2012/08/13

『私小説 ーわが青春の文学と性の遍歴ー』池田満寿夫(文藝春秋)



私が池田満寿夫さんを好きになったのは長野にある池田満寿夫美術館へ行ったのがきっかけだった。何年前のことかは覚えていないがかなり前だ。その美術館で満寿夫さんの作品を見て受けた衝撃はよく覚えている。
美術館へ行くまでの私は、池田満寿夫という人は知っていても作品についてはあまり知らなかった。そしてあまり好きに思っていなかった。
しかし母親に誘われて池田満寿夫美術館に行き、そこで見たヨーロッパ風の作品で(ヴェネツィア・ビエンナーレで受賞した作品のような画だった)私はいっぺんに池田満寿夫を好きになってしまった。
「なんて素敵な線!なんて素敵な色み!」と、血の気が引き、ぼおっと立ちすくんだのを覚えている。私の体と世界が乖離して足が地面についていないように感じた。
そしてここから私の版画熱も生まれたように思う。この美術館で版画についての実用書的な本も買った。
それ以来「池田満寿夫」という文字に反応するようになり、古本屋で『エーゲ海に捧ぐ』を見つけて読み、文章を書く池田満寿夫も好きになった。

満寿夫さんと私は結構感覚が似ているように思う。先に読んだ『思考する魚』は付箋だらけになり、同じように思うところが沢山あった。共感できるから好きなのだと思う。
この本『私小説』でもやはり同じように共感するところが多かった。
たとえば太宰治について。高校三年の時にとりつかれたとあったが、私も高校三年の時にとりつかれた。満寿夫さんは
多分太宰の敗北の思想が私の共鳴を呼んだのであろう。「人間失格」、私は自分の自画像を眺めているようにさえ思った。ワタシハ猿ノヨウニ醜カッタ。そんな「人間失格」のフレーズが私のふさぎ込んでいた心に、妙に甘ったるく、やるせなく響いた。
と書いている。私の方は太宰の『斜陽』で号泣したのを覚えている。きっと太宰の文学というのは十七、八の若い心に響くのだろう。
どうしたって切れない血の繋がりというものに気も狂わんばかりだった高校生の頃、血の繋がりを絶つためには死ぬしかないと思い詰めていたあの頃、私は、暗く人間臭く現実味をもってある物語というものに惹かれていたのだが、それを言葉でなんと言えばよいのか分からなかった。そこへ満寿夫さんが言葉をつけてくれている。
満寿夫さんは太宰だけでなく芥川龍之介も萩原朔太郎も好きだったのだが、私も芥川と萩原は好きだった。大学の卒業論文は芥川についての考察だったし、萩原の世界も中学生の頃ハマっていた。
芥川、萩原、太宰。この三人に共通するものがあるとすれば、それは「憂愁」であった。別な言葉におきかえると芥川は「寂」であり、萩原は「メランコリー」であり、太宰は「淋しい」であったかもしれない。そして、共に敗れた人たちである。芥川は自らの "才気" に敗れ、萩原は "家" に敗れ、太宰は "時代" に敗れた。少年にはそれは素晴しい敗北に映った。彼等の「憂愁」にはフランス象徴詩人たちによって発見された近代精神があった。世俗にさからう貴族精神と、群集のなかの孤独と、新しい芸術潮流に鋭敏な感覚とがあった。また彼等はなによりもボードレール的な病める精神を識っていた。芥川は "病理学的" に、萩原は "精神主義的" に、そして太宰は唯 "病的" に病んだ。
敗北の美学か。なるほど、そうだなぁと思う。


次にはカミュの『異邦人』が出てくる。やはり私も同じようにこちらも高校生の時に読んで衝撃を受けた。
満寿夫さんは『異邦人』について、「思考する感覚」ともいうべき概念を教えられたと書いている。
カミュの文体は私の感覚に五発の銃声を炸裂させる効果があった。この小説をはじめて読んだ時の衝撃は、勿論文体だけによるものではなかった。不条理といういままでは知らなかった哲学的な概念が、小説という形式のなかで、ムルソオによって語られている点にあった。
この不条理の概念から満寿夫さんは哲学にも手を出し、サルトルの『実存主義とは何か』を読んでいるが、そのあたりは私とは違う。『異邦人』を読んでも私は全然哲学の方に行かなかった。カフカの『変身』や三島由紀夫の『金閣寺』の方に行った気がする。
向かった方角は違うが、自分が思っていたことと同じことが書いていてびっくりした箇所がある。カミュとクレーがどこか似ているように思えて仕方ないというのである。私も感覚的に「似ている」と感じる。 私はカミュの本をイメージするとどうしてだか装幀にクレーの画が浮かんでしまう。


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後記に作者自身でも書いているが、
<各章によって文体や主題に一貫性がない。はじめの頃は作家論か作品論にもっと重点をおいて書くつもりであったが、だんだん自伝的要素の方が多くなっていった。>
という本作品において、私は作家論や作品論をメインにしている最初の数章が好きだった。自伝的要素が多くなる文章ならば『思考する魚』の方がずっと面白く興味深い。
ヘンリー・ミラーについての最後の2章はもう全く遅々として進まなかった。