2011/02/10

『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ(河島英昭訳/東京創元社)





帯にはこう書かれている。
< 中世、異端、「ヨハネの黙示録」、暗号、アリストテレース、博物誌、記号論、ミステリ・・・・そして何より、読者のあらゆる楽しみがここにはある。>


そう、まさにその通り。
しかし、それは読み終わった時(もしくは少し読み進めてから)の感想。
表紙を開いた瞬間、びっしりと書かれた小さな文字が現れる。その時点で読み始めるのにちょっとした気合いがいる。「しまった、読めないかも」とも思う。
でもその小さな文字はほんの数ページの序章だけでその後は普通のサイズの文字になるから、諦めずに読むに限る。
なぜなら内容はとても興味深く面白くて、どんどんと読めてしまうから(とはいえ、語り手の若い見習修道士アドソの心情や考察やらを述べる部分になると私は必ずといっていいくらい眠くなってしまったのだが、、、)。


最初の序章は作品名と共に作者の作品における重要な定義のようなものとして在る。
つまり「手記だ、当然のことながら」で始まる序章はこの作品全体の在り方を提示している。
書物の書物。
そしてさらに内容としても、<言葉という> <しるしという> <書物という> 概念が作品の中にふんだんに生かされて在る。


ウンベルト・エーコは記号論学者である。そしてイタリア人である。
だからただの小説ではないのだ。ただのミステリーではないのだ。
エーコはカルヴィーノに影響を受けていると解説にあった。なるほど、そう言われてみれば似ているところがあると思った。『宿命の交わる城』もただの小説じゃない。ものすごく考えられて作られた小説だ。練り上げられた作品というのはその頃のイタリア文学超前衛派の特性みたいなものらしい。
それからボルヘスも出て来た。物語の中に。最初にその登場人物の名前が出て来た時に私はふとボルヘスを思い出していたから、解説を読んでそれが正しいことを知って驚いた。


と、まぁ余計なことを色々言ってしまったけど、
深く読もうと思えばそこには様々な楽しみがある作品ではあるが、知識がなくても文学に精通していなくても楽しめる作品でもある。
現に私なんて記号論だとかキリスト教だとか全く分からないが、面白いと思えたしスゴい作品だということは分かった。
普通の人が読んでもそこにどんな意味があるのかが分かる書き方をしてくれている(ちゃんと手を差し伸べてくれている)のは本当にすごいと思う。ベストセラーになるのがわかる。

* * * * *


私が小説として最も興味深く読んだところはキリスト教の正統と異端の部分(但し異端の拷問や死についての描写はちょっと残虐すぎて辛かった)と、イタリアの歴史や中世ヨーロッパの在り方だ。
敬虔なるキリスト教信者にとって『聖書』(福音書や黙示録なども含む)は『六法全書』と同じようなもので、彼らにとっての法律は聖書に記されていることなのだ。
それでも『聖書』はひとつなのに対して、キリスト教にはいくつもの宗派(セクト)が在る。
そしてそのそれぞれの宗派によって聖書の解釈はそれぞれに異なる。国によって国民性もそれぞれに異なる。
それぞれの人がそれぞれの信じる真理を述べる。そこが面白い。
ウィリアムはいつでも正しいことを述べる。
学僧である彼は科学やら数学やらを用いて真理を追求し導き出す。
過激だったり偏ったりする真理を持つ人々と対比させることで、双方の説教がより面白みを増し、ウィリアムの現代的な考え方が際立っている。


舞台となるイタリアの修道院に様々な国やイタリアの各地方から集まってきた修道僧たちという図は、私が若い時に一人旅をしてポルトガルの田舎町のペンサオに滞在していた時のことを思い出させた。
そのペンサオに集まった宿泊客はみんな違う国の人間だった。その時は英語で会話をしたが、この小説の中、中世という時代ではそういうわけにはいかない。
語り手のアドソはドイツ人で、アドソの師匠ウィリアムはイギリス人で、舞台はイタリアである。ラテン語があり、ギリシャ語があり、アラビア語があり、と様々な言語が出てくる。これは先に書いたこと(しるしというもの→記号論)に繋がっていく仕組みになっているわけである。


実に面白く興味深い本だった。