面の石を落として行く。大気は山の緑をうるおすが、岩を風化させ、僅かずつ亀裂を大きくし、あたかもそれが不要な部分となったもののように、大きな岩塊を谷に落とす。それは山の全体の姿を変えなかったようにも見える。
 しかし岩山は次第にやせ細って行く病めるもののように焦燥をおぼえることもある。その岩稜は皮膚のないむき出しの骨である。その胸壁も、もうこれ以上落ちるものもない一枚の骨である。(「崇拝と礼賛」より)
 串田さんはこういう風に山を見る。
 私はたぶんこれから山を見る目が変わってしまう。


『私の、山についての非体系的地理学も少しは進んだつもりなのだが、この口調は人を眠らせる要素が強すぎる。』
 と、串田さんは書いているけれど、そんなことはない。確かに何ページにも渡って続くとキツいかも知れないが、串田さんの文章は何しろ短い。数ページで終るものばかりだから眠くなったり飽きたりしない。その短さがいい。


 とてもいい本だった