2012/12/26

『かげろふの日記遺文』室生犀星(講談社)


とてもおもしろかった。

 ベースはもちろん藤原道綱母の『蜻蛉日記』なのだが、まったく別の物語になっている。
 知と才と美を兼ね備えた道綱母(紫苑の上)より一途な女の愛を捧げる冴野の方が目立っている。
 当然作家であるから文學の素晴しさを否定するようなことはないが、主人公は紫苑の上ではなく冴野で、まるで冴野と兼家の恋愛物語のような印象になっている。
 
 室生犀星は自分にあまり学歴のないことや、生き別れた生みの母親への思いからか、女性に対する目が他の作家とは少し違って思える。
 多くの男性作家(女性もそうかもしれない)は、知的で頭が良く美しい女性を好しとするような気がするが、室生犀星はそういう女性より、ただ甘く柔らかい愛情のかたまりのような、匂い立つ花を思わせるような女性を好んでいるように思う。女は女であるだけで美しいというのが室生犀星のように思う。


 ね、冴野。紫苑の上に私といふ人間がゐなかつたら、和歌や文章を書き綴るといふ所には、紫苑の上の心は向きあつて往かなかつたであらう、私といふ一人の男のすみずみを見渡し、それを遍くうたひ上げるために、私はその生き方を、終始、寫し出されてゐるやうなものなのだ。私の生きてゐることは彼女の文學の内材になつてゐる、私なしに彼女の文學は編まれることはなかつたであらう、私は彼女の心に養はれてゐるスズメの雛みたいな物なのだ。併し冴野よ。文學といふ奴は大した奴だ、これほどの私は紫苑の上の考へる仕事を壊さうとしても、到底、壊しきれる物ではない、紫苑の上自身が抹殺しないかぎり、數々の和歌はもはや人間のちからでは削除することの出來ない、言はばすでに天上の物でさへある。私はこのやうな女と暮すことに不倖を感じてゐる、物を書くことの恐ろしさ、そんな不必要な物を抱いてゐて、人間に憩らひがあると思ふか、偉いといふことに女の美しさがある筈はない。私のほしい物は失くなり、私に要らない物が日毎に積み重ねられてゐる。私は嘆いてそなたを得たのだ。冴野は生きてその生きを失つてゐた私に、血をくれた。その血で私のこころは塗られてゐる。(p180)


読みながら、かつての恋人が私に私は愛に生きる女だと言ったことを思い出した。兼家が冴野に語ることばはその人のことばのように思えた。
懐かしく遠い温かい記憶に寄添いながらこの本を読んだ。