2015/10/20

太宰治『信天翁』(昭和17年発行/昭南書房)


昭和10年(27歳)〜昭和15年(32歳)までに書かれたエッセイ集。装幀は宮村十吉氏。
すごく良かったので2度読みしました。
沢山付箋を貼ったので、いくつかメモしておきます。()内は私の感想。旧仮名遣いは新仮名に換えてあります。


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「敗北の歌」より

鞭影への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである。

ぼくは新しい理論を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。



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「難解」より

文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。



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「書簡集」より

かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇くらいに譚詩十篇くらいのいい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、譚詩一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対にないもの。



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「 in a world 」より

芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問いを連発して論敵をなやましたものだ、(中略)芥川はこの「つまり」を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては看護婦、子守娘にさえ易々とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。動かざる、久遠の真理を、いますぐ、この手で掴みたかった。



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「生きて行く力」
いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。(うまいこと言う。くすっと笑ってしまった)



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「創世記」より

愛は言葉だ。おれたち、弱く無能なのだから、言葉だけでもよくして見せよう。その他のこと、人をよろこばせてあげ得る何をおれたちは持っているのか。

言葉で表現できぬ愛情は、まことに深き愛ではない。むづかしきこと、どこにも無い。むづかしいものは愛ではない。

いまの世の人、やさしき一語に餓えて居る。ことにも異性のやさしき一語に。(いつの世も変わらないのだなぁと思う)



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「古典龍頭蛇尾」より(本当は全文引用したい)

 日本文学に就いて、いつわりなき感想をしたためようとしたのであるが、あたせるかな、まごついてしまった。いやらしい、いやらしい、感想の感想の、感想の感想が、鳴戸の渦のようにあとからあとから湧いて出て、そこら一ぱいにはんらんし、手のつけようもなくなった。この机邊のどろどろの洪水を、たたきころして凝結させ、千代紙細工のように切り張りして、そうしてひとつの文章に仕立てあげるのが、これまでの私の手段であった。けれども、きょうはこの書斎一ぱいのはんらんを、はんらんのままに掬いとって、もやもや写してやろうと企てた。きっと、うまくゆくだろう。

「伝統。」という言葉の定義はむづかしい。(中略)伝統とは、自信の歴史であり、日々の自恃の堆積である。

 日本文学の伝統は、美術、音楽のそれにくらべ、げんざい、最も微弱である私たちの世代の文学に、どんな工合いの影響を興えているだろう。思いついたままを書きしるす。
 答。ちっとも。

 日本の古典は、まさしく、死都である。むかしはここで綠酒を汲んだ。菊の花を眺めた。それを今日の文学にとりいれて、どうのこうのではなしに、古典は古典として独自のたのしみがあり、そうして、それだけのもであろう。



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「音に就いて」より

 音の効果的な適用は、市井文学、いわば世話物に多い様である。(中略)聖書や源氏物語に音はない。全くのサイレントである。



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「晩年に就いて」より(本当は全文引用したい)

 私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。

 あのね、読んで面白くない小説はね、それは下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。

 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分ひとりで、ふっと発見するものです。



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「答案落第」より

 私は、思いちがいしていた。このレースは百メートル競走では、なかったのだ。千メートル、五千メートル、いやいや、もっとながい大マラソンであった。



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「緒方氏を殺した者」より

 うっとうしいことである。作家がいけないのである。作家精神がいけないのである。不幸がそんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨てることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。



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「一歩前進二歩退却」より

 日本だけではないようである。また、文学だけではないようである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気がかりになる。

 作家の私生活、底の底まで剥がそうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。



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「正直ノオト」
藝術に、意義や利益の効能書を、ほしがる人は、かえって、自分の生きていることに自信を持てない病弱者なのだ。



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「春の盗賊」より

小説の中に「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。

フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。

くるしいことには、私は六十、七十まで生きのびて、老大家と言われるほどの男にならなければ、いけない状勢に立ちいたってしまったのである。私はそれを、多くの人に約束した。あざむいてはならぬ。(31歳の時はこんなことを書いていたのかと驚いた)



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「諸君の位置」より

いまは、世間の人の真似をするね。美しいものの存在を信じ、それを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは在るのだ。学生の期間にだけ、それは在るのだ。




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「義務」より

どうも、私の文章の vocabulary は大袈裟なものばかりで、それゆえ、人にも反撥を感じさせる様子であるが、どうも私は「北方の百姓」の血をたっぷり受けているので、「高いのは地声」という宿命を持っているらしく、その点に於いては、無用の警戒心は不要にしてもらいたい。

義務が、私のいのちを支えてくれている。



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「自信の無さ」より

私たちは、この「自信の無さ」を大事にしたいと思います。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から前例の無い見事な花の咲くことを、わたしは祈念しています。



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「作家の像」より

 随筆は小説と違って、作者の言葉も「なま」であるから、よっぽど気を附けて書かない事には、あらぬ隣人をさえ傷つける。



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「かすかな声」より

 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に生きている。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。


「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」


自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。


「藝術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」

「藝術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」



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山崎剛平 随筆集「水郷記」

「貪婪禍」は「どんらんか」で良いのかしら?