2010/10/15

『エクスタシーの湖』スティーヴ・エリクソン(筑摩書房/越川芳明訳)


今、佐藤泰志とエリクソンを読んでいる。
佐藤泰志の方が一区切りついたので(海炭市叙景、移動動物園、きみの鳥はうたえる、黄金の服、鬼ガ島、そこのみにて光輝く、大きなハードルと小さなハードル、納屋のように広い心、を読み、何作かの詩とエッセイを読んだところ)基本的にはエリクソンをメインで読んでいる。

エクスタシーの湖という小説には「ヴィジョン」という言葉が出てくる。
それは文字通りであり、夢でありパラレルワールドであり、過去であり未来であり、意思であり記憶である。
とある場面、"十五分と経たない前に起こった出来事が「現在」に引き返してきた" りする。


自分の10代までを思い出す。
10代までの(実家住まいだった時までの)私は不吉なことだけに関する予知とヴィジョンを抱えていた。
音もなく玄関から入ってくる男性や、後部座席に座っている女の子や、夜ごとベッドの足元に現れる老婆や、寝ている私の身体の上で飛び跳ねる子供や、死んだはずの飼い猫とか、私の見る夢は現実よりもリアルだったから、それが夢なのか現実なのか分からなかった。
自分のいる世界は他のみんなと同じ世界であるはずなのに、私には他のみんなが見えるもの以外が見えたから時々自分の世界が分からなくなった。

ヴィジョン。エリクソンの小説を10代の頃に読んでいたら私はどう感じただろう。

実家を出てから私はヴィジョンを見なくなった。
夢と現実がごちゃ混ぜになることもなくなった。
見たいヴィジョンさえ見れなくなった。
原因不明の病や慢性的な頭痛がなくなり肉体的に健やかになった。

今思い出してみると、あの頃の自分は自分ですらないように思える。どこか別の世界にいる私のヴィジョンとしてのもうひとりの私。私であって私でない私。

何かを失ったのか、余計な何かが削ぎ落とされたのか、どちらにせよ10代の頃の自分を懐かしく思い出した。